10/8 子どもの自立と保護を公権力がどう支えるか
埼玉県議会で、児童虐待禁止条例の改正が自民党から提案されて、その提案があまりにも粗雑で大騒動になっています。
条例改正の内容としては、小学校3年生の子どもを大人のいない状態にしておくと保護者が児童虐待に問われること、そうした子どもがいたら通報しなければならないことが追加されるものです。
一般的に聞けばは聞き流してしまう話になりかねませんが、子どもだけの状態におかざるを得ない場面というのは日常のなかでいろいろあります。子どもが一人になる様々なケースを、非自民の民主フォーラムの辻こうじ議員、無所属県民会議の八子議員がどこからが違法で、どこからが許容範囲なのか質疑をしたところ、提案者側の自民党の議員の答弁では、ごみ出しで少しの間でも子どもだけにすれば虐待に該当するという答弁が行われて、保護者や子育てを経験した人たちから、非現実的だし、子育てが行き詰まるとして大きな批判になっています。マスコミの報道にもなっています。(埼玉新聞,テレビ朝日,毎日新聞 )
私も批判している方々と同じ受け止めをしています。改正条例は廃案にした方がよいと思います。悪質なネグレクトは今も児童虐待防止法で法的に対応するものとなっています。それ以上のネグレクトの定義拡大と子どもの安全確保策は、県民生活の自由にも関わる案件だったり、子どもの育ちの自立と関わる問題で、もっと慎重に取り扱うべき問題です。
議会の議事テクニカルな話としては、詰め切れていない話が多いので、もう一度、委員会に条例改正を再付託して、次回の県議会以降に継続審議にするのが穏当な対処法だと思います。
子どもの育ちのなかで、親をはじめとするおとなの保護から離れていくことはきれいに線を引ける問題ではなくて、だんだん手を離れていくものです。子どもだけの集団や、子どもだけの時間のなかで、本を読んだり、遊びを体得したり、身近な未知の世界に触れながら、問題解決する力を体得していくものです。もちろんそこにリスクはゼロではありませんが、リスクを避けられる限り、子ども自身の力を信じていく時間と空間が必要です。またそれが有意義な時間にもなります。
もちろん、その逆で、かなり長期間保護を求める子どももいて保護してやらねばならず、それが人間社会の多様性があります。
子どものためだけではありません。生活を維持していく必要もあるし、おとなも平常心を作る時間も必要です。そういう意味では、すべて子どもを保護下に置けというのは無理筋の話で、埼玉県のように核家族が多い地域では、現実離れした話とも言えます。私自身がそれを経験しています。
子どもがひとりでいたり、子どもだけの場所があったりすることを、どこから放置の虐待「ネグレクト」と定義するかは、難しい問題で、県議会の答弁で常識外れな定義は虐待ではない、と提案者側が言い切らない限り、この条例は、こうした子どもの自立に向かった力をそぐことになると思います。
また国の子ども家庭庁で推進している、こどもの居場所づくりという政策目標にも矛盾する条例になる可能性もあります。学校と家庭しかない子どもの居場所が人によっては苦痛しかないという現実に、学校でも家庭でもない子どもの社会空間をどうやって形成するかという政策が動かなくなる可能性があります。
おとな社会からの子どもへの管理の欲求というのは、今ものすごく広がっているなと思っています。これは今回の自民党に限らず、市議会の放課後児童クラブの運営のあり方の議論なども、子どもが自分で生活する空間を見つけていくことのリスク要因を高く見積もりすぎて、ハコからハコに子どもを移し替える話ばかりが増殖してしまっています。これは非自民の側の議員が突っつきすぎて起きている現象で、公権力に近いところにいてもの言う人が、子どもの自立と安全とのバランスをどう見守るかというセンスが問われていると思います。
地元の自民党所属の市議会議員と意見交換をしましたが、県議会議員からは今回の条例改正の動機は「パチンコ店の駐車場の車内で子どもが放置される」ようなネグレクト事例を想定して作った、と説明を受けている、と聞きました。朝霞市とその周辺での過去の深刻な虐待事例は、子どもを置いて旅行に行ってしまった話がありました。その限りにおいては私も問題は共有できますが、そこで保護者の責任だけに帰すアプローチをするのが自民党らしいと感じています。
過去の虐待事例からは、産んでしまった、産ませてしまった親たちの子育ての技能支援や、息抜き、子育ての苦労の共有など福祉的なアプローチが重要で、親としてしっかりしろ、犯罪になるぞ、というおどかしではあまりうまくいかないだろうと見ています(この観点で、ただ単に母子手帳の交付事務の便利さだけが評価項目に成り下がっている朝霞市の子育て包括支援センターの仕事のあり方は大問題だと思っています)。
政治家なので政治的な話もします。
今回、そうしたなかで反対運動が起こり、廃案をめざすことになるわけですが、廃案のエネルギーを高めていくために、提案した県議会自民党に、統一教会などの影を指摘するツィッターの投稿が目立ちました。
擁護するのではありませんが、そのような流れではないと見ています。先に申したように駐車場での車内放置案件のような、善意が発端だとみています。提案者にならなかった6人の自民党の議員名を見ていると、もっと強烈な右翼議員もいて、右翼イデオロギーから出てきた条例というよりも、県民の生活の自由に関わる条例を、自分たちの通俗道徳のなかで雑に処理して提案、説明、答弁した結果、こんなことになっていると見ています。
この3年ぐらい埼玉県議会では自民党が、議員立法で条例をたくさん作っています(非自民の私としては自民党の宣伝みたいになって癪ですが)。そのことはこの夏の自治体学会の分科会でも、地方議会の議員立法のあり方の一つの題材として県議会自民党の議員がパネリストとして登壇し、取り上げられ、議員立法のあり方として研究材料になっています。
こうして誕生した条例は、(内容の妥当性や十分さは横においても)エスカレーターで歩くのを禁止したり、ヤングケアラーへの支援、犯罪被害者への支援、住宅確保が困難な人への支援などがあり、非自民の側が問題提起することが得意だった課題を、自民党的にアレンジして、数の力を誇示するように実現してきたのが現在の県議会の状況です。
議員自身が話し合って政策を作り、社会問題を解決していこうという流れは、行政にお願いや正解を要求するような行動しかなかった地方議会人としては、自律した前向きなものです。ただし、そのやり方に問題があり、さらに今回の条例に関しては作業が雑だったのではないか、ということと、意見の違う議員との共同作業が足りなかったのではないか、と指摘したいと思います。
昔、議会改革のイベントで、議員立法をがんばろうという基調に対して、鳥取県知事をされた片山善博さんが「条例って、住民に義務や負担を課すことができる本質があるから、ただ作ればいいと考えるのは危険だ」と警鐘を鳴らしたのを思い出します。何かの正義を条例で解決しようとするときには、その必要性や副作用などを慎重に検討する必要があるのだろうと思います。
議会なので、考え方の違う政党の議員もいるのですから、もっと話し合って、問題点や副作用が起きそうなところをバグ潰しのように検証してもらい、できるだけ歩み寄って条例を作るというお作法が必要だったのではないかと思います。これみよがしの党派による正義の独占は政治論としてありえますが、県民生活に関われ政策ではこのような間違いを起こすのだと思います。
本来それらを是正するのが県議会の委員会審議だと思うのですが、深刻な問題提起をしても継続審議にもせず、止まらない状況や、答弁者が法を作るときに意識するべき「可罰的違法性」みたいなものを考慮していなかったのではないかと思わざるをえない展開などを聞いていると、数で結論を急ぐ正義のあり方の問題を改めて認識するものです。
政治家をやっていると、一般人がつい口をつく、多数派の他人の自由を奪うことになる無自覚な意見にしばしばさらされることがあります。そこに公権力が動くべき問題があるときには何かすることになりまが、まずは起きていることを、社会全体や自由や民主主義からはどうとらえるべきかと相対化して、問題の原因を抽出していくことが必要です。そのために本を読んだり、勉強会出たり、学識経験者に意見求めて整理をする必要があります。その作業を甘くみて急ぎすぎて、自分の思い込みを思い込みと相対化せずに政策を作ってしまうと、今回のように現実離れした話になるなと思っています。
私も、地域の方々と話をしていると、あの人はネグレクトしているよね、親としての資質がどうかと思う、みたいな会話をされることがあります。そういう会話を蓄積して、無責任な問題親が最近は多い、みたいな像をつくって議論するとこういうことになるんだろうなと思っています。その親がどうしてネグレクトをしているのか、ということに着目していかずに逮捕するぞみたいな脅かしだけでは問題解決にはならないだろうと思っています。
県議会自民党の暴走に、自民党の国会議員の何人か(県内では柴山代議士と牧原代議士)が懸念を示して手を突っ込もうとしています。止めてくれればありがたいのですが、地方自治という観点からは問題ではないかと思います。また両代議士は、この条例以上に、もっと保守的な家族のあり方まで手を突っ込んでくる政策を提唱しています。注意が必要だと思います。
最後に県議会のあり方です。自民党が数の力をごりごりやれるのは、所沢、越谷、川越などの一部の選挙区以外、県議会で定数1~2人の選挙区ばかりで占められ、衆議院みたいに比例復活という制度がないため、長く政権政党にあって、町内会や商工会やPTAなどの社会団体の役員経験者に応援されやすい自民党以外の候補者が出にくい環境があるからです。そのなかで低投票率、無競争という環境のなかで自民党が6割もの議席を取っているところがあります。
国政選挙の比例代表の得票結果などを見ると、必ずしも埼玉県は自民党が6割も議席を占められるほどの県民の支持はありません。数の力で良いことをやろうとすることは過渡的にあったとしても、県民の多くの考え方を反映していないかも知れない、という謙虚さが必要だと思います。
●先の統一選で当選した、朝霞市選挙区の県議は、この議案にどうするつもりなのでしょうか。一人は自民党なので党議に拘束されますが、もう一方は自民党に入りたがっているという話を聞いています。試されると思います。
●改正条例が成立したとき、「可罰的違法性」という法律を超える判断が入るので、県議会委員会の答弁で違法だと例示された、ごみ出しに子どもを独りにしたぐらいで違法、通報されて役所が動く、ということは直ちに起きないと思います。
一方、罰則のない法律の運用であることなのですが、離婚訴訟や、事故における損害賠償訴訟などで、この条例改正が参照されて判断に入る可能性は否定できません。また長期的には、親の自己責任を強調し、子どもにおとなの保護を埋め尽くすべきという英米のような議論になっていけば、この改正条項が引っ張りだされ、どのように法の運用が展開されるかはわからない条例改正だと思います。