日頃の準備不足を安全圏にいる我々が買い占めをすることによって、物不足に拍車をかけて被災地への物の流れがさらに滞らせることはやめてほしい。
●こんなときに「合成の誤謬」なんて言葉を使ってよいものかと思うが、ややそんなことを感じる。
計画停電の必要性は理解できるが、もっとも公共性の高い電車への通電をやめることで、結果としてガソリンの浪費が行われている。これは被災地のガソリン不足に拍車をかけている。停電を実施して、その一方でもっと大きなエネルギー浪費が行われているなら、やり方が完全に間違っている。
同じようなことが、乾電池、使い捨てカイロ、ペットボトルの水についておきている。
マイカーが増えれば当然渋滞がひどくなり、そのことで物流が滞る。物がなくなるの悪循環が起きる。そのことは声のでかい首都圏の人が最も被害が少なくなり、被災地への物流が犠牲になる。
●計画停電をするならするで、きちんと方針を貫徹しないと、停電はどうせ起こらないという見込みで行動する人が増える。事故のもとである。管理組合役員をしていてエレベーターへの閉じこめが起きないか、不安でいる。余った電気は、医療機関や公共施設、信号設備、電車など、生命や公共性で優先度の高いところに配電するべきではないか。特定の施設や設備だけ通電させるのは技術的にできなかったり、労力がかかるのかも知れないが。
●計画停電や原発をめぐる情報の取り扱いで、お役所仕事の度合いでは、東電に勝るものはない、と実感した。むしろそうした批判をこれまで浴びてきた自治体の方が、東電の流す実態不明の情報をもとに計画停電の実施などについて相当頭をひねって工夫して情報を流している。しかし、そうした努力を各自治体職員がそれぞれで頭をひねってやっていることは無駄ではないか。東電が自治体職員と同等の努力をすれば何百もの自治体職員が無駄な労力を使わずに済む。
●通勤電車を動かすことは重要だと思う。一つは、首都圏に住んでいる労働者を生産活動に戻して、経済活動を復活させないと、被災地を復興させるだけの体力を失う危険性がある。一つは、多数派ではないが少なくない数、ふだん日中働いている人が通勤できずに家にいることが、買い占め等の行動に走らせているような気がしている。少し遅れて出勤したら、夫婦連れで大きなビニル袋を抱えて歩いている人が多い。通勤している人も無理な通勤でほんとうに疲弊している。戦争末期、電車の中での日本人がみんな疲れて下向いていたというルポルタージュを読んだことがあるが(出典失念)、そんな雰囲気である。
●こうした混乱状況に際して、証券取引所を開設しているのがいいことなのかわからない。株価を下げて、さらに社会に破局をイメージさせるようなムードづくりをしてしまう。それと統一自治体選挙は全国で延期すべきである。地震被災地や原発災害への心配とそれに伴う情報でめいっぱい、市民生活は計画停電の情報確認に追われ、政策論争が「不謹慎」な事態になっている。その状態でどのように公職を選ぶのだろうか。インディアンポーカーみたいな選挙は民主主義の主旨に反し、やるべきではない。
●朝霞市議会が震災で一般質問を中止と。市職員の足手まといになるからということらしいが、非常時に役に立たない行動しかできない存在と自覚しているなら、自治体議会なんか解散してしまえ、と思う。職員に足手まといになるような議会習慣ばっかり作って、利益と交換ばかりしてきたからこんな判断になっているのだろう。議員どうしで何ができるか、問題はないか議論すればいいことではないか。何もかも市職員に答弁を求めるから行政の足手まといにしかならない。開くのが不適切というなら、延期すればよい。戦時中がそうだったが、議論もしないで議案を採決するための議会なんて、自らの存在意義を否定するものだ。
少なくとも、議会としての本分を発揮できないなら、一般質問中止に賛成した議員は、市役所の震災対策が終わるまで、議員報酬を全額返上して被災地に寄附でもしてくれ、と思う。
どうせこんなことは与党会派からの判断だろうから、そうなれば富岡市長も、議会対策がいならなくなった職務の分は報酬を返上すべきだろう。
●我が家が計画停電でどのグループに属しているのか未だにわからない。自宅で使っている電気にたいしたものはないのでよいのだが。