2010.11.17

11/16 地域から変える仕事に就く

議員インターンシップを派遣するNPO代表の佐藤大吾さん「20代コネなしが市議会議員になる方法」を読む。

表紙のうたい文句が「学歴・職歴・関係なし、市区町村議員になれる確立82.6%」というのがダイヤモンド社らしい品格でちょっと敬遠してみたが、内容はとてもよい。市議になりだけの人は読むべからず。市議会議員になった人がどんなことやっているのか知りたい市民は読むべき。著者は選挙コンサルタントではないので、選挙に関して出し惜しみする情報もなく、選挙研究にも有効だと思う。

同書のなかで、近所の選挙の支援で何度がご一緒したことのある、27歳で初当選された、和光市の井上わたる市議が取り上げられているが、紹介されている事例の中でもっとも無理なくやれるやり方をしていて、ぬきんでていると感じた。実際の選挙戦の中でも、井上さんの判断は至極、効率的で汚れのなく高い品質を維持するやり方だと感じた。彼のそうした能力が最大限に発揮されたのは和光市長選だったと思う。

ただ首都圏以外の地域の候補者は、後援会を作ったり、電話かけをきっちりやったりしないと当選できないような事例もあって、こうした戦法がとれるのは、首都圏、それも東京通勤者のとりわけ多い地域の特権かも知れない。

●ねんきん特別便が届く。これで2回目。これの善し悪しはともかく、数量的に年金が積み上がっていくのが見られるのが面白い。というのは勤め人にとってのメリットなのかも知れない。国民年金を、高い国保料とともにやっとこさ払っているような職種の人には腹立たしいのかも知れない。
これを見て、若手議員たちが成長していくと、国民年金しか公的年金がなく、変な金でも貯め込まなくては、ひどい年金水準になってしまう。かつては議員は有産者による評議員みたいな存在だったが、徐々に業務が細かい政策調整にシフトし、無産者からも政治家になる今の地方議員の実態から、そういう扱いも変だと思う。
議員年金を廃止せよと絶叫する人たちの気持ちはわかるが、そうなると議員の年金は国民年金だけの丸裸になってしまう。議員報酬は税金では給与所得と見なされ、事実上勤め人みたいな身分におかれるのに、社会保険はどうして厚生年金にならないのか不思議である。議員年金として公費を突っ込むからおかしくなるが、公費の突っ込む分を厚生年金の事業主負担として扱えば、民間との扱いの格差はなく、また民間経験と通算されて年金が支給されるために、より議員と一般市民の間を柔軟に行ったり来たりできるようになる。

●ひさしぶりにめくりやすい紙質の本に出会う。最近、製本を外国に出しているせいか、紙の目と逆に印刷・製本されている文庫本が多い。天下の岩波文庫すら多くて残念である。

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2009.03.30

3/30 学級会並みの法律文化に郷原信郎氏のいい批判

小沢一郎を政治資金規正法でやるのは難しい、とあちこちで言っている郷原信郎「思考停止社会 ~「遵守」に蝕まれる日本」(講談社現代新書)を読む。

小沢一郎の疑惑に対する法的な検証がきちんとしているので、読んでみた。

私の守備範囲で言うと、社会保険庁の「改ざん」が社会保険庁の職員の悪意によるものなのか、という疑問に、初めてこたえてくれる文章であったと思う。調査委員会の委員をつとめたことから、そのことの意味は大きい。

「改ざん」と呼ばれることをしなければ、労働者は年金権を失い、経営者は未納保険料のために資産差し押さえを受け、事業も雇用も年金もなくなっていた危険性かあったと著者は指摘する。そうした中で、年金管理を担う職員として、何とかやりくりする手段として、すでに納められていた保険料の中で滞納金を整理する必要があったのではないか、と言う。少なくともマスコミが言うように社会保険庁が、必要もないのに改ざんを経営者に勧めていたなどという事実はなかったと郷原氏は指摘する。

社会保険庁とその職員を必要以上に貶めて、普通なら失職しないような軽微なペナルティーまで含めて新組織移行の際に失職をさせるところまで報道は煽った。その結果、公的年金を管理する新会社に、社会保険庁職員は移りたがらず定員割れでスタートする様相。今後もバッシングもおさまる雰囲気もなく、新組織発足とともに、社会保険庁職員がいくらふんばっても努力しても、事務が維持できず、公的年金が崩壊するところまでいく可能性もある。

社会保険庁や職員への必要以上のバッシング、そしてそこから広がる担い手の不足、そして次には公的年金の管理の崩壊、それは、長妻氏の背後にいるアメリカ資本の思うツボなんだろう、と私は何度か指摘してきたが、ここにきて、現実味をおびている。

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2008.10.27

10/26 匿名記事

新採者説明会の助力の往復、上杉隆「ジャーナリズムの崩壊」を読む。記者クラブと政治部記者の問題点を指摘している。

上杉氏は、新聞の無署名記事の批判をしている。そういえば鳩山大臣を死に神呼ばわりした朝日新聞「素粒子」はひどかったなぁ、と思ったら、上杉氏もこれを題材に、無署名コラムを批判している。私も無署名記事についてずっと疑問に思ってきた。
マスコミは報道の「中立」が前提だという。そんなバカなと私は思うが、一応、そのタテマエは客観的報道という意味で捉えておきたい。その上で、そうであるならなおさら社としての中立を超えて、書き手の個人の感覚が文章にどうしても入ってくるのだから、匿名はないだろ、と思うのだ。またジャーナリストの自由を守るためにも、中立であることを保ちたい社の方針で報道が介入されないように、記事はジャーナリストの個人責任であり、署名記事であるべきだと思っている。

上杉氏は、ブログについても海外は情報発信者が実名でやっている、と指摘している。
私はこのブログを実名で書いている。ネット上で実名でやって大丈夫なのか、という心配をブログを読んでいただいている方からよく言われている。しかし大事なことのために相手には厳しいことも書かざるを得ないし、そうである以上、匿名は卑怯だと思っているし、私の素性なんかも含めて、反論する必要があればできるように実名で書いている。私自身も、そういうバランスの中で考えながら文章を書くようにしている。私に情報をくれる人も、その方が信頼して情報を寄せてくれる。ときどき嫌な思いをすることもあるが、かえってわかってくれる人たちが増えてくれることもありがたい。

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2008.06.08

6/8 法の支配を重視する早川代議士

「日本をだめにした10の裁判」の書評を書いた早川忠孝代議士のブログが、とても共感をもって読んだ。この本は第一章以外はおおよそ私も同感した本である。

法治国家という言葉はよく使われる。およそ人治主義に対するものとして使われるが、そこにまとわりつく「悪法も法なり」は、かなり誤解されて、この社会で公認道徳となっている。しかし、この本で最も強く主張している「法の支配」の貫徹は、「悪法は法でない」として、この社会から不正義を裁判を通じて排除していくことであり、そのためには裁判所が重要な役割を負うということである。

そのことを早川代議士がきちんと押さえられており、非常に心強い思いを持った。児童ポルノ規制法の改正に細部までこだわった代議士の感覚がわかったように思う。

●同書で、最高裁の国民審査の問題を取り上げている。最高裁の国民審査が全く機能しないのは、×をつけないかぎり全て信任票とみなされること、15人の裁判官がどのような判決を下しているのかわからないことにある。私も、よくわからない。次の国民審査では、わかる人は、良質な裁判官以外×を、わからない人はとりあえず全員×をつける運動でもした方がいいと思う。

●この問題意識は、私がさきの朝霞市議会議員選挙で提起して運動をした問題意識と同じである。大選挙区制で政党隠しが行われる市議会議員選挙では、さしたる投票基準がなく、数名の落選者をターゲットに作って運動をすれば他の人はたいてい当選できる(実際はそこまで甘くないが)。そして朝霞市の場合、その議員がどういう思想をもって政治に関わっているかということはおろか、公式情報であるはずの議会での各議案に対する賛否なども公表されない。半年近くたってインターネットにようやく本会議の議事録が掲載される程度である。

●今日の朝日新聞に、同紙が行った議会改革のアンケート調査の結果が出た。議会改革というと議員を減らす、議員の報酬を減らす、そんなことしかされてこなかったが、本当に求められる仕事をしているの?という疑問に初めてマスコミが斬り込んだ調査である。その中で議会の賛否の状況を市民に報告していない議会が1276議会84.5%もある。議員立法は全体の1割だけ、傍聴規制を平気でやっている議会。こんなことでは自治体議会はただの税金泥棒と言われても仕方がないだろう。

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2007.11.07

11/7 島本慈子さんに会えなかった

昼休み、市議選向けのシンポジウムのちらしを作る。
いろいろ主張はあるけど、そういうことを出さず、何が課題かをわかって意識的に投票してもらうことをめざしているシンポジウム。

そのつかの間、電話がかかってきたので対応していたら、何と職場に「ルポ解雇」「住宅喪失」の著者である島本慈子さんがお見えになっていたらしくて、訪問を受けた同僚に「紹介したかったのになぁ~」と言われ、私も残念。

島本さんのルポルタージュは、つまらないことで人間は厳しい状況におかれるようになるということが、ほんとうによくわかる。いろいろな人の庇護のもとに生きているのに、報われないのはがんばりが足りないからだ、と簡単に言ってのける人に読ませたい本だ。

夕方、非正規社員の組合づくりの相談を受けている人のそのまた相談を受ける。混乱する職場、約束を守らない雇用におかれているらしい。
当人が経営者に一矢報いたいのか、よい環境で働き続けたいのか、めざすところでたたかい方がずいぶん変わるから、当人の希望をきちんと聞いて、労働組合はきちんと選んだ方がいいとアドバイスする。

●利用する東上線の駅に掲出されていた東武労組の赤旗が早くも撤収されていた。こういう時代だからこそ、労働運動が少しでも見えることをするのが、組合もなく、組合何かしろよ、と思っている利用者に自覚を促すんじゃないかと思う。
昔なんか、鉄道会社の施設に赤旗や横断幕が掲出されているのに、誰も違和感を持っていなかった。誰にも迷惑かけることではないのに、最近は、そのこと自体で悪く言われたりする。
鉄道会社は、組合旗を掲出することを自粛させるよりも、本質的なサービスを改善すべきだし、そのためには、経営側がもっと血を流して貰わなくてはならないと思う。組合旗を施設に貼るということは、そこが組合として大事な場所だと宣言している意味も持つ。あながち悪いことばかりではないと思う。
美観とか、管理運営事項だとかがあるのだと思うが、旗の撤収は残念なことだと思う。駅員さんに「組合旗、何で撤収しちゃったの?組合、がんばってよ」とエールを送ったら、恥ずかしそうに「そのうちまた出します」と言ってくれた。たぶん、クレーム言う人はいるだろうけど、面白がっているのにエール送る人などそんなにいなくて、当の駅員たちも、恥ずかしいなんて思ってしまっては、ますます組合離れをするし、それは残念だからだ。

●市役所の内部を知る人と電話で話をしたら、幹部職員が13人も退職してしまったという。私にはよくわからないが、公務員の娘に話を聴いたら、それは相当異常なことだという。
それ以外も政治的な左遷人事が大規模に行われたらしい。公務員関係の法律違反すれすれのひどい話だし同情するが、福祉や人権の話では、弱者の権利に冷ややかだった朝霞市職員。他人の権利を大切にしないと、自分の権利を守ってほしいときに、誰も守ってくれなくなるものだと思う。どうにか立ち上がった方がいいんじゃないかと思う。そして権利の大切さをわかったときに、市役所に頼み事に来る人の何を大切にし、何を自助努力に求めるべきか、という価値判断ができてくるのではないかと思う。

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2007.10.02

10/2 ヒトデ組織

●職場の大先輩に「ヒトデはクモよりなぜ強い」を貸していただいて読む。
スペイン軍にあっけなく滅ぼされたインカ帝国と滅ぼされなかったアパッチ族などを比較して、ほんとうに強い仕事とはどんな組織論を持つのかという面白い本だった。王様のもとに中央集権的な国をつくっていたインカ帝国は、王様を滅ぼされると同時に国が崩壊し、特定のリーダーを持たずに規範だけでつながっていたアパッチ族は、次から次に組織が生まれ変わり近代に至るまで滅ぼされなかった。

クモのような中央集権的な体の仕組みを持つ動物は、組織の頭をやられれば死に、末端であってもダメージに弱いところであれば組織を死に至らしめるが、ヒトデは、切っても叩いても組織が増殖する、という生態に比喩しながら、ダウンサイジングや、IT化が進んだこの社会では、中央集権的な組織づくりは時代の変化とともにあっけなく滅ぶと警告している。

大事なことは、何が大切であるかという価値、つまりイデオロギーをメンバーが共有し、各々が能力や機会をもちよりあい、お互いにそれを大切にしあうことが、ヒトデ的組織の強さを作るために大事なことだという。
旧民主党の組織論は、ヒトデ型だったんだなぁと思う。どうしようもない連中も多かったが、参加するおもしろさがあった。中央集権的な組織に変えてから、ただの議員後援会の連合会になってしまったように思う。

それと私の勤務先も、6年前までは、表向き中央集権的な組織であっても、実際の運営はヒトデ的な組織だったように思う。東京地検特捜部、コンプライアンス、外部監査、マネジメント、そういったものが入って、クモになってきているように思う。その良い面もあるけれども。

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2007.06.02

6/1 バブル青年が農相に

自殺した松岡前農相の公認に赤城徳彦氏が就任。ナイスの会みたいな雰囲気を感じる。
86年におじいちゃんから地盤を譲ってもらって初当選した。そのころ、マスコミが政治家の私生活をやたら報道したがっていた時代で、彼は選挙区が茨城なのに、外車で国会に通うという、バブル青年議員の代表選手みたいな紹介をされていた。
塩崎といい、何といい、赤城といい、どうしてこうも二世三世の生活感覚のない人間が大臣になるのか、ばかばかしくなる。

●この間読んだ本や雑誌記事。
保坂正康「50年前の憲法大論争」。1950年代の鳩山一郎が改憲改憲と騒いでいた頃の国会の議論が掲載されている。首相の改憲論はこの時代のままフリーズしていることがよくわかり、面白い。
井上薫「司法のしゃべりすぎ」。判決の主文に必要のないことを理由にあれこれ書き連ねて勝手に倫理を作っている裁判所の問題を指摘している。何の判決だかわからないが、加害者が加害者となったゆえんを勝手に無視して、大岡越前の猿まねをして加害者の憤懣を無視して俗流道徳を押しつける裁判官がいたことに何となくムカついていた。この本の主張はおおむねいいと思うが、例題が左翼の訴えた裁判の判決ばかり引き合いに出すことに、思想的なものを感じて深入りできなかった。
幻灯舎新書から加藤鷹「エリートセックス」が新刊で出ていた。この前読んだ本とそんなに中身が変わらないが、加藤鷹自身がどうしてそういう考え方を持てるようになったのかの経験談がいい。
村上正邦・平野貞夫・筆坂英世「参議院なんかいらない」。参議院の本質的な役割について、なまの議論として面白いが、6割はグチ話みたいで、読んでいて疲れる。政局話が好きな人にはいいと思う。この中では平野貞夫が一番まじめ。
雑誌「論座」の赤木智弘「丸山真男をひっぱたきたい」の続編「けっきょく自己責任ですか」を読む。何の価値も認められないフリーターが社会のためとして戦死して認められたい、という論理は成り立ちうると思うし、高学歴な左翼が無視してきた、使い捨て労働者のアイデンティティーをつきつけるには面白い表現だと思う。だからって戦争にかり出されて何になるのか、という冷徹な視点を失ってはならないと思う。
愚劣だと思ったのは、この間、フリーターを搾取して中産階級から上流階級に仲間入りしたのは、IT企業を騙るハゲタカや、人材派遣業の経営者たちなのに、そうした成り上がり者を否定せず、彼らを潰しても自分たちの分け前には影響しないと免罪し、中産階級や組織労働者を階級敵のように憎悪することだ。ここに赤木氏の限界があると思う。格差社会の進行は、組織労働者の既得権益なんかにあるわけではなくて、ハゲタカ同然のIT企業や人材派遣業の経営者の経済搾取にあるのではないか。昔は彼らは乗っ取り屋、ブローカー、手配師などと言われて、暴利を貪ることを追認された代わりに蔑まれた存在だったのに、今はニュービジネスとしてもてはやされ、就職(転職?)人気企業だったりする。
組織労働者の「既得権益」を破壊しても、そこで踏みとどまれたはずの能力ある労働者がフリーターになって、それまでのキャリア形成ができないできたフリーターの職を奪うだけだ、という冷静さを持たないかぎり、赤木氏は搾取され続けると思う。

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2007.05.12

5/11 意味のないこと

今週号の週刊文春を買う。
猪瀬直樹が「神社もフランチャイズで展開した」などと、わかりきったことを書いている。つまらない。ただ●●八幡とか、●●諏訪神社とか、そんなものがあるよ、というエッセイにすぎない。そういう神社がどうして全国に散在するのか、ということについて●●信仰があったから、という二段論法でまったく展開がない。神社のいくつかは「天孫族」が統一していく過程で制圧した、信仰と結びついた古代王権の残骸やその子孫たちのすみかであったことなど一言も触れておらず、深みがない。
フランチャイズが蔓延することが構造改革だと勘違いする、小泉構造改革派のちゃちい感性のなせる業だと思う。
逆に、フランチャイズのいくつかは宗教団体を足がかりに展開した、というルポでも書けばほんとうに面白いエッセイになるし、ネクラな猪瀬に向いていると思う。

それ以外の記事はおおむね面白い。なかには怒りをともにしたり、溜飲の下る記事もあった。

●カルト高橋史朗が出所の「親学」先送りへ。先送りは当たり前だと思うが、参院選の争点にして、自民党の家族観、女性観を社会に露わにしてほしかった。どうせまた選挙後に持ち出すのだろうが。
少子化が問題だといい、そして親学を押しつける。「親として基本的なこと」をわかっているような人は、ただでさえ仕事で細かいことを要求される時代なのに、子どものことまで義務感の負担は耐えられずなかなか子どもをつくらない。ちょっとおっちょこちょいぐらいの人が子どもをつくる。この社会状況のなかでミスマッチな議論だと思う。汐見稔幸さんだったか「昔の親は、子どもにいる場所、寝る場所、食べさせるもの、着るものを与えていればよかったのに、今の親は精神的なものまであれこれ要求される。そんな大変な時代に親になる人なんか奇特ですよ」というようなことを言っていたが、「親学」なんてそんなものだ。親になって苦労しているのに、子どもがいながら赤ちゃんのおむつも取り替えたことのないような人にあれこれ注文ばかりつけられてはたまらない。

●参院大分選挙区の野党候補者が一本化できなかったと、新聞各紙の政治欄に大きく報道される。全く残念な話だ。社民も民主も議席が自民党に渡ることを指をくわえてみるような結果になって、その意味を考えればいい。とくに社民は全国唯一の金城湯地とも言える選挙区でみすみす自滅をすれば、大分の野党第一党は社民党という大分の有権者のムードをぶちこわし、いよいよもって、大分でも野党支持者は社民党を見限る流れをつくってしまうだろう。そして野党の主導権は民主党に渡ることになるだろう。
また、大分民主で右翼的な存在でかつ社民排撃論を抱えているとみられる吉良代議士・足立参議のコンビが、熱心な小沢チルドレンで、小沢一郎が抑えられないのも情けない。

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2007.03.10

3/10 右の人たちの学習課題

●梅原猛「水底の歌」を読み終える。柿本人麿の死因と死んだ場所、そしてそうなった原因を探った論文。
ここでも梅原の得意分野である、持統天皇=藤原不比等による万世一系の天皇制の確立期における、藤原氏の政敵またはスケープゴートになった人の探究が行われている。柿本人麿は古事記や日本書紀のもとになった歴史観を作る役割が与えられ活躍したが、藤原氏の王朝支配の邪魔になり、女性問題を口実に左遷され、やがては死罪となったのではないかと分析していく。

梅原氏の歴史がすべてとは思わないが、それをかみしめながら、昨年の皇位継承順位をめぐる議論を振り返ると、日本会議などナショナリズムの諸グループが主張していたことは、全く日本の伝統ということとは無関係で、明治イデオロギーっぽいものに憧憬を抱く、思いこみでしかないことがわかる。
愛国心云々するなら、もっと歴史研究をやるべきで、ほんとうの日本の伝統はどこからどのように始まっているのか、と思う。
右だタカ派だと言われて今再評価されている中曽根元首相が紙一重で安っぽい右翼にならないで済んだのは、梅原氏など教養人との交流をやっていたからだということもわかる。

●朝日の夕刊に「人脈記・安倍政権の空気」という連載が載っている。安倍晋三周辺にいる人たちの人脈紹介。朝日にしては安倍人脈を美化している。菅総務相の行いが悪いので、マスコミへの恫喝を受けての取引記事が朝日にまで及んでいるのかと勘ぐってしまう。
5回目になる土曜日は、教育というテーマで「そもそも教育基本法が良くないから」という下村博文官房副長官が登場する。そして下村は「戦後政治は共同体や家族主義を壊してきた。母親が母乳を冷凍して仕事にでかけ、父親が休んでそれを赤ちゃんに飲ませるだなんて、やはり母親の愛情が教育の出発点ですよ」と語っている。自民党に多いよなぁ。民主党もか。批判の矛先はまさに我が家だ。
父親が休んで赤ちゃんに母乳を飲ませるなんて、この時代にしては家族がちゃんと機能しているんじゃないの。母親がどうにもならないときにどうしようもない男の方が多いと思う。それを誤魔化すために、女は家のことちゃんとやっていればいい、とか、家庭をおろそかにしなければ外で働いていい、という言葉がある。下村議員のような考え方をするような人って、男はそういう言葉を吐いて子どもと向き合うところから逃げたらいいのかな。
下村議員のような議論の建て方って、父親の方の愛情ってどこいっちゃうのか、と思う。それから、男だ女だ通り越して親は親だし、実の親かそうでない親かを通り越してその子どもにとってきちんと育ててくれる育ての親だろうし、そうした人たちの子どもとの関わり方を大切にしていくことが共同体じゃないんかね。

男だ女だ、生まれ持った不合理をおしつけることの根拠が日本の伝統というなら、ほんとうの日本の伝統をよく見た方がいい。もちろんフェミニストたちが主張するような社会ではないが、明治イデオロギーとは少し異なる社会が出てくるのではないか。
明治以降であっても戦前という切り口では、乳母なんて考え方があったり、日本の半分以上の人口が農村社会で暮らしていたことから、母親が愛情をたっぷり自分の子どもにかけて育てるなんてできなかった。その現実をもう少し見た方がいいし、その状態で社会や子育てがどのように成り立ってきたのか、調べてみたらどうかと思う。そこにほんとうの共同体の姿が見えてくるんじゃないかと思う。それがこれからの男も女も忙しくなる時代にどうしたらいいかの処方箋が見えてくるんじゃないかと思う。

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2007.01.13

1/12 霊媒としての脇役

仕事が濃密だ。それを片付けていくのに、気分はとても楽しくなっているときがある。

●「ワキから見る能世界」を読み終える。
能番組で出てくる「ワキ」は、シテの前座に解説的なことを言い、シテが舞ったり謡ったりする横でずっと座り、シテと言葉のやり取りをする地味な存在だ。
しかし、そのワキは、主役ともいえるシテを引き出し、「分からせる」存在であり、ほかの人には見えないシテのある部分を引っ張り出す役割がある、と著者はいう。

能が持つ心理描写、言葉の重層的な意味、心の深淵、そうしたものを解き明かしていく。よくよく考えると、ほかの人にも見えてなくてはならないものが、ワキにしか見えていないことになっていることが多いということも指摘している。

ワキといわれる役柄は、放浪するシテの苦悩やしがらみを受け止め、語らせる。能のシテの役柄の多くは、不条理に直面し、世迷い人や亡霊になってしまった人たちである。それをワキが受け止め、霊媒のような役割で、祈祷などを通して新しい役割を発見させていく。
日本には古来か漂泊やみそぎといった、苦難にみまわれた人生を送る人が過去を断ち切り新しく生まれ変わるためのしくみがあったと指摘する。農耕民族だからと、過去に囚われてばかりいたわけではないという。
最後は芭蕉や夏目漱石を重ねて、生きていくうえで漂泊や旅が必要なときがあると話を進める。
じんわり、その話が心に染み、自分には自覚がないが、どうも人生の転機がやってきているのかも知れないと感じる。

実は著者は高校のときの3年間の担任で、学校内で反体制運動ばかりやっては刃を折ってばかりいた私をかばいつづけてくれた方である。
当時の担任は自己実現的なものに前向きで、反体制的にネガティブに考えがちな私に、いつも考案のような思考課題を与えてくれた。反共反体制的の不自由な思考回路にどっぷりそまりかけている私の頭を、可能な範囲でやわらかくしてくれたと思う。
この本では、そんなに世の中前向きなことばかりではない、ということを強調している部分がいくつかあって、とても気になった。

没個性的な高校自体はあまり評価していないが、そうした環境の中で、オリジナリティーを発揮してくれたこの先生と、授業のない時間に研究室に私の仲間を集めてウェーバーを講義してくれた副担任ほか、いろいろかばい立てしてくださった方々には本当に感謝している。多感な年頃でそれがなければたぶん自暴自棄気味な余生を送ったかもしれない。

また引用されていた曲目は、高校の部活動で習ったものが多く、どうしてあの曲目を選んでいたのか、この本を見てよくわかった。

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