2/6 横路孝弘さんの死
ニュース番組では18~19時台で放送したっきりで終わりましたが、私にとっては大きな報せが入りました。北海道に在住時に大変お世話になった横路孝弘さん(元衆議院議員・元北海道知事)の死去の報せです。
一日たって、横路さんの死亡が心のなかをじわじわと寂しさが増しています。
家を出た見たかったというのもありましたが、観念的な論争に明け暮れて選挙しない首都圏の左派ではなく、実際に政権を取って社会党王国と言われていた北海道で学生やって、向こうの政治風土を勉強してこようと思ったのは、横路さんの存在があったからです。
1991年4月、横路さんにとって3回目の20歳の春の統一選で、20歳の私は初めて事務所に飛び込みました。労組の組合員の方々と後援会のおじいちゃんおばあちゃんたちに囲まれて、珍しい若者だからとちやほやされながらも、大量の手作業したり電話かけしたり、一兵卒としての経験を山ほどできて、時に面白い地方選挙に行く機会を与えてもらったりしました。得るものがたくさんありました。
そのときの選挙では、同時の北海道議選で110のうち社党公認・推薦で44も取れました。埼玉では経験できないびっくりでした。
横路さんは1983年の知事初当選の時代からノーマライゼーションを掲げていたので、事務所に出入りする障害者の当事者運動に関わらせてもらったことは、その後の私の思考に大きな影響を受けましたし、自治労や朝霞市議会の仕事でも大事な価値を作ってくれました。
いろいろな思い出が詰まっている横路さんとそのまわりのみなさんの思い出が、走馬灯のようによぎります。
もういないんだと思うと、寂しくて仕方がありません。
謹んでお悔やみを申し上げます。またご家族には、痛切な気持ちのなかにおられると思います。お見舞い申し上げます。
横路さんの引き際は見事で、安倍晋三首相のもとで、野党に関する情報が封殺されるようなひどい政治情勢のなかで最後に小選挙区で勝った後、誰もがこの人と思う道下さんにバトンタッチすることで、何も傷つけずにその功績を継承できたことはよかったと思います。
総理大臣候補だと何度も言われたし、そんな近未来小説も書かれたました。結果的に難しかったけれども、副議長就任が一番嬉しかったし、副議長のときには、河野洋平さんと面白いことやったんだという話をしているのが愉快でした。
私も20代は若気の至りで、2度も横路さんの前で失敗や、怒らせてもおかしくないことをいたしましたが、ほとぼりがさめた頃にまた戦力に戻してもらい、出遅れ就活の末、街で高名な文具店に就職した私を受け入れ赦してくれたのには、感謝ばかりでした。
知事のときには行政の長として交流することは少なく、選挙は全道を歩く過酷なもので事務所などにいることはなく、べたべた関われたのは、年に2回ぐらいしかありませんでしたが、社会党が一気に退潮しているなかで、横路後援会のみなさまと何度も厳しい選挙を闘っては勝った経験は、今の糧になっています。
9年間の北海道での横路さん、横路後援会との体験がなければ、今はなかったと思っています。
東京後援会の最後かもという集まりで、首都圏のふるさとで議員になったということを夫妻で喜んでいただいたのが最後の思い出です。
ありがとうございました。
●昨日の立憲民主党泉代表の記者会見の言葉は、1990年代に北海道で過ごした政治青年たちが見た横路さんへの実感をすべて表現していたように思います。よい記者会見でした。
7分目ぐらいから泉さんと横路さんのなれそめが語られていますが、会社帰りに寄った横路さんの政治討論集会で、すくっと立ち上がって語る泉さんは私のなかでも鮮烈な記憶として残っています。
立憲民主党国会情報「2023年2月6日 泉代表ぶら下がり(横路孝弘元衆議院議長ご逝去について)」(youtube動画)
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