5/5 子ども政策を考える視点
5日は子どもの日です。
最近、子ども政策の議論でもやっとしていることは、「少子化対策」という言葉です。
「少子化対策」が正しいかどうかは、資本主義のあり方や環境問題などとの関係で、いろいろな議論がありますが、子どもの視点というところからはまず置いておきます。その上で、子どもに関連する政策が「少子化対策」と結びつけられてしまっていることが問題かと思っています。
①一人ひとりの子どもが育つことと、②保護者や家庭が子どもを育てることと、③社会的要請の少子化対策は、それぞれ別事件の話です。少子化対策の観点が前面に出すぎると、子どもの実情などそっちのけで、年金の財源みたいな上の世代にとって有用な子どものことしか考えなかったり、出産、果ては性交のあり方までの社会の介入を招きかねません。1940年代はそれが最もどぎつい時代でした。
今の政策論議での、子ども政策が重要だという考えは、1997年ぐらいから台頭してきたように思います。その頃は「少子化対策」に結びつけられることを、戦前の反省から猛烈に警戒し、「次世代育成支援」などと言っていたのですが、内閣府、文科省、厚労相が予算分捕りのために何かと「少子化対策」という言葉を乱発してきた結果、「少子化対策」が子ども政策と同一視されるようになってしまいました。近年は子育て政策に関心の高い保護者層からも「子どもが減ってもいいのでしょうか」という言い方が出てくるようになっていますが、子どもを育てるのは国家的要請でやることなのですか、と問い直したい気持ちです。
年金や経済成長の観点から少子化対策は必要だとしても、子ども政策に直結させると、やるべきことの優先順位がおかしくなりませんか、ということと、おかしな文脈のものが混じり込みませんか、と思います。
子どもをつくること、子どもが生まれてること、子どもがどう育つかいうことは、完全に計画的にできることではありません。そのなかで、授かり婚とか、逆に不妊で悩まれる方々がいるのだと思います。また言うことを聞かない子ども、頻繁に風邪をひく子ども、こうしたことが育児ノイローゼを誘発したり、家庭不和の原因になってしまったりします。妊娠・出産は「自己責任」では捉えきれない偶発性の高いできごとで、ゆえに出産や子育ては個人に背負わせすぎてはダメだということではないかと思います。
意識高い子育て世代のオピニオンリーダーたちが、望む政策が出てこないから「子どもが減ってもよいのでしょうか」と言うのは、偶発性を否定して、結果的に息苦しい子育て観に埋め尽くされるのではないかと思います。
マタ二ティーハラスメントとか、育児中の保護者に冷たい職場が多いというこの社会の問題は、計画的にはことが運ばない妊娠や子育てを引き受け切れていないのではないか、計画性にそぐわないそうした社会の存在をどう生産活動や社会活動と共存するのかが、問われているし、少子化の背景にある、子どもという不確実性を忌避する社会から脱出することではないかと思っています。
一人ひとりの子どもがどう育つか、という視点での支援・保護政策が全般的に弱いと思っています。子ども庁を設置しようとしている国会議員たちからはその想いはびしばし伝わってくるのですが、マジョリティの子育ての関心事は非行防止と受験対策で、教育というと偉い先生が統制するという固定観念が強すぎる日本で、子ども政策を総合化することで、そうしたマジョリティの子ども観が機能していた分野にまで入り込み、学校・家庭・公園などの子ども社会・児童館などの福祉で多元化していろいろな役割とリスクを分散させてきたことであった、子どもの逃げ場が減っていったり、なくなるリスクが私はとても気になります。
子ども政策も、子どもが実際に人権保障されているかどうかは、教育や保育士などの現場のスタッフにかかっています。子ども自身が救済を求めることに対応する政策は、何度も何度もうやむやにされていて、家父長制的保護から、一人ひとりの立場から見ていく考え方に転換できていません。
そんなことを考えながら、目の前の朝霞市の子ども政策をどう評価して改善させていくか、会派の議員や同僚の議員などと議論をしながら、子どもの多い街朝霞市の現状を少しずつ変えていきたいと思っています。
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