5/3 市民生活を守るための立脚点としての憲法
憲法記念日。昨年の改選でようやく本格的な会派を組みましたが、会派名に政党名の一部を入れることに、政党色が着くなという思いはありましたが、立憲主義に違和感があるわけではなくてポジティブに捉えています。福祉政策に対する態度も、昨今の部活や校則などの文科相の見直しに呼応する諸改革も、選挙制度に関する意見も、議会改革も、すべて日本国憲法を立脚点に、そもそも論としてどうなんだと考えるようにしています。
一方で、日本国憲法の限界もあります。
一つは地方分権があいまいなことで、内務官僚鈴木俊一が書いたと言われている、事実上、戦前の統治メカニズムを引きずっている地方自治法にいろいろな制約を委ねていることです。今回の非常時では、国会では盛んに議論された一方、地方議会が議論をしない方向に閉じていき、行政改革の論理に振り回されて機能として不十分なことに、地方自治法の行政優位の制度設計の限界が表出しています。また議会というのは税金の使い道を決める場なのに、地方自治法にもとづく自治体議会は予算編成権もありません。議員どうしが丁々発止で議論して予算をまとめるべきところ、首長におねだりして政策実現する姿は民主主義としてあまりエレガントではありません。
不動産に関しては青天井の財産権が、暮らしや環境を壊している現実があります。これは解釈でいけるかも知れません。他の物件にそこまでの青天井の財産権を認めているわけではありませんから。
衆議院の解散に関しても、行政権力がやりたい放題議会を解散している国なんてそんなにありません。ここも改正なのか解釈変更なのか、普通の議院内閣制の国の運用に落ち着けるべきです。
私は自治労で役所の非正規労働者の運動に関わりましたが、彼らの雇用が行政処分で契約ではないという極めて観念的な行政法学者の解釈によって、労働者としての正当な保護を受けられずにいます。団結権はともかく、団体交渉権すら頭から否定されることもあります。ところが雇われるときには、憲法第15条を持ち出されて、国民の公務員の選任権なんて言って、権利を制限する憲法の条項だけ丁寧に適用したりします。そのなかで雇用の安定や継続性をほとんど無視する法解釈がまかり通っています。時給900円前後でこき使っている人相手に、労務の提供に対する報酬以外に何があるんだと思ったりするのです。このあたりは憲法をちゃんと理解することが必要だと思っています。
一番議論になる安全保障と憲法は、今のところいじる必要はないと考えています。
ただし頭の体操として、日米安保体制がローコストで最大のメリットがあるから、諸矛盾を沖縄におしつけつつも、今の憲法で間尺が足りています。この安定の矛盾が我慢されなくなったり抑圧できなくなったり、またはこれから考えられうることですが、アメリカが国力を落とし、日米安保体制のメリットが担保されないと見えてしまったときに、日米安保をやめるか見直すかとなります。そのときに、今の憲法の9条の骨格・理念は残しながらも、今の9条では間尺に合わないことになる可能性は考えておかなくてはならないと思います。極度の緊張感と負担をもたらす自主防衛論が台頭したときに、どうセーブするかが課題です。
●最近読んで、憲法関連の本で有益だったのは、美濃部達吉「憲法読本」です。1911年、明治憲法の解説の講演をまとめたもので、明治時代にこんなに近代的な法理解を解説していたんだというのに驚きです。戦後、日本国憲法がいかに立派でも、9条以外ほとんど意識されてきませんでした。安倍首相が憲法をおもちゃにするようになって自覚した立憲主義の基本的な認識ですが、1911年にはすでに美濃部達吉さんによって紹介されています。100年近く日本社会は、岩波書店の編集者と一部の研究者以外は忘れ去ってきたんだと思います。
●新型コロナウイルスに「補償と自粛はセット」というスローガンがあります。そのことから市内で財産権をベースにこの演説をした方がおられたようです。ネットでも財産権でこの話をする人がちらほらいます。でも私は間違っていると思っています。
一つは、財産権だとすると、竹中平蔵みたいに何億円も社長収入のある人が自粛させられて儲からなくなったら、国家は毎日その資本家に何百万も補償しなければなりません。逆に一文無しには、一銭も補償しなくてよいことになります。どう考えてもおかしいです。
財産権は、国家の利益のために財産を取り上げることを防止することが目的なわけですから、対価なく歩道整備に土地を召し上げず、正当な対価を払えないときには、歩道整備の土地確保を断念すれば済みます。新型コロナウイルス対策は、補償できないから自粛要請ができないで済まされる話なのか、ということだと思います。自粛を要請するのは人々の生存権を保障しなければならない国家の立場があるからです。
じゃあ補償も何もなくていいのかという話です。自粛にともなう補償は、社会権の話です。竹中平蔵に毎日何百万も補償するのはおかしいけど、自粛で生活が成り立たない人や、事業の継続ができない人を支えるというのは、損失補償じゃなくて、社会権のはずです。 こうした社会権が、何か、利得的な関係性の財産権より下みたいに感じることが、まだ日本社会は、北欧・西欧の先進国に追いつけない理由なんだろうと思ったりします。
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