1/13 首相の解散権の行使を国王が監視してきた英国
安倍政権の強さは、解散権を年がら年中ちらつかせて、与党の国会議員を黙らせ、野党の国会議員に国会より選挙区に注力するように仕掛け、権力を集中させています。そのことで、首相が衆議院を自由に解散できるという憲法解釈が問題になってきています。
また、第一次安倍政権から民主党政権まで、野党も野党で首相を引きずり降ろすために、解散権を行使するように追い込み、そのために国会を混乱させることが多かったので、その点からも、解散権が自由であることは問題、という議論も出ていました。
私は、子どものときからどう憲法を読んでも首相が議会を勝手に解散できる権利などないのではないか、憲法69条で議会で不信任を突きつけられたときに対抗手段としての解散しかできないのではないか、と読んでいました。そういうことを言ったり書いたりすると、通説ではないとバカにされることが多かったですし、また国民にとっては政治家を選択できる機会が多ければ多いほどいいんだ、という荒削りの選挙至上主義みたいな民主主義解説をぶつけられたりしてきました。
しかし諸外国の「議院内閣制」を取る国々では、解散権というのは一定の条件がないとできないものばかりで、監督される行政権が、監督する議会を勝手に解散するなどということは、逆立ちの民主主義だと思うわけです。
そのような問題意識を常日頃持ちながら、しかし、議会主義のイギリスが首相による解散権の自由を2011年まで続けていたではないか、というところで???になっていました。もちろん自分のなかでは反論する仮説を持っていましたが。
昨日たまたま市立図書館で資料ザッピングをしていたら、小堀眞裕「英国議会「自由な解散」神話」という、日本での英国議会に対する首相解散権の自由に疑問を投げかけるタイトルの本を見つけ、読みました(前半は研究者的な政治分析手法の話なので飛ばしました)。
著者はこの本で「首相による自由な解散権行使」に関して、イギリス、フランスでの議会解散権をめぐる歴史的な説明づけや運用を解明しながら、日本の戦後の代表的な憲法学者が、イギリスの民主主義システムに関して、国王の役割を分析を切り離して、イギリスの議会制度を「議院内閣制」として中途半端な状態で紹介して論建てをしてきたのではないか、と疑問をつけるのです。
これまでの戦後憲法学者が、首相による解散権が自由である説明の前提として、イギリスと日本が全く同じような政体であるように説明されているが、
・イギリスではまだ国王に政治に関与する権利が残っていて、議会解散が憲法的正義にかなうか国王が判断できる余地がまだ残されていること、そのなかで首相による解散権の濫用はこれまで自制が行われてきた。そうした運用の延長に2011年の下院解散規制が実現している。日本は憲法第7条で天皇は内閣を無視して国事行為の判断できないので、首相の任意の解散が容認されていると、内閣のさじ加減次第で議会が解散できる運用となり、議会と行政のバランスが崩れる
・イギリスの首相任命は国王が議会多数派を忖度して行い、任命された後、議場で野党から不信任を提案してもらって否決するという流れをとっている。したがって、首相が少数党から選ばれる事態も否定されておらず、首相による議会解散権の余地が必要だった(その場合、戦前の日本の運用に近い)
・7条解散を容認したのは、戦前の天皇大権の伝統をそのまま戦後の議員内閣制に溶け込ませた、宮沢俊義の独特の理解にある
・樋口陽一はイギリスの王制の権能をあえて無視して、首相解散権を肯定した
・高橋は、三角大福の自民党内の牽制がきいていた時代の解散像のまま、国会内閣制を提唱して内閣の権限を強化している
・芦部は首相の解散権に歯止めがないことを心配しながら、それでも7条解散権を否定しなかった
・解散権の濫用を肯定している議論にありがちな、選挙での選択権が多ければ多いほど民主主義だから信を問うための解散は必要という議論に対しても、英国では、議会の選挙がレファレンダムだという議論はほとんど採用されていない
などと指摘していて、首相解散権を追認する「通説」に使われている英国の政治のシステムに対する誤解を論破していきます。
一方で著者は断定的な立場を取らず、解散権の規制がない状況で、解散権が濫用される状況のもとで、ポピュリズムの予防にならないのではないか、という問題提起に留めています。
首相による解散権行使の報道に振り回される、国政の与党・野党の政治家たちが非生産的な存在となりつつあるなか、どうも我々が信じてきた民主主義像が、歪められたものではないか、ということを知るにはよい一冊でした。
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