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2019.04.18

4/18 自治という言葉の多面性と本質

という難しいタイトルつけてしまいました。
昨日、某所で自治についてひとしきり自治の穏当な解説の後、目的として「正しい判断と当たり前のことをキーワードに基本的な生活習慣の徹底と、意識向上に重点を置いてまいります」と説明を受けました。??という感じです。
自治とは集団のなかで自分たちでものごとを決めて動かしていくことに尽きると思うのですが、変な尾ひれはひれがついて、1990年代共産国が崩壊するときに流行した、「スターリンジョーク」のようになっています。民主主義、自由、権利という言葉からスタートしていつのまにか独裁政権を称賛する言葉に入れ替わっている状況を、逆説的にジョークにしたものです。この説明も、自治の言葉がいつの間にか私のようにひつこい人間でもなければ美しい言葉で丸められる統治の論理にすり替わっているわけです。
※小論文のテストだったらバッテンもらっているような論理構成じゃないかとは思うのですが。

一方で平時は自治は、集団内で集団として自由や裁量権がある状態をさしますが、意見が分かれたり、内部で程度の低い足の引っ張り合いで意思決定ができなくなって、対外的に交渉無能力状態になっている集団に対して、交渉相手が「あの人たちは自治能力があるのかね」と批判することもあります。そうした面では統治のニュアンスが出てくるところがあります。場当たり主義的な交渉、一度合意したことを基礎から崩すようなことを言い出す、集団としての合意形成の不成立、そんなことに対して、統治としての自治という言葉が使われるのは当然だと思います。

しかしその統治の自治からしても、どこかの誰かが決めた規範を相互監視で守らせることを自治などとは言うのには違和感があります。
自治体議員、自治労組織内議員、自治する市民(1995年市民ネットワーク北海道の選挙のキャッチフレーズ)、マンション管理組合の活動など自治まみれでやってきたライフの私が気になるところです。また、朝霞市は外れていますが、自治体議員選挙が全国統一で行われている今時期に気になります。

●自治という点で、自治体議員の職務として、市民が市町村という枠組のなかで自分たちで意思決定して、自分たちでまちをつくりあげていく、そのためのルールと予算づくりの代理人または代表者という立場があるわけですが、それをどこまで意識しているか、朝霞市に限らず全国の自治体議員の候補者が自覚しているのか考えさせられることがあります。
他自治体の話ですが、国にああせいこうせいと言挙げする意見書に関して徹夜に近い議論をしているのに、自分の自治体の条例を慎重に審査して議会発で修正加筆したり、市長が出してきた予算に議会としてあるべき変更点を加えていたり、そういうことに挑戦する議員が何と少ないことかと思ったものです。政策法務の勉強会に出たときに、受講生が行政職員対象ということもあって、議員や議会を哄笑するような場面がありましたが、条例をいじることに、政策法務の難しそうなノリに押し巻けて、考えすぎて、やるべきことをやっていない感じがしないでもありません。

最近では放課後児童クラブの職員配置の基準の緩和に関する議論があります。規制緩和は確かにとんでもないのですが、国は引き続き規制の基準は示して、今度から自治体によって条例で変えられる法律の変更を提案しています。この法律の変更が通ったとしても、自分たちの自治体の議員がしっかりしていれば、行政は規制緩和の提案もしないだろうし、提案されても議会で否決したり、妥当なところの規制に修正することもできます。あるいは逆に基準を高めに設定することだってできます。
そこはまさに地域の自治能力なのではないかと思ったりします。市民が国の規制だけに頼っているとしたら、その自治体議会は、当該の市民たちに能力不足のダメ出しを食らっている、と思った方がよいように思います。

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