8/15 終戦の日に祈りつつ今の時代のおかれた状況を考える
終戦の日、旧総評系の平和フォーラム主催の戦没者追悼式に参列してまいりました。私の祖父母世代は、中年世代として戦争の災禍をくぐり抜け、一方は青島からの引き揚げ者として戦後の混乱を体験、一方はみなし軍医として徴兵されています。
背中合わせだったことを振り返りつつ、なおも過酷な思いをされた人たちに思いをはせ、お祈りをしてきました。
2年前、夜学の大学院に行きながら、マンションの増殖を検討しながら「ベッドタウンシステム」を考える機会を得ました。
私たちが当たり前のように考えている、職住の極端な分離によるベッドタウン、通勤電車、工業化による雇用労働の定着、プロ野球の誕生、社会民主主義・無産政党の躍進、専業主婦の発生、理想の子育ての大衆化などの現象は、1935年頃から広がります。
1945年8月15日正午から新しい日本が始まったという認識が強くてそれ自体は否定しきれないのですが、社会システムの変化としては、1935年ぐらいから始まったと捉えて、1992年からのバブル崩壊はその終焉であり、その後は新しい社会システムへの変化に向けて動き出しているとみるようになってきました。
戦後改革の多くは、1935~1945年にかけて、新しい時代に必要とされた官僚の制度設計の積み残しをGHQやニューディール政策の理論をひっさげたGHQの一部が採用して推進していったものが少なくありません。
そうした社会システムの変化と、官僚と軍人と農家ばかりを前提にした社会システムとの矛盾は、先の大戦によって何もかも破壊し尽くされて可能になった、という情けない経緯を持ちます。それくらい固定観念や、自分と違う暮らしや生き方をしている人にあわせて変えていく寛容さや他者への敬意というのは、持ちにくいものです。
バブル崩壊で1935年から続いたシステムは変更を求められていると思います。その不安定ななかに私たちは生きているなかでの、また再び社会混乱と結びつきやすい環境におかれているのだと思います。
そのときに、暴虐の政治や、戦争という手段で乗り越えない、こらえ性が試される時代に入っているのかも知れません。
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