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2018.06.01

6/1 東上線の通勤電車化の遺稿が復元へ~ときわ台駅修復

ときわ台駅が改築しているというので心配していたら、むしろ復元されました。いたばしTIMESさんより。
日頃東上線の貧弱な投資に、ここにお金使うなら、とざらっと思うところもありますが、でも、東上線沿線の人口増や街の姿を作り替えてきた、通勤電車化の第一歩となった貴重な遺構として、こうして保存してくれることを喜びたいです。

東上線が、新河岸川の川運の近代化として汽車による物の運搬をしていた鉄道から、東京圏の通勤輸送の電車に切り替わったきっかけが1935年ダイヤ改正。このとき開設されたのがときわ台駅。そしてときわ台の住宅地の販売を鹿島建設が始めます。鹿島出版社による「郊外住宅地の系譜」では、戦前最後の住宅地開発で、東京圏では初めて電気ガス水道完備で開発された住宅地です。

この頃、日本社会としても産業化が進展しはじめ、賃金労働者がまとまった数で出てき始めた時代です。
1937年には賃金労働者の増大を背景に社会大衆党(日本社会党の原型になる政党)が、東京、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡の大都市の選挙区を中心に議会進出を果たします。

ときわ台の住宅開発と駅開設を機に、上板橋までの複線化を進め、東上線は、池袋とときわ台の次の上板橋の間で日中10分間隔、成増までが20分間隔、志木までが40分間隔の定間隔運転を開始し、現在と同じ池袋・志木間を27分で運転しています。
その時刻表は、朝霞市博物館に寄贈されて保存されています。ときどき何かがあると公開されています。

賃金労働者という「大衆」の出現により、レジャーも必要とされ、その結果朝霞市に作られようとしたのが根津公園であり、その土地が戦争によって基地になっていって今があります。

東上線は戦中戦後の混乱を経て、1960年頃から高度成長とからみあいながら東京が膨張するなかで、再び通勤電車化が加速します。朝霞市や近隣市の人口爆発が始まるのが1960→1961年の人口増から見られます。ラッシュ時に、複線の限界の運転本数と言われる1時間24本に達したのが1963年。その後は4両、6両、8両、10両と車両の増結と24本から29本への微増発と車両の高性能化でしのぎ、本格的な通勤地獄の解決は、1982年の営団地下鉄有楽町線の成増開業まで待たなくてはなりませんでした。

●こうした歴史は、鉄道マニアの記録や、東武博物館の館長などの記録で残っています。朝霞市博物館でも一昨年、東上線100周年として企画展示を行っています。
問題は、沿線自治体で都市がどのように通勤者を当て込んで住宅や都市の開発が進められていったか、そこにはどういう住民との関わりがあったのか、それが気になるところです。折しも社会で公文書管理に関心が持たれていますが、今は何とも思っていないことが、振り返ったときに検証できなくなっている危険性がないとは言えません。
例えば、朝霞市ではなぜ、東上線沿線の近隣市のように米軍基地跡地に大規模団地が誘致されなかったのか、都市計画のゾーニングはどんな経緯があってこうなったのか、検証できるのでしょうか。人口2万人の時代までの歴史しかわからなくなっている可能性は否定できません。

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