6/25 市議会で校則の改正権に議論が行われる
市議会の一般質問の論戦が3日展開され、終了しました(自分のことはこちらの記事に書きました)。
その中で関心の高かったのが、学校の校則です。小山議員の質問でした。
私自身、高校生のときに左派的であっても極めて人治主義の強い学校に行って、いいときはいいのですが、悪いときにはリクツも何もなくて仲間を裏切ったから裏切らなかったか、そういう議論になって断罪されやすかったのには辟易した経験がありました。
そのときに、法という概念に出会い、またあわせて交渉による社会改革ということでは「労働法」の一端に触れ、今があるのだと思います。
小山議員の質問は、校則に改正条項がないのがおかしい、というシンプルなものでした。
しかし教育委員会は、一般的な話ばかりで答えをはぐらかし、各学校長に、という答弁で終わらせてしまいました。
校則というのは不思議なもので、自由で民主主義の日本国の法秩序の中に入っていなくて、青天井な存在です。
施設管理者の管理権としての、施設を丁寧に使えとか、廊下を走るな、という管理規則のように装いながらも、教育という名目のもとに、かなり不合理なものも入っています。
本人が嫌がっても、保護者にどんな経済的負担がかかろうとも、制服や髪型など強制しています。これらはいつの時代も論争になるところです。鉛筆かシャープペンを使うべきかいちいちお伺い立ててくるのも、こうした文化の果てにあるものです。また学校内の意思決定も、抑圧的に振る舞います。自由で民主主義な国のルールは、人を抑圧するためではなくて自由にしてその調和のためのルールです。
そうした校則が日本人の法的思考の誤解の原因で、基本的人権に支えられている人と人との調和として法があるのに、学校の校則的な理解をすると、法が規制しているところに例外的に自由が認められている、というセンスになります。
この思考法は、社会のありとあらゆるところで、人間の能力の開花や、生活や仕事の合理的判断を邪魔しています。
規制緩和の議論なんかもとんちんかんになるのは、原則自由例外規制で規制が加えられているのに、例外規制が全ての人を萎縮させているからと規制を撤廃しようとするわけです。ところが現実には勝手に自己規制しているのが最も非効率で低レベルな現実をもたらいしているのにそこには手が着かないので、規制はなくなるわ、ますます没個性的な行動しか取らなくなるわ、という最悪のパターンになります。
また改正条項のないルールは、儒教と同じ考え方になります。つまりルールが現実に矛盾したら革命しかない。学校体制を打倒して新ルールを打ち立てるしかない。それが学校運営にとって健全な状態なのか、ということなのだと思います。
私は校則の要不要は原則論からいうと微妙。ただ先に書いたように人治主義の文化の学校に行って苦労したので、学校社会の調和として校則があった方がよいのかも知れない、と思いつつ、
・施設管理権に類することは分離として、これは施設長でもある校長の権限とする。
・校則に関しては、小山議員の言うように改正条項を明記し、そこには子どもや保護者の発議権も十分保障する。
・さらにはこうしたルール全般に、一般社会の人権に関する視点や、加えて子どもの権利条約からの妥当性を検証する。
ということが必要だと思います。
●学校にこうした法的な合理性にもとづく民主主義が根付かない背景に、教員自身がそういう扱いを受けているかも知れません。きょうも、自由民主党が、18歳選挙権の実現にあたり、高校の教員の政治的自由を規制する法律を検討しているというニュースが出てきました。
教員も学校内では政治的自由は制限されると思います。しかし勤務時間以外がどうして政治的自由を規制されなくてはならないのでしょうか。
政治家の教員の一挙手一投足への介入はほんとうに悪影響しかありません。
一方では、管理職になってしまえば、政党の幹部を呼んでまさにその政治的主張に関わる部分で教員研修やっても何の処分も受けなかったんです。
立場が使えるものは使える自由があって、その他は内面の自由までない、という環境で、子どもたちにソサエティを形成することを支援することは難しいのかも知れません。
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