7/8 公園利用の公共性と差別問題
大阪高裁が、排外主義者の団体「在日特権を許さない市民の会(通称:在特会)」が、京都朝鮮学園が公園を使用していることが占有だとして、子どもたちのいる前で差別的街宣を行ったことが人権侵害し、損害賠償を認めています。
その街宣内容もひどく、判決はおおむね妥当なのだろうと思います。
私が気がかりなのは、この団体が街宣をやった動機が「学校側が公園を無許可で占有したことを追及する街宣で公共性があった」と主張していることです。
こうした論理は、公共施設の利用に関して、大手を振ってまかりとおっています。
近年、朝霞市でも保育所が十分な用地を確保できず、公園を代用と指定して、園庭のない施設を認めざるを得なくなっています。
園庭が敷地内にないことが「保育の質」に与える議論はいろいろされたらいいのですが、勢い余って、最近の市議会では、保育所の公園利用が「占有」と糺弾する意見が出てきています。
公園は誰のものなのか、許可を取るべきものなのか。
憲法の自由からは公園使用を「占有」として排除して公共施設を神聖・中立なものと考えた方がよいのか、みんなが使うものとして理解した方がよいのか。
埼玉県内でNPOの支援を行っている「ハンズオン埼玉」が作った「私のだいじな場所」という本のなかで、市民が自発的な自由を発揮できず、許可だらけの公共施設の利用条件、運営のあり方を問い直しています。どうしたら公共施設がみんなが心の底から「だいじ」と思える場になるのか。問い直されるべきだろうと思います。
特定の保育園が使ってけしからん、ではなくて、どうしたら公園がみんなの場になるのか。使うなではなくて集まって、という論理を立てられるのか。
バラバラの個々人として公園を利用することの自由があることは当然のこととして、一定の公益性のある事業者が公園を使うことがすなわち「占有」として、糺弾できる感覚の背景に、この在特会のような、保育所を使っている保護者に対する差別感情がないのか、民間保育施設に対する差別感情がないのか、十分ふりかえって自問自答する必要があるのではないかと思います。
もとをただせば朝霞市が人口が増やす政策を取るなかで、いずれ必要になるであろう施設に関しての用地を確保する目的での土地利用の規制をしてこなかったことに問題があります。
一方で、保育所の必要性は20年前から訴えられていたのに、その必要性は5年ぐらいにようやく理解され社会合意になってきました。50年以上前から続く都市計画等の構想のなかで、そうした急激な社会変化に対応するような施設が予測できたのか、変えるだけの時間がとれたのか、という技術的限界もあるわけで、今からは、できる範囲で対応していくしかないだろう、というのが私の受け止めです。そのなかで保育所の公園利用は、ベストとは思いませんが、不幸を回避するベターな選択ではないかと理解しています。
●保育所は利用する家庭を支えるものです。保育所の中のサービスだけ切り取って、そこの質だけ問うても、子どもと家庭から見ればそんな非連続的な存在ではないはずです。保育所なんて土地が余っている市街化調整区域に造ればいい、というご意見もありますが、家庭生活に無理のおきない送迎の可能性ということも考えていく必要があります。
ここ3年市役所は、市内で認可保育所を開設しようとする事業者に、バランスの取れた配置を要請していますが、その前は、認可保育所の数と定員しか調整していなかったので、市街化調整区域にしか認可保育所がつくられませんでした。同じ市内でも公共交通機関がないために、自動車通勤できないという事情も重なり、保育所の送迎に各2時間もかけておられる保護者もおり、お話をお聞きしたらへとへとの生活をされていました。保育所のなかのケアが十分であっても、送迎時間に生活時間の多くが取られてしまったら、その家庭や子どもにとってもどうなのか、という問題もあります。
●近年、子どもたちが公園や路地で遊ばなくなったということが指摘されます。公園に連れられてくる保護者も少なくなっています。そうしたなかで、人の少なくなった公園が子どもたちにとって危険のある場所になっている、と指摘する研究もあります。
「占有」が問題だとして、保育所に限らず、公共的な目的をもった団体が公園を利用していただくことは、公園の保安を考えると、悪いことばかりではない、と思うところもあります。
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