9/19 とめよう原発1000万人集会に出る
とめよう原発1000万人集会に明治公園に行く。この種の集会では珍しくパンクするほど人が集まっていて、会場に入るのに難儀した。確実に原発をやめていこうということが定着しているように思う。
しかし運動に夢中になってくると、必ず原発をやめていく、という道筋を忘れて、より徹底した原発批判をした者が偉いということになりがちなところもある。脱原発が空回りすると、今日来た会場溢れるばかりの人たちはいつか脱原発の運動から離れていってしまうことにになるだろう。
やはり、確実な原発をやめていくロードマップを作らせていくことが本当はいちばん大事なのだと思う。「危険なものは使うな」という論理で物理的な面だけ考えれば急進的な廃止論もありなのだろうが、社会的にはそれでは通じない。また使う側の論理もなしに、供給だけ止めるというのも運動の矜持がなさすぎる。
会場でのプラカード、配られるビラなど、東電バッシングみたいなものが目立ったがこれには違和感があった。事故後の対応、補償金の支払い体制、未だに根強い原子力神話、不透明かつ下請け依存の事故処理など非難されるべきものはたくさんあるしそこは手厳しい批判は必要だと思うが、膨大な事故補償を東電従業員の賃金カットだけでやれといった暴論には私は与しない。東電の財務諸表を見れば、東電だけでそうしたことをするのは限界であり、東電を監督していた政府にも責任があれば、原子力行政を監督できなかった国民にも一定の責任があるように思う。
事故が起こるまで真剣に原発が危ないと行動しなくとも批判した市民がどれだけいたのだろうか。原発を海外に売り込もうという政権を熱狂的に支持したのも国民である。ここで考えるべきは、やはり原発による被害を受けた人がいちはやく被害が復元されるか、あるいは被害をカバーできるだけの違う生活を確立できるか、ということが最優先で議論されなくてはならないことではないかと思う。
これだけ国内で原発に対する疑問が充溢している今というチャンスをきちんと運動が受け止め、現実政策化する志向を持つかどうかが問われていると思う。
脱原発を志向してかれこれ25年、何度も運動が挫折してきたのを見てきた。そうした中で原発立地の反対運動の過酷な日常をよく聞いた。今度こそ挫折を繰り返さずに、世界で1~2を争う原子力事故を起こした日本がその過ちを活かして確実な方向に世の中を変えていけるかどうか期待している。
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