8/30 都会の人の払う電車賃だけで複々線化は進んだか
八代尚宏「新自由主義の復権」を読んでいる。この本を紹介していただいた濱口桂一郎さんのブログではそこそこ高い評価をしているが、私はやはりイデオロギーにがんじからめになっているものの見方が随所に見られるところを感じるし、公共投資に関しての考え方は全く間違っているように思う。
p79で、都市部の鉄道の利益は都市部の投資に回されるべきだった、と書いていてそうすれば都会の通勤混雑はいまほどひどくなかったかのようなことを書いている。
しかし現実を見ればそれは違うことがわかる。東京にしても関西にしても複々線化は国鉄の方が先行し、一番遅い総武線でも国鉄時代の1979年に終了している。それが都会の運賃でまかなえたかということには、wikipediaなどでは疑義を呈する書き込みもされている。分割民営化時に処理に苦しんだ累積債務額はこのときの複々線化の投資五方面作戦によって膨らんだという説がかかれている。
一方の都市内で運賃を循環させてきた関東や関西の私鉄が、複々線化を先行させていれば八代氏の論は当たっているが、最も早い東武伊勢崎線で1974年(北千住・竹の塚間6.3㎞)、続いて13年も間をおいて1987年に東武東上線がわずか5キロ足らず(和光市・志木間)、次は東急東横線(田園都市・武蔵小杉間)、西武池袋線(練馬・高野台間)にとどまり、小田急線に至っては30年近くかけて大部分の工事が終わったもののいまだに十分に増便できる複々線にはなっていない。京王線と西武新宿線は、混雑がひどいにもかかわらず、経営状態がさほど悪くないにもかかわらず、財務的に耐えられないからと複々線化を断念し、事前に運賃に加算して作った積立金を運賃値下げで乗客に返してしまっている。
新自由主義の限界がこういうところにある。規制緩和や参入規制の緩和、公的事業の収益使途の制限緩和をしても、そもそも増収額を大きく圧迫するような設備投資は、私的事業では限界があるのだ。社会主義と言われようがある程度、公的な力を使っていかないと社会基盤は整備されない。
このことは最近では保育所問題がそうである。保育所不足がいっこうに抜本的に解消されないのは、参入規制の問題ではなくて、参入してくれる事業者がいないからだ。公立保育園を民間委託したくてしたくてしょうがない自治体の企画部門の職員たちが頭を抱えるのは、委託を受けてくれる保育所経営者がいないからだ。私のような労働組合の側からすると、自治体が描いた公立保育園の民営化計画も、このことで何度も先延ばしになって救われた事例もある(代わりに猛烈な非正規職員化が進んだが)。
参入する事業者がいなければ国や自治体がやるしか選択肢はないのに、それを頭から社会主義などとレッテルを貼って避けているから、いっこうに社会基盤、セーフティーネットが整備されないで、みんながたくさんの貯金を抱えながら、公的資源のもとではひいひい限界のような生活をしている。通勤電車現象といってよい。



