7/13 「政党支持の自由」考
「政党支持の自由」という私にとってうさんくさい言葉をめぐって親友とやりとりをしていて、少し自分なりに整理した方がいいと思う。
私はこの言葉を高校生ぐらいから聞いているが、これはまさに日本共産党の影響力の強い労働組合から市民運動まで社会団体が何かと言いたがる言葉であって、こういう言葉を使う運動体が近づいてきたときには警戒してしまう。
私の立場を先に言っておくと、社会団体が、特定の政党を支持しようが、特定の政治家を支持しようが構わないと思っている。開かれた社会合意の場は、議会をはじめとする政治であり、そうしたところに要求を持ち込むためには民主主義社会である以上、政治を利用し取引するというは、一定の社会的要求や社会的目的のある団体である以上、何も不思議ではないし自然なことだ。
もちろん、その社会団体が政党に従属しないことや、その政党や政治家の支持の決定にあたっては一定の民主的手続きが必要だということは言うまでもない。
一方、社会的要求や社会的目的を掲げながら「政党支持の自由」などということを前面に立てている社会団体とは、一体何を実現したいのか、民主主義社会を前提にしている以上、不思議で仕方がない。
一つはこれまでの日本社会がそうだったが、立法府をすっとばして、さらには行政府内でも議院から送り込まれた政府員をとばして、プロパーの行政の高級職員、いわゆる官僚と言われる人々の政策決定権の強い社会において、社会団体と官僚との協議が意思決定の大半を占めることを前提としたシステムがあることだ。しかし高度成長が望めず、安定した一党が長期政権を担うことが望めなくなった今日、そうした官僚と社会団体との関係は多元的なものに変わらざるを得ない。
もう一つは、絶対に実現しない運動をする社会団体である。要求が実現しないときには、政府が悪い、与党が悪いと結論づければ、運動体の求心力は当面維持できる。そうである限り、「政党支持の自由」としておいても短期間は不都合なことはない。
そういう意味で、今や社会団体にとって「政党支持の自由」を掲げることは、社会での意思決定の放棄を意味する議論ではないかと思っている。
さらには歴史的文脈で考えてしまう。
私は、「政党支持の自由」という言い方が何か選挙を通じた民主主義社会を否定しているようなニュアンスを感じてしまう。政党というものに支持を表明することは、非常に汚れた行為である、という感覚に裏付けられているように思う。
これは戦前の普通選挙実現の前後の歴史をたどると、日本人の中にどうしてそういう意識が形成されたか見えてくる。普通選挙の導入で、政治家の権力が拡大することを恐れた内務省官僚は、選挙粛正同盟という国民運動を使って、政治家というものは、政党というものは、日陰者に扱っておかないと悪さばかりする、という悪宣伝を行い、官僚と政治家の上下関係を明確にした。最後には、選挙粛正同盟が大政翼賛会に変身して、政党は解散させられる。
今日もそうした政党への感覚による弊害が出てきて、政党や政治家は、思想を持たず国民世論とマスコミの論調にばかり依拠した機会主義的な行動しか取らなくなってしまった。いま一度必要なのは、政党や政治家と国民や社会団体との十分なコミュニケーションであり、熟議である。それなのに「政党支持の自由」なんて政党や政治家を突き放して、社会の合意形成の場である政治においてお客様感覚で高見の見物しかしなければ、政治が世の中のニーズを十分満たせるわけがないのは当たり前だ。
もちろん社会団体が、考え方が一致しない上に、戦術も戦略も、イデオロギー的な定義づけもなく特定の政党とおつきあいするだけの十分な理由や動機がないまま、ずるずると関係を続けていくことはどうかと思う。労組という業界において、共産党に近い労組は、連合系労組に対して「政党支持の自由を認めず、民主党や社民党とべったり」という批判をするが、労組内の政治的自由で言ったら、役員はともかく一般組合員の政党支持などそんなに縛っていない。しかし一方で共産党に近い労組では、機関紙等で共産党以外の政党や政治家については罵倒され続けており、表向き「政党支持の自由」なんて言っても、組合の会議で、私は民主党や社民党を支持しています、なんて言えるような雰囲気はない。
政党を必要なものとして、民主的な改良を加えていくべきで、政治忌避みたいな雰囲気に安住して「政党支持の自由」なんて言葉を掲げてしまうことは、民主主義の構造そのものをおかしくしていくような感じがしている。
●そま正夫「日本選挙制度史」など、昭和初期の普通選挙制のスタートをもって、内務省主導で盛んに政党不信を煽る世論形成が行われ、選挙規制が行われ、政治家や政党に対するネガティブな国民感情が形成されたことが明らかにされている。その国民運動を担ったのが、選挙粛正同盟だが、これが後々大政翼賛会に衣替えする。
●一方、日本共産党は、戦前は弾圧の、戦後は一貫して日本の権力にとって監視対象であったので、無党派や、戦前には他の党派を名乗る様々なダミー組織を作ってきた過去がある。その戦術の延長に「政党支持の自由」があるのだろう。
●1995年が最後のあだ花の選挙だったように、その後日本共産党は凋落の一途をたどっており、一方ではその頃から、労組を除く社会団体が政党との距離感がニュートラルになった。政策実現型のNPO活動が誕生したり、二大政党の一翼を担う民主党が市民運動と一定の近い距離を保ってきたことから、最近の市民運動にとって政党や政治は道具として利用するものと認識されており、今や「政党支持の自由」とわざわざ言う必要はなくなっているように思う。多くの市民運動は、超党派で上手に政治家と関係を作っているなぁと感じている。かえって「政党支持の自由」なんて言って、政治家との関係が作れないことが今時の市民運動にとっての桎梏になると思う。
●スウェーデンでは、義務教育課程から、選挙時に学校に政党からの説明員を呼んで、政策等を説明させ、模擬投票をさせる(NPORight'sスタディーツアー映像 1分25秒~2分55秒あたり)。政党の青年部活動も活発で、政党本体の意思決定に異議を唱え修正案を提出する力も持っている。そういう国の民主主義と、大のおとなが政党支持の自由なんて無意味な護符に安心して政治的能力を形成できないでいる国の民主主義とついつい比べてしまう。
●私の政党との距離について立場を明らかにしなければならない。今の私は無所属。仕事先のあっせんで民主党にサポーター登録しているが、年1000円の会費が民主党の資金になっているのと、たまに定例の党首選挙があれば投票できるぐらいで、意思決定に参加する場所もないし政党からあれこれ指図されることもない。かつては旧民主党の地方組織づくりに関わった関係で1998年から5年ほど民主党の党籍を持っていたが、当時は小泉構造改革に明確に対決しなかったことと、衆院小選挙区ごとの封建制の党組織に改変されたときに小選挙区内の民主党と考え方も行動も人脈も合わなかった上に、向こうも迷惑そうだったので、党籍を外してもらった。
そうは言っても、欧州のような保守・社民の二大政党プラス中小政党というような政治構造が望ましいと思っているので、政党そのものを否定していない。まともに機能する社民主義政党が現れればその中で活躍したいという希望もある。(あんまり言いたくないが、残念なことに日本の社民党は、ケインズもわからなければ、福祉国家がどういうものかも福祉政策もあまりわかっていなくて、平和運動とフェミニズム運動と、気むずかしい左翼文化人のサロンとしての専門商店と化しているので、私には合わない。)
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コメント
>労組内の政治的自由で言ったら、役員はともかく
>一般組合員の政党支持などそんなに縛っていない。
連合系民間労組で、共産支持あるいはそれに近い意見なんてばれたら大変なことになりますよ。
>しかし一方で共産党に近い労組では、機関紙等で共産党以外の政党や政治家については罵倒され続けており、
そもそも「論外」で議論の対象に入っていないから「罵倒」もなし、
とも考えられます。
投稿: Executor | 2011.07.25 15:56
まともなおとなが集まって政治談義が始まったら、共産党以外の政党が「議論の対象に入らない」ということは驚異です。
「論外」として議論もさせないのが、共産党色の強い社会団体の運営なんでしょうね。
外形的な束縛ではなく、人間の内面から束縛しようとするやり方は、共産主義の常套手段です。
投稿: 管理人 | 2011.07.25 23:24