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2011.05.08

5/8 電灯を消して五月に冷房をつける東上線の節電がおかしい

今日都内に出たが、東上線の車内が真っ暗。本も読めない。一方で、もっと電力を消費するはずの冷房はついている。なにかあべこべだ。暑さは窓を開ければ解決できるが、本も読めない電車で何したらいいのか。特に最近はダイヤに余裕を見すぎてと電車が遅くなっているので、ますますしんどい。

こうした事実認識と倒錯した節電のやり方は、文化人たちがメディアで「今までが明るすぎ」などと軽率に発言することの影響で、実際に節電できる電力量とは無関係に不便さを耐え忍べばそのうち電力不足は何とかなる、という大東亜精神の表れである。
恥ずかしい話だが、わが職場もつけっぱなしのパソコンを何ともせず、一所懸命、電球を抜こうとしていたことがあった。メンテナンスの係員が、並列と直列の電球があって一定以上抜くとそもそもつかなくなる、と指摘して中止となった。不便を耐え忍ぶことも大切だが、実際に必要なのは数字としての電力量の抑制だ。しかもピーク時間帯の電力量の抑制だ。

●電力不足でもない時間帯まで駅のエスカレーターを止めているのも、どうかと思う。エスカレーターが使えなくて不便という問題もある上、もともとも狭い階段を削って設置したエレベーターだから、止められると、階段を昇るのを待つ行列がすさまじい。すべての時間が電力不足ではないのだから、善処してほしいと思う。こんなことがあるから私は、鉄道駅の橋上駅舎化はよくないと思っている。
また、志木駅がそうだが、エキナカビジネスで作った商業施設のエスカレーターが絶え間なく動いていることとのコントラストは、公共性というのはどちらにあるのか、と思う。電車がどんどん不便になる一方、スカイツリー開発はじめ不動産投資に傾斜していく改めて今の東武鉄道の認識を感じさせられるものだ。

●鉄道がぎりぎり節電にがんばって不便にしても、結局マイカー利用が増えて、石油消費量が社会全体では増えてしまうような感じがしている。経済成長を維持しながらエネルギー使用量を抑制し効率化するには、マイカーから公共交通へのシフトを、大都市部こそもっともっと進めるべきであり、そのためにはあまり鉄道だけが暗くしたり、バリアフリーを止めたりすることは、かえって副作用が大きいのではないかと思う。

●3.11より前のダイヤ改正の日中の不便さを感じている。タイミングが悪いのか、いつ駅行っても、各駅停車以外の速い電車は10分以上待たされる。原因は、急行を均等に12分間隔にしたものの、準急電車をその分減らした上、たまにある電車は発車時間を急行の直前、直後に配置したため、前の7~8分間隔から、実質的には12分間隔になってしまったからだ。3.11の大地震まではそれでも地下鉄直通の急行がその不便さを補ってい(ることになってい)たが、地下鉄の減便の余波を直通急行が受けてしまい、なくなった。
まだ電車の床が板張りだった1977年ぐらいから東上線に乗っているが、こんなに不便なダイヤは初めてである(その頃から地下鉄直通が始まるまでのダイヤはわかりやすく、速くて、使いやすかった)。そして12分間隔にしか来ない電車が来れば混んでいる。今日はそのうえ電気がついていなかった。電車に乗るのが苦痛である。

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5/8 未成年者の選挙アルバイトの問題から

hamachan先生が、未成年者に選挙運動のアルバイトをさせた落選候補の事件を取り上げて、選挙運動に労務を提供した若者がなぜ労働とみなされないで、選挙運動とみなされるのか、と疑問を呈しておられます。もちろん先生は公選法の文理解釈は織り込み済みで、そんなことになっている意味と、実際に票と取引した金でもない事件を事件として扱っている意味を問うています。

おそらく、問題は「選挙運動」と「選挙運動のための労務」の定義にあるのだろうと思うのですが、少なくとも上の新聞記事から想像するに、当該学習塾に通う未成年たちは、割の良いアルバイトという気持ちで「選挙運動のための労務」を提供したに過ぎないのではないかと思われるのですが、それが未成年者に禁じられた「選挙運動」とみなされて候補者の逮捕という事態にならなければならない理由は那辺にあるのか、よく理解できないところがあります。

まあ、政治ってのは労働基準法上の「公衆道徳上有害な業務」だと言われると、そうカナという気分もないわけではないですが、まあそれは冗談として、駅前で候補者の名前を連呼するという至極単純な労務に従事したことが「選挙運動のための労務」ではなく「選挙運動」に該当するというのは、(少なくとも労働法的感覚からすると)いささか違和感があります。

本件では、彼らに1日数千円の「報酬」を支払っていますので、「運動」の参加者として無償の役務を提供しているのではなく、まさに報酬を対価として労務を提供しているとしか解釈できないのですが。

候補者の名前を連呼するだけでも「労務」じゃなくて「運動」だとすると、スーパーの売り出しの宣伝で店の名前を連呼することも「労務」じゃなくて「運動」だから賃金を払わなくても良いとか、そんなことはありませんからね。それこそ見え透いた労働者性の否定であって、バカ者と言われるはず。

では、会社の社長さんが選挙に出るからといって、その会社の社長さんの名前を会社の名前とともに連呼するのは、労務なのか運動なのか、とか。

いずれにしてもよく分からないので、納得できる説明がどこかにないかと思っているのですが。


と書かれています。先生は行政法の先生に教えてほしい、と言うことなのですが、おそらく、社会を超越した公正・中立・無謬の権力としての行政を前提としている(決めつけ過ぎですが、行政訴訟の判例を見ると、攻める側も守る側も、勝った側は、そう行政の位置づけてそうあるべきと主張した側がほとんどなので)行政法の先生たちも、下俗な公選法について、質問されている意味はわからないのではないかと思います。

また、故杣正夫先生と「市民政調」の公選法廃止プロジェクトのメンバーと、かつての自由法曹団の弁護士と、私とこのブログの愛読者以外は、生まれてもない戦前を懐かしんでその時代に戻そうとする右翼から護憲護憲のサヨクまで、買収と脅迫と集計不正以外のことについて事細かに規制する異様な日本の選挙運動規制を当たり前だと思っています。選挙管理委員会に上げられてくる苦情は、規制緩和ではなくて、これはやってはいけないと思いこんでいることを候補者陣営がやっていて、それを公選法が規制していない、という類の苦情が大半なのではないかと思います。

スーパーの店頭での大声での呼び込みと、選挙運動での名前の連呼と、働く質で何が違うか、と聞かれると違いはありません。私も同じような問題意識を持っています。しかし日本人の選挙に対する特別な感覚は、見事にこの違いに反映されていると思います。同様のことがマンションの集合ポストへの政治ビラ投函が逮捕されるという法解釈です。いらないものを投函されていたなら棄てて我慢すればいいことを、政治的自由を規制してもよいと考えて行動してしまう感覚です。政治活動の自由の大切さを痛いほど知っている国では考えられない現実ですが、日本の選挙に関する特別な感覚からは、マンションという神聖な別世界に俗なるものを持ち込んではならない、と解釈されるわけです。
候補者に成り立ての人が、選挙カーでガンガン名前を連呼するだけの候補者になりたくない、と言っていたのに、公選法の○×をだいたい理解して公示日が近づくとにつれ、だんだんいかにもな候補者になっていって幻滅した経験を何度もしてきたので、私にはいよいよその思いが強く感じています。

しかし一方で、キャンペーン活動で人を使うというのが最もお金がかかり、そのことで候補者間の資力の差が選挙結果に影響することを極力排除しようというのが表向きの理由で、したがって直接票に関わる作業については、お金を払ってはいけない、と公選法は解釈することになっています。そういうなかで、公職選挙法は特別刑法として独特の解釈の進化をたどり、労務の提供の範囲がどんどん狭められてきたということが言えるのではないかと思います。
※ただしやっぱり選挙の現場で人をタダで使おうとすると、選挙のときに使っているお金以上の労力が普段に出ていると感じます。手伝っている人に金を配るということではなくて、タダで働いてもらえる人のご機嫌を取らなくてはならないわけですから(そういう人が離反するとほんとうにネガティブなエネルギーになる)、もっといい仕事をする時間を、そういう人たちとの親密な交流に割かなくてはならないし、いろいろ仕事を進めるときにも、そういう人たちに何でもなくてもお伺い立てなくてはならないし、金では表せないようなコストというか手間がかかっているように傍からは見えます。金で解決できたら、と思うことも多々あります。

もっとも昔は、金を介在させて企業や町内会ぐるみの選挙の弊害があって、さらには中選挙区制という独特の個人主義の選挙を強いられる選挙制度のもとで、企業の社長や労組の幹部、自治体では町内会の幹部でないと立候補できない仕組みが機能していて、そうした弊害から解放したのも、この規制の効果として否定できないと思います。

しかし、メディアの多様化や広報戦略の進化、有権者側の情報チャンネルの多様化などを考えると、そろそろこういう因果関係の不明確で、定義不可能なばかばかしい選挙運動の手法に関する規制は緩和して、資力の問題があるなら、選挙運動の支出総額の規制だけを設定する方向に切り替えるべきだと思っています。

また未成年者が選挙運動することが話の本題ですが、これもそろそろ緩和すべきものではないかと思います。想定される弊害は大人が子どもをだまして有権者である大人の投票を拘束するか、ということでしょうが、そんなことの現実的なのでしょうかね。前首相が40歳代末、商店街のねり歩きで高校生ばかりに名刺を配っていましたが、せいぜい親や学校の教員に「昨日さぁ、Hさんが来てたよ、名刺だよほら」ってぐらいなもので、運動の広がりを作る下地づくりしかできないと思います。
また未成年者も様々な行政サービスを受けたり、非常時には政治の影響を受けるわけですから、意思決定権はまさに議論されている最中ですが、選挙運動に加わって、世の中を知ることぐらい悪いとは言えないことだと思います。

●実際には労務に過ぎないことを運動員にさせて報酬を払うために、候補者陣営は涙ぐましい努力をしている。
もっとも合法的なものは、運動員をただ働きさせるための努力。サヨク政党ならイデオロギーでたばね、党員組織や会員組織で縛るもの。ただしそれも日本共産党や公明党のような、党員どうしでの生活物資の共同購入や、仕事の斡旋などの機能が十分に働いていないと、日本社会党のように気に入らない候補者なら党員であっても選挙をサボタージュするということになる。民主党の場合、労組役職員や親しい業界団体から休暇を取らせて働く人をかき集めてもらう他は、私設秘書以外の「スタッフ」「ボランティア」などが中核となって選挙をするが、その報酬は選挙区内での自治体選挙での候補者とすること。しかしこれも党勢が右肩上がりならうまくいくが、今回の統一自治体選挙やその前のいくつかの自治体議会選挙のように下降気味の支持率のときには、乱立する候補者を調整することもできず同士討ちみたいなことになって、落選したら、ごくわずかの因縁の深い人だけ薄給のこしかけ私設秘書に戻されたり、組織的支援のある人はその組織が引き取る以外は、はいさようなら消えてくれ、という結果になる。

●一方で、選挙カーの乗務員、いわゆる「ウグイス嬢」というのには登録すれば報酬が払えることになっているのも変。インターネットからビラから看板から幟旗まで、言論で行う選挙のツールをことごとく規制しておきながら、みんなが迷惑だと思い、政治家がバカになれるかどうかを試すかのような障害物競走とも言える選挙カーだけは、むしろ奨励策が採られている。選挙が政策で選ばれず、人脈と、「よさげ」という空気的評価で決められる制度になっている。選挙カーを使わないと、事務所以外何も看板を出せないから、歩きや自転車で演説会をやっても誰の演説会なんだかさっぱりわからなくなるようにできている。
さらには、あの奇妙な行動様式を保存している「ウグイス嬢」の派遣会社まであり、地域の人が手弁当で選挙を応援している現場で、派遣ウグイス嬢が、現場の人にマニュアル的な行動をするように指導して軋轢を生んだのは何度も体験した。

●先の統一自治体選挙で、選挙カーをやめよう、という運動があったらしいが、迷惑だから、震災があったから、というのは動機としてまぁいいが、しかしそれが理由なだけでは、政治活動の自由や、広報活動の多様化、市民の情報収集チャンネルの多様化という現実の前においての、選挙がどうあるべきかという議論の水準に到達していない。議員報酬を下げろ、議員を減らせという我慢比べの政治家あるべき論の域を出ない。
より効率よく言論戦をやるための他の選挙ツールを解禁させ、効率の悪い選挙カーによる運動を駆逐するんだ、という論理でなければ、単に選挙カーをやめたとき、ますます政策主張を伝える手段を失って、翼賛選挙みたいな状況になってしまう。

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2011.05.06

5/6 浜岡原発を止めようと首相が言っているのにけなす人たち/推進派は少しずつほめて政治家を育てている

菅首相が中部電力に、最も地震による危険性の高い浜岡原発を停止するよう要請した。

これをめぐってツイッターでは、発言直後、反原発派の投稿者たちが、「信用ならない」「全部止めないのか」と菅首相を批判し続けた。夜になって、孫正義氏が「たまには、我が国の首相を尊敬し褒めまくるべきだと思わんか‼」と書き込んで、すこしましになったが、当初はひどかった。

原発推進派は、少しでも自派に有利なことをした政治家をほめ、電力関係票を動員して支援し、パーティー券まで購入してくれている。利権といえば利権なのかもしれないが、言うこと聞いてほめられるのと、まだまだとけなされ続けるのであれば、どちらに政治家がなびくのかは自明のことだと思う。

生存競争が激しい政治家(特に国政の)は、①票になる(選挙の強さ)、②力のある人と人間関係ができる(政治力の強さ)、③政治資金を提供してくれる(自由度を高める)、④歴史に名前を残す、という順に行動を決めざるを得ない。反原発派は自分たちの主張を丸飲みして④となる行動だけを求めているが、落選したら元も子もなくなる政治家が、そんなつきあい方をして言うことを聞いてくれるとは思えない。同じ選挙区の反対党の政治家がもっともっとましなら、そういうけなし方(ネガティブキャンペーン)は効果的だろうが、少なくとも自民党のイデオロギーの殉教者しか立候補しない菅首相の選挙区での対立候補がそんなまともなな人がいるとは思えない。

反原発運動で斬新的な原発削減を考えている人たちが、これまで真っ先に止めるべきと言い張ってきたのが浜岡原発なのだし、これを止めてほしいと電力会社にメッセージを送ったことについては、素直に評価したらいい。脱原発の行動を取っても票は減らない、政界で孤立しないんだ、というメッセージを運動の側が出さなければ、多数党の政治家はなかなか路線変更ができない。

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2011.05.04

5/4 迅速な事故補償を考えれば東電の電力料金の値上げはやむを得ない

東京電力が賠償金を支払うための原資がないので、電力料金を引き上げるという話が出ている。

ツイッターでは感情論のような反対論が盛り上がっているが、違和感がある。

この値上げは、東電社員が焼け太る話ではなく、原発事故で生活がたちゆかなくなった人に使われる。それがなぜ「東電ふざけるな」という話になるのか、感情論以外に全く理解できない。

増税の議論もそうだが、絞れるまで絞ってから、というのは簡単な議論が行われるが、そうすることになれば、3000万人もの顧客がいる東電の顧客のほとんどが納得するほど絞るまで、被害補償が進まないという結果になる。民営企業だから、補償という再生産できない出費に対して、原資もなく実行することは不可能だからだ。結果として、それは発電のリスクを福島県沿岸地域に押しつけてきた首都圏の人たちのエゴになりかねない。
絞る努力はしてもらいたいものの、その副作用も考えるべきだ。現在、原発事故の処理にあたっている関連業者への支払いが保留されていると聞く。今、軽々にそうした議論を展開することは、最も困難な業務にあたっている、社会的な立場の弱い人への副作用もともなう。

次の解決策は政府の責任を追及して税金の投入ということになる。これはこれで、少しはやったらいいと思うが、全面展開すると、原発の事故とは全く関係のない地域の人たちにも多額の負担をつけまわしすることになる。それが東電ユーザーとしてとるべき態度なのか疑問である。

そう考えると東電の電力料金の引き上げは、やむを得ないと思う。首都圏で自覚なく電気を使ってきた人たちのツケと反省を行うべきときではないかと思う。簡単に考えても原発依存社会にならざるを得ない、電気自動車やIHが推進されたときに、疑問を呈した人がどれだけいただろうか。

原発にはそうした事故負担が裏側にあるんだ、と多くのユーザーが自覚して、次のエネルギー政策への転換につながれば、とも思う。

言うまでもないが、値上げは節電に向けた経済的なインセンティブにもなる。

●公益事業を独占的に民間企業が運営することによるその料金負担については、税金と同じような性格を持つということなのだろう。この間、公共サービスの民営化がすべての改革に勝るような議論のされ方をしているが、ケースバイケースで考えないとならないという教訓になる話だ。

●引き続きツイッターには、東電責任論全面展開で書き込まれている。中にやや良心的な立場だと思うが、説明責任を求める人がいて、全くその通りなのだが、果たされた説明責任とはどの水準なのかが共通の認識が形成された上で説明責任を求めないと、単に値上げはイヤだと言っている人たちに利用され、首都圏の人が納得するまで事故の補償ができません、という結果になる。

●増税の議論でもそうだが、鼻血が出るまで絞れ、という議論というのは、物やサービスがどこからどういう風に作られ、自分たちの手に入っているということの想像力が欠如した議論なんだと思う。物やサービスがどれだけの人の手間と努力によって作られているか考えたら、絞る努力は必要かも知れないが、限度があることぐらいわかるものだ。福島県沿岸部の人たちに兆円単位の補償を払うのに、東電内部の努力だけでは絶対に無理。そんなことも想像できないで、無責任なうっぷんはらしの議論ばかり横行する、この社会は危機だと思う。
あるいは、俺は客だ、おまえは努力しろ、と言ったり言われたりすることだけが当たり前の光景になってその世界に溺れてしまっているのだろう。また、無理とも思える低価格を実現した英雄をテレビはよく取り上げていて、それに感化されている人が多いからだろう。そういうことが回り回って、多くの人の生活の首を絞め、生産性のない苦労自慢ばかりの社会になってしまっていることを、考えるべきじゃないかと思う。

●原発問題に関しての23区内の原発批判派の当事者性のない議論の仕方にいささか不愉快さを感じる。計画停電も聖域、電力料金値上げ反対、被害者の補償は誰の話だ、それで原発の危険性や、電力不足は政府の陰謀とか言い募って、いったい何なんだと思わざるを得ない。もちろん福島の原発事故罹災地からすると私のような者でもお気楽な立場ということなのだと思う。

〈追記〉
東京電力の財務諸表を読むべきだろう。5兆円超の売上高に対して、人件費は4500億円程度、仮に50%のリストラをしても年間2000億円程度の資金しか作れない。積立金を崩せという議論があるので貸借対照表を確認したら、それは貸借対照表上の話で、資産は7割が固定資産で、鉄塔や電線、電柱を換金しないと補償金にならない。電線泥棒が一時期流行したが、そんな話だ。
電力や鉄道など設備投資が膨大な公共サービスの事業体に共通しているが、流動資産/流動負債の比率はあまり良くない。しかも、これらの数字は原発事故前のもの。

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5/5 子ども手当廃止・扶養控除復活という政策判断がされる政治的土壌 

震災復興や税と社会保障、最も目先の様々な政策を推進するために、与野党での歩み寄りの障害になっている子ども手当が廃止または縮小される方向で検討されている。

行政による子育て支援は、施設やスタッフの充実による福祉サービスの基盤整備におくことが優先されるべきと考える私は、子育てに関する現金給付に批判的な立場。しかし、子ども手当導入前の、金持ちの子育てばかり優遇する所得税の扶養控除(子ども部分)が廃止され、子ども手当に置き換わった分については、率直に評価してきた。

そうした観点から子ども手当の廃止についてはともかく、「元に戻せ」=扶養控除の復活というような議論は全くナンセンスだと思っている。
扶養控除の復活となった場合、そもそも所得税をほとんど納税できない年収200万程度の人にとっては子ども手当の廃止がされるだけ。逆に年収2000万円ぐらいになると年18万円も納税額が減ることになる。こういう人たちの収入を増やすことに、政治が大議論してまで踏み切ることなのか疑問。

そうしたナンセンスな政策判断を、どうも野田財務相がしてましったという新聞報道もある。

子ども手当の議論のされ方については、政局談義について批判的な人であっても、結局政局的な議論に振り回されているということしか感じられない。
この間、子ども手当を評価している高齢層の人からよく「子ども手当をもらえてよかったね」と言われるが、子ども手当が家計を支える力になっても、具体的に子どもに関する社会サービスが改善された実感はない。保育園事情は保育園経営者の努力以外に良くなったとは思えない。よかったねなんて言われて、こいつら子育ての何がわかっているんだ、と思うが、わからないんだろうと思って反論もしにくいごろついた不満を残す。こうした人が言いたいのは、何とか政権交代のプラスの面を自分たちで確認しあいたいという欲求の消化に過ぎない。
一方、子ども手当反対派は、私と同様の問題意識がありながらも、彼らが語りたいのは、民主党が推進したという政局談義的な批判と、結局はお父さんが子どもを肩に乗せて耐え、お母さんは自分のやりたいことをほとんど我慢してその力をすべて子育てに注げ、という、戦後民主主義・高度成長期に形成された価値観を語りたがっているだけである。
まじめな政策効果について議論されているのは、ごく一部の人たちだけ。そこで反対論も賛成論も何の意味もないということになっている。

そうした中で、中身の検証もなく政局取引の材料にされ、廃止と抱き合わせで、逆進性が最も強い扶養控除の復活という最悪の金持ち優遇税制が復活されようとしていることを、とんでもないことだと思いながら、結局、政局談義レベルの子育て支援策の語られ方しかしなかったところに、「元に戻せ」という最悪の選択に抗する力は持てないと、政策にあきらめ、そんな政策判断しかできないこの国の力に諦めを感じている。

●CMで「日本は強い国」なんて強弁されると、苦笑してしまう。自分たちの所属する集団について、根拠なき優位性や愛情をみんなで公言しあい語りたがるときというのは、その集団にとって最もろくでもない状態になっているという経験を、右よりでも左よりでも何度も体験してきた私には、うすら寒いものを感じる。

●福島県内の小学校のいくつかの校庭が放射能汚染で使えなくなっているという現実を前に、反原発の市民運動が子どもたちを緊急避難させよ、と騒いでいる。汚染の問題だけ取り上げたらその問題意識は正しいのだろうが、体育や外遊びができないことはかわいそうだが、緊急避難させるということは、公権力によって、生活が切り離されていくことで、稼ぎがなくなるわ、人間関係が全部リセットされるわ、それはそれなりに汚染と同じくらいその子どもにとって、生活環境が大変なことになるということを考えなくてはならない。そういう騒がれ方をしてちりちりバラバラになっている南相馬市民と行政関係者の苦労を考えると、何だかなぁ、と思わざるを得ない。
反原発運動の問題意識やあるべき将来は私の考えはほとんど同じだが、危険だ危険だという話ばかりで、原発をめぐる生活問題に関心を払わないでいることには、いささか違和感がある。ただただ現地の人たちの子どもとの関係を不安にさせるだけである。
社会システムに組み込まれた原発の側面を見ずに、自然科学者による危険性の議論だけに埋没しているのは、1980年代の反原発運動から全然進歩していないと思ってしまう。

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2011.05.03

5/3 罹災地・宮城の民主党参院議員は地震があっても国家公務員宿舎を進めると回答

朝霞市の米軍基地跡地に国家公務員宿舎建設の反対運動をしている、朝霞基地利用市民連絡会に、櫻井充財務副大臣から、こんな事態であっても、違約金を払いたくないから、基地跡地に国家公務員宿舎建設を既定路線どおり進めるとの手紙が届く。

朝霞基地跡地利用市民連絡会
 代表  大野 良夫 殿
 お手紙ありがとうございました。
 お越しいただいた件につきましては、これまでの経緯を確認いたしましたが、朝霞市には現在の宿舎建設計画にご同意いただいており、また、多くの市民にも当計画にご理解をいただいているものと承知しております。
 また、本件は、既に宿舎建設に伴う事業契約済みであります。仮に別地へ宿舎を建設することとなれば、当該事業契約を解除する必要があり、損害賠償金が発生することとなります。
 なお、私の方から代替地の件を提案した事実はございませんので、念のため申し添えます。
 今後とも、地元行政当局とよく調整しながら整備を進めていく所存でありますので、どうぞよろしくお願いいたします。
平成23年4月28日
財務副大臣 櫻井 充

この文中で、地元では公務員宿舎は了承されていると書いているが、先の県議選では、宿舎建設反対を主張した候補者の票の合計の方が多く、また当選者も、上位当選した側が建設反対を主張していた。事実を歪曲した書き方は問題が多い。了承したのは、市民に相談しない富岡市長だけではないか。市議会でも歓迎決議したこともない。

そもそも論からすると、緊急事態に対応できるよう千代田区等都心にあってまだ住める国家公務員宿舎を潰し、何かあれば東上線や有楽町線がすぐ運休する朝霞に800戸の国家公務員宿舎を建設することのナンセンスは何度もここで書いてきた。

そんなことで2010年11月の事業仕分けでは、今官房長官が責任者となっていた事業仕分けで、違約金を払ってでも中止と判断されたはず。公務員賃金を直撃する話でもなく、中止になって困るのは当て込んでいた建設業者とそれと連んでいた理財局のためだけの政策。それが何の説明もなくうやむやにされ、元通り建設する話が進んでいる。

さらに、この地震の被害に資材不足で仮設住宅すら建たないため、政権基盤がぐらぐらと揺さぶられている中であっても、3LDK規模800戸の国家公務員宿舎の建設を規定路線と進めるというセンスが理解できない。財政の問題に加え、資材不足でこの優先順位は問題が多い。
五百旗旗座長の何とか会議が、復興マンションみたいなものを建てるなどと打ち上げているが、その資材に回せば2000人近い人の住宅が確保されることになる。

そしてよく調べると、この櫻井という副大臣の出身は、罹災地の宮城県選出の参院議員ではないか。いったいどういうセンスをしているのか、感覚を疑いたくなる。
今後も参院宮城県選挙区は民主党の複数擁立区となるだろう。次の選挙では、こうした判断をする政治家やそれに連なる自治体議員はどこかで淘汰した方がいい。それが民主主義の良識だ。

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2011.05.02

5/2 健康の安全も大切だが生活も大事

知人がツイッターにこのような書き込みをしていた。

「 この子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)の趣旨に沿えば、どう考えても、原発事故に関する子どもへの対応策は何かにつけて「現在とりうる最も安全な道」を適用してしかるべきはず。文科省・厚労省・原子力安全委は何を考えているのか。」

まったくその通りなのだが、私にはあまりそういうことだけは言えないように感じている。
私の父も、学生時代にアルバイトした先の使用者も、幼少期に引き揚げを経験し、地方都市で訛りや文化の違い、ゼロに近い財産で再出発している。その辛苦を人づてに聞いてから、やはり生活を失うことも、健康リスクと同じくらい、子どもにとってはしんどいことなのではないか、と。余談だが、父の葬式の家族のあいさつでは、父の特異な性格が形成されたその体験について語ることを避けられなかった。

国も飯舘村も、健康リスクと同じくらいの生活を失うリスクがひっかかっているから、なかなか避難が進まないし、村民に強制をできないのではないか。

医療と教育と科学は、生活が置き去りになってしまうところがある。しかしそれらの効果を高め、満足度を上げていくのは生活の場なのだと思う。

●オサマ・ビンラディンの死に熱狂しているアメリカ人。その四十倍もの人を殺した原爆を作り、落とした人の死を日本人はここまでよろこんだだろうか。
また菅首相の、「テロ対策の顕著な前進を歓迎し、米国やパキスタンをはじめ関係者の努力に敬意を表する」という言葉はいただけない。もちろんテロ対策は重要だし、解決がめざされるべきだが、殺害による死について、顕著な前進という言葉は不用意な発言ではないかと思う。
赤木智宏さんがツイッターで「アメリカ人がビンラディンが殺されて喜ぶのは、俺の立場であれば、正社員家族が殺されて喜ぶようなものか。全く理解できんな。」と。同感。

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