10/9 郊外型大型店の問題ではりふれ派も新古典派も同根
若手の経済学者に尊敬できる人が少ないなぁとつくづく思う。現状打破しようとしながらも、ステレオタイプな理屈におぼれすぎ。
今度は飯田泰之。
大畠章宏経済産業相が、商業の大規模化で地域社会が崩壊している現状をみて、大規模小売店舗法の復活のようなことをぶちあげたら、twitterで、
そしてやっと出た「成長戦略」は大店法復活ですか……もうなんだかすてばちな気分.
約5時間前 webから
地元商店街はオーナー家族以外の「雇用」は作りませんが,大規模店は商店主の家族以外にも雇用の門戸を開いてくれます.民主党の「地域社会」における市民は地主階級のみ.古代ローマみたい.
約5時間前 webから
規制開始時点の有力者様の支配が続いたあげくの「地域社会の崩壊」だった気がしてならねぇ.
約4時間前 webから
で寄せられたコメントを引用し
torakare 「自生的に」発展していった経緯をよしとするなら、必要なテナントを入れたり、不要なテナントはなくしたりしながら生まれ変わっていく大型店舗も、ひとつの街のように「自生的に」発展していくもの。大店法の変遷が、実際にどういう「影響」を与えたのか、その効果についての確かな研究に触れたい。
約4時間前 webから
iida_yasuyukiと6人がリツイート
そして飯田氏自身のコメントで
主業農家ではない農家を保護し,商店街のオーナーを保護する.これが何を意味しているのかみんな理解しているのだろうか.
約4時間前 webから
と。抵抗勢力と結託した民主党政権が商店オーナーや地主支配を追認している、という文脈。現実と違う。中心市街地の崩壊の理由も根拠のない、旧支配層の問題と片づけてしまっているのも安直。
大規模店が雇用を創出するというが、地域社会での需要が一定のもとでは、大規模店と旧来の大規模店、大規模店と中心市街地とのゼロサムゲームをやっているだけで、旧国鉄のビジネスモデルのように中央資本が店舗で赤字を垂れ流して、失業で寝ている人を起こすことをしない限り、経済の総量は変わらない。自営が雇用、それもサービス業につきまとう非正規・低賃金労働に置き換わるだけである。
おまけにその雇用たるや、それだけでは食べていけない低賃金、社会保険なしと、ほとんどボランティア並みの雇われ方しか生まない(この間、関係労組の努力で少しずつ是正はされているが・・・これも抵抗勢力の悪あがきなんて言われそう)。これを上場企業がやるような雇用と呼ぶのかね、と思ったりもする。
新規雇用の量が善で、質やそれによって失われる雇用や業を問わない、新古典派&りふれ派のいかがわしさを感じる。
飯田氏が決めつけているような中心市街地の商人たちがそんなに金持ちかというとそういうことでもないし、家族しか雇用を作らないという言い方も実態ではない。そこはそこの多少の従業員がいるものだ。また、小商人が生きられる社会というのは、新しい商売をやろうとしている人のインキュベーダーにもなる。インキュベーダーなしに経済の新陳代謝は起こらない。大規模店の雇用にぶらさがるしか、商業に関われないとするなら、ひどく官僚化した社会になっていくだろう。
また、郊外型大型店などの開発は、働かないで食べようとする地主たちの利権そのもの。市街化調整区域の市街化区域の編入や、農地の市街化区域への編入など、さまざまな黒い噂がたえない。さらにそこに行政コンサルタント会社が8桁のコンサルタント料を税金からふんだくって作り、公式あてはめ型の地域経済活性化の分析が自治体に持ち込まれ、3年で異動してしまう市の職員は何となく信じてし、市政の決定権を握っている人たちの野望を追認してしまう。そして土地持ちは農業をやめてノーワーキングリッチになる。
まちづくり全体の責任を負わない農業委員会が、農地を市街地に編入する決議をしてしまったことで、道路や上下水道の整備、果てはコミュニティーバスの運行開始など、自治体に思わぬ負荷がかかることにもなる。
中心市街地の価格が高いことを問題にするが、土地価格は考え方が変わって土地の収益性に比例するようになったものの、いまだにその着地点は相対的に決まるもので、商業の収益のうちどのくらいが土地代や家賃に消えることが妥当かという基準で決定しているものではない。
したがって、中心市街地の土地持ちたちの都合のために高止まりしてしまっているというのが現実だし、逆に福井市のように中心市街地の土地価格が崩壊したところでは、インキュベーダーみたいになっている商店街も出てきている。
大規模店が蔓延することは消費者者主権の改革のゆがみとかそういう議論ではなく、土地を持っている人間だけが楽して生きられる土地神話に原型がある。それはもまさしく最も壊さなくてはいけない古いパラダイムではないかと思う。働かない土地持ち不労所得者のために、低賃金雇用が蔓延したり、地域企業が低収益化することが進歩なら、社会なんか進歩しない方がいいに決まっている。
●どういうことが人間にとって安寧で幸福なのか、ということを無視して、ピカピカなもので改革派っぽいものでシステム化されたものが善、古くさくて昔からあるもので非システム的なものが打倒すべき象徴という決めつけ方をするのが、鈴木亘などの新古典派と、飯田泰之などのりふれ派の共通するダメさなのだろうと思う
経済学が何でも理解できるというおせっかいな位置づけが、各々の分野でさまざまな議論を積み重ねていることをすべて無視して、昔のマルキストみたいに理論の公式をあてはめようとするドグマ主義に陥っているのだと思う。かつてマルクス主義に依拠する活動家や大学教授が、経済理論や哲学にとどまらず、子どもの育て方(発展段階論を発達段階論にあてはめ)まで理論のパターンのあてはめをされて大迷惑した経験を思い出す。
そういう原理原則を知っている者が改革をしてやるんだ、という態度が、大粛正や文化大革命を引き起こす。
●飯田氏が引用し同感を示した投稿に、テナントが入れ替わり街をつくる、というものがあったが、そういうことをやっている郊外型大規模店は衰退している。開店当初はそういうことをやっても、やがてはテナント料を払えなくなって、全国どごにでもあるチェーンのテナントに入れ替わっている。
●郊外型大規模店を展開するようなナショナルチェーンのスーパーの納入業者のおかれた状況を知っているのだろうか。経済学者様は個別分野のことなど知る必要はないのかも知れないが、こんな問題がある。
日経ビジネス 公正取引委員会が牽制する「センターフィー」問題
納入業者は、商品の円滑な納入の責任にとどまらず、改装時や繁忙期の労働力の供出までさせられ、商品納入がやむを得ない事情で滞れば損失補償を求められ、不公正取引の巣窟と思ったことがある。それでメーカーや問屋のスーパーに納入する部門は、値付け加工など手間のかかる作業をさせられたり、商品管理のシステムを買わされ、市場占有率の維持のためだけの赤字取引となっている。
メーカーや問屋は、地域の商店に供給している限りは、今回はごめん、次から気をつけてくれよな、で済んできたが、大型スーパーが支配する消費社会になって、取引関係がギスギスした信賞必罰の関係に置き換わる。営業マンは休暇がなくなった。
それでも最後にスーパー自身が儲かって、地域社会に税金を納めたり、賃金として分配するなら多少救いがあるが、大して儲かっていないというのだから、それが社会進歩と決めつけるのも、何だかなぁと思わないものなのだろうか。
郊外型大型店に関わって働く人々の何ともいえぬ荒涼とした感覚は、その周辺で働いてみないとわからないものだろう。
※「公正取引委員会 スーパー」と検索するとびっくりするくらい事例が出てくる。
●次の世代がクルマを買えなくなったり、ガソリンがペットボトルの水以下の安価で手に入らなくなったり、次善の策の原発増設&電気自動車の普及がうまくいかなくなってしまえば、郊外型大型店のビジネスモデルは崩壊する。やむなく郊外型大型店にとぼとぼ歩いて買いにくるおじいさんおばあさんの姿が普遍的な姿となれば、あの買い物は多くの人にとって苦痛でしかない。
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