1/23 講演ざんまい・戸田芳樹先生と神野直彦先生
午前中は、基地跡地利用に関する学習会に出て、基地跡地のうち、市の公園部分の整備計画の委員をされて、まともな議論のリードのされ方をした戸田芳樹さんのお話を聴きながら、記録係としてブラインドタッチに追われる。戸田さんは、公園を中心に設計士をしながら、東京工業大学で学生を客員教授として指導されている。学生の主体的な提案を鍛えるようなことをされているようだ。
戸田さんは、公園整備の仕方が、少しずつ変化し、今では、植生の変化を尊重したものになりつつあることと、公園を管理ではなく運営として捉えて、建設後の運営に力点を置くようになっていること、地域社会のあり方から独立した公園の存在ではなく、地域社会の生活の中に位置づけられ人と人とが関係を持てる公園にしていく、最近の潮流を聴く。
元々の計画の防災公園という、殺伐としたイメージから大きく変わるよう。とにかく楽しみなのは、基地跡地の一部に既存の植生をそのままフェンスで囲い残す計画を造ったことだ。この近辺では珍しい公園になりそう。
ただしこれも財源論との勝負となる。
午後は、団塊の世代の職場の先輩に誘われ、その世代が主催の雇用の危機を考える学習会に参加する。
雇用の危機だけならいくらでもいろいろなところで話を聴くが、今日のは関西大学教授で政府税調の専門家委員会の委員である神野直彦さんの講演を少人数で聴く機会が持てた。
神野さんは、資本主義が、初期の軽工業基軸の自由主義経済(パックスブリタニカ)から1929年の恐慌と世界大戦を経て、重工業基軸の福祉国家(パックスアメリカーナ)、そして1973年のオイルショックを皮切りに今の世界同時不況を転換として、ソフト産業基軸の知識社会に転換する流れにあると言う。その今の過程の中に、ゴルバチョフとオバマがおり、オバマはアメリカ版のゴルバチョフの役割を負うと予測された。
その中で、仕事のあり方、社会としての人の育て方が大きく転換し、今までの工業社会の仕事の仕方、お父さんが家庭を養うシステムでアクセルをふかす発想をし続けていると、世界から取り残されると警鐘を鳴らし、介護、教育、保育などに力を入れ、人が人におしみなく知識や技術を与える文化に変えなくてはならないと力説されていた。
また働き方、同一価値労働同一賃金が実現できないのは、労働組合の組織化が悪いからだと叱咤もいただく。
その他いろいろなレトリックが面白く、さすが神野先生と思いながら聴いていた。
そうなのだろうと思うところだが、今の日本で、介護、教育、保育、医療、その他人が人を大切するためのサービス業で働く人たちのあまりにも過酷な労働環境であり、知識集約型労働が増えたというけれども、若い人たちが知識や資格の修得に力を上げながらも、低賃金労働や長時間労働しかないという現状もある。
ハイパーメリトクラシー社会などと言われ、今の時点での知識社会の片鱗があまり明るい未来を感じられなくて、勉強したくないけどもまじめさや義理堅さにたけた人にとってどういう明るさがあるのか、と質問をしたが、神野先生は「人はみな学びたがっている」と定義をされ、「教育のあり方が変わる」と能力開発の意義を説き、質の転換を説くに留まったことは残念であった。
まぁ、初期の工業社会、初期の重工業社会でも、そこに従事する労働者はそれより前の産業の労働者より過酷な労働条件にあったことを考えれば、あんまり悲観的に考える必要はないのだろうが、次の時代の価値観をより明るいものとしない限り、今の若い人たちの社会に対する諦めみたいなムードは解消できないのではないかと思う。
みんなが学びたがっているというのは、そういうことを語り合う母校を持つ人間としては、どこか神話のような感じが残った。一足先に知識社会に入っているスウェーデンなどで、無産者で失業者で、まじめなだけで勉強が苦手な人が、どのような境遇で生活しているのか、検証が必要だと思った。これまでのスウェーデン社会の問題の語られ方は、経営者かやる気を失う、人口が違う、などとイデオロギー的言説しかなかったから。知識社会は多くの人にはうまくいくのだろうが、教育が苦手な人というのは必ずいるもので、そういう人がどう社会で居場所を見つけているかは、日本のような社会では大切
しかしやはり現時点ではハイパーメリトクラシー社会に付いていけない義理堅い、まじめということだけの労働力商品の特性を持つ人にとって「希望は戦争」という問題は残るように思う。
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