12/5 当事者参加を貫く
職場に入ったときには誰より民主党支持だったように思うが、みんなが成長するにつれ、みんなは政権与党を熱狂的に支持し、私はだんだん冷めていく。不思議な感覚である。
●国の事業仕分けが荒っぽい、事業選定は雑だし、やり方が感覚的に受け付けないし、一部には理屈にならない決定もしている、と書いてきている(議事録は公開されていないし、仕分け結果のペーパーが議論の内容を半分以上反映せず財務省の問題意識の範囲しか書いていないものもある)。
しかし、そんなこと批判してどーすんだよ、国民の7割はあれを支持してんだぞ、と複数の場所で言われる。もちろんいくつかほんとうにようやく整理がついたかと思うような裁定もあったが、しかし、社会的に役に立って、それなりに意味のある仕事をしていて、単に公金をもらっているからということで、本題の議論よりも落とし穴にはめるような質問ばかり投げかけてやりこめられて、その上でそれなりに社会的意義のある仕事をしている人が失業したり、社会サービスが削減されて生活に困ったり、ということになれば、どうも本末転倒だと思わざるを得ない。
「批判してどーすんだよ」の論理が小泉構造改革のときに何もせずあとで何やっていたんだと言われる態度。政治的熱狂なんてものは5年もすればその半分以上の人がいい加減なもんだったと気づいて軌道修正が図られる。そのときに恥ずかしいことはしたくない。
●私が民主党を支持したのは、政治の師匠から「参加と改革」であり、2000年から家の玄関に貼っている政治家のポスターの政策的理念は「当事者参加」であったから。それに最も近い政党、逆に言うと家父長制から最も遠い政党が民主党だったからだ。
国の事業仕分けについて「「利害関係者」はいかなる理由があろうとも「議論に関与すべきではない」っていう前提が支配している状況。それは必ず自分の「既得権益」を守るために(いや実際には「既得」なんかじゃないケースだって多いんだけど)議論を歪める存在である、っていう前提」(Blog「もどきの部屋」・「ステイクホルダーの所在,あるいは「構造改革イデオロギーの文明化作用」の問題」)ということが、この間、福祉でも何でも当事者参加や当事者による意思決定という考え方をひっくり返し、個々の政策決定の主権者は誰であるべきなんだ、という議論をおかしくしていくような気がしている。
今はその主権者が当事者たちではなく、藤井財務大臣か仙谷行政刷新会議議長に集中しているということでもあるし、実質的にはそこに取り入った財務省出身の茶坊主議員たちということなのだろう。
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