1/10 派遣村にいく労働者を甘えと発言する政治家がなぜいるか
日雇い派遣村のインパクトのおかげで、世間もようやく非正規労働問題を直視しようとしている。
ところが、すぐ撤回したが坂本総務政務官の発言や、そして今日は「きっこのブログ」が紹介している、武蔵野市の安江市議の発言といい、政治サイドから、あんなところにたむろしていないで働け、という発言が散発的に出てきている。
今日、こうした発言は批判にさらされているが、フリーターへの差別的意識など、エコノミスト編集部(当時)の小林美希記者がエコノミストに取り上げ、本田由紀氏や、内藤朝雄氏などが若者バッシングに異議を唱えるるまで、湯浅誠氏の周辺や、一部のコミュニティーユニオン系労組の人たち以外、右も左もこうした発言をしていたように思う。
結果、今は派遣労働者に同情的な世論になったので、右も左もその過ちを不問にしたいが、坂本政務官や安江市議を笑えるか、と思うようなところがある。「希望は戦争」の赤木智弘氏もそうした状況に絶望したのではないかと思うところもある。
「空気を読む」生業の政治家たちが今もってこうした発言をどうしてするのか、ということは、政治に近くにいるとよくわかる。
彼らは、とにかく自己責任である。嫉妬深いこの日本社会を背景に立候補しているので、足の引っ張り合いの世界である。足下すくわれないことにとにかく注意を払っている。
選挙も自己責任である。想像を絶するぐらい力を傾けて選挙を行う。日本人は、イデオロギーや政策、政党で選ばないので、人格を売り込むことに全力が傾注される。
とにかく、政策以外のところでたいへんな注意力が求められる(結果として、それで選挙に落選することがほとんどない政策への注意力がおろそかになっているような気がしている)。
おまけに資金は報酬だけだが、これが中途半端で、ここでも自己責任が求められている。今の議員なんて仕事の構造からいってサラリーマンに類されるわけだが、年金がちゃらんぽらんな制度のもとにおかれている。老後まで自己責任におかれているが、引退した老後も誰かがメシを喰わせてくれる幸運な議員経験者は少ない。
そうした結果、楽々当選した一部の議員以外は、努力、根性が政治家の精神構造に深く刻まれる。落選しても、誰もかばっても守ってもくれず、自分が悪いと突き放されるだけだからだ。落選すれば次の選挙まで中途半端に仕事探しもしなくてはならない。次の選挙の準備をする時間を保障してくれ、かつ収入があって、かつ次の選挙になったら辞めさせてくれる仕事。そうそうあるものではない。
そういう環境におかれた結果、私はこれくらい努力した、と、内心みんな思っている(その意識は、有権者の側の政治家に対する「選挙のときだけいい顔して」「何がやりたいかわからない」「何をしている議員かわからない」という批判的視点とまったくずれている)。
お前らなんてオレたちより努力してないじゃないか、そんな生活感覚から出てきたのが、坂本政務官と、安江武蔵野市議の感覚なのだろう。
しかし、多くの普通の人に、自ら飛び込んで職業としている政治家並みの努力や私生活の犠牲を、政治の側が要求すべきではない。一般市民が生活のためだけに労働で犠牲を払うことを責めるべきではないからだ。そして生活のためだけに労働するのであれば、自ずと努力すべき責任は無制限であってはならない。そのことは、いきつくところ、みんなが労働のために私生活を犠牲にし尽くす社会にしてはならないことと、世の中、みんながみんな生き甲斐と労働が結びついている80年代大企業型の働き方をしているわけではない、ということ、人の嫌がる仕事は誰かがしなくてはならない、ということから説明されるべきだろう。
●派遣村の派遣労働者たちが結果として公費で救済されていることをこうした政治家たちの本音は批判しているが、政治家の事務所に就職の斡旋、紹介状の執筆、推薦を依頼してくる有権者たちについて、どう考えを整理しているのだろうと思ったりもする。個別に利益誘導を求めてくる有権者は自己責任として立派なのだろうか。社会システムを変えようと運動をして、みんなが救済されるように運動することが自己責任でなく甘えなのだろうか。その矛盾も問うてみたい。
●毎週土曜の朝、教育テレビでテレビで野球のアニメをやっている。
今日は、監督が(二軍未満の)選手たちに、二軍に引き揚げることで釣って、意味もなく大きな穴を掘らせたり、公道をはいはいさせる話が出てくる。
選手たちが一所懸命穴を掘った後に、監督は、穴を掘っても二軍に引き揚げない、ここはあり地獄だ、と言い放って、選手を失望させる。叛乱が起きそうになると、監督が退部させる、と言い放つ。
選手みんなが上等じゃないか、退部してやる、と騒ぎ出したところ、ある選手が「おお、みんなやめろやめろ、ありがたいじゃないか、ライバルが減るから」と言って、騒ぎが収まってしまう。
はぁ。
見事、分断されている。みんなが退部すれば野球部は崩壊し、監督は、野球の指導能力を買われて、他の能力に目を瞑っても学校に雇われているだけだから、野球部が崩壊されれば、その監督は学校から放逐されるはずだ。
野球だったら、生活かかっていないから、こんなもので笑って済ませられるけども、日本人が労働組合を結成できない、結成しても会社の不合理な要求を交わせないというのも、こんな感覚なんだよなぁ。
野球系のスポコンドラマは、からかい半分に見ることしか興味が湧かない。細かい話ばっかりで、進行も緩慢。日本社会を象徴しているスポーツだなぁと思う。
スポコン体質について、70年代~80年代の企業はこういうのりが結構あった。
企業社会からこういう風土はだいぶ減ってきたが、本質的にこの選手たちの弱さというのは無くなっていない。
昔の企業のスポコン体質に耐えてきた人たちが、今の派遣労働者の状況を甘いなどと批判しているのだろうが、苦痛の内容が全く違っていて、その議論はすれ違っているんだと私は思っている。支配される精神的苦痛はオヤジさんたちの方がきつかったのだろうが、そもそも生活が成り立たないで人格も健康もじわじわと崩壊されられるあり地獄にいた派遣労働者たちとは、我慢したことの見返り、将来の約束が全然違う。そこを派遣を甘いと簡単に言い放ってしまう人たちの弱いところではないか。
私の近くの世界では、政治業界が、今もスポコン体質がある。それは映画「選挙」であますところなく、「~もんだ」族の地域の有力者、地方議員が、新人候補者にどうでもよい不合理な要求を次々に突きつけ、人格的に屈服させていく姿が見せつけられていく(だからって、合理的な意見を聞きもしない政治家も困ったものだが)。
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コメント
あの派遣村“暴言”市議の辞職理由に疑問の声 2010/02/28
http://www.accessjournal.jp/modules/weblog/index.php?user_id=0&cat_id=185
投稿: s | 2010.04.08 16:34