9/15 元赤軍派議長が67にして労働者性に目覚める
濱口桂一郎氏のHPから、興味深い記事。
赤軍派の塩見孝也氏が、清瀬市のシルバー人材センターで働いていて、そのことを産経新聞が記事にしている、というのだ。
その内容も、生まれて初めて労働を体験したというものであり、じゃあ左翼運動の根拠は何だったんだ、と聞きたくなる、というのが濱口氏の論評で私も同感である。
蛇足をつければ、労基法や最低賃金の適用除外になっているシルバー人材センターで労働運動をやれば、そうした冷ややかな論評に少しは対抗できるはずだと思う。
わがまちでも、シルバー人材センターは、低賃金の下請け業者の代表選手みたいになっている。市議会でもそれをさらに値切るような議論しかしていない。高齢者であっても、労務の提供があれば、どんな名目であれ、労働である。
●同様の問題は、ワーカーズコレクティブとか、労働者協同組合などで働く人が労働者であるかどうかという問題にも出てくる。
出資者と労働者が同一ということで、そうしたところには労働という概念はない、ということに社会通念はなっている。しかし、仕事の内容を見てみたり、仕事の配分の決定者と仕事をしにいく人の間に労働をする、させる関係はどうしてもぬぐえなし、実際に法律では労働と扱われる。そのことをきちんと正面が受け止めて、いくらきれい事言ってもそこには労働問題があるんだ、ということを前提にすればとっても良い世界になるけれども、労働じゃないんです、といって、使う、使われる関係を全面否定した上で、奉仕的労働を強要すれば、それはイデオロギーによる隷属でしかない。お金ジャブジャブあるところはいいが、そういうところは最初から株式会社にしているはずで、そういうきれいな話もない。少ないお金で、労働者と経営者の同一性という理念を立てながら、労働者性もあるんだ、という整理をしないと、何だかおかしくなる。
人をどんなに民主的なかたちであれ、労働者として使っておきながら、自らを使用者としての自覚のない怠慢な考え方をしていると、結局、労働者にとっても正々堂々と経営者と闘える資本主義の基本形がいいんだ、という話に戻ってしまうことの自覚が、ワーカーズコレクティブや、労働者協同組合の運動をやっている人たちにないということが問題じゃないかと思う。
●さらにもうちょっと言うと、労働者の労働者性を陰に追いやって、創造性あふれる構成員という位置づけを全面に出して、サービス残業でQC活動に駆り立てていった企業も、労働者を労働者として極力認識させない立場を取っている。個々のサラリーマンにとっては、創造性あふれる職場たと思うが、賃金の対価としての労働という概念を捨て去って、ひたすら滅私奉公働かせるようになった70年代後半から80年代の変化が、その後のサラリーマンの創造性を全面否定された状況で、日本の労働者がほんとうに悲惨なことになっていく素地がつくられていったのではないか。植木等が「サラリーマンは気楽な稼業ときたもーんだ」と歌いきり、賃金や生活の見返り以下しか働かないと宣言した時代がノスタルジーである。
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