8/9 朝日新聞から反核兵器の記事が消えた
和光の松本市議のブログで、朝日新聞が8月9日に長崎の原爆投下に一言も触れていない、と批判している。左翼ではない松本市議の立場からも違和感があったようで、改めて見返してみるとほんとうにそうで、びっくりした。
かつてはこういう日には、必ず被害者の経験話や、国際社会での議論の経過などを伝えていたものだが。戦後再出発した朝日が、その基本としておいた立ち位置を放棄しているように感じた。左翼記事ばっかりと批判してきた産経新聞や文芸春秋に、ここでさらに揶揄されても仕方がないだろう。
タクシー規制などの記事では左翼の皮かぶった超新自由主義的体質の報道といい、地域情報のいい加減な対応といい、労働問題以外は幻滅させられることばかりだ。
なかなか取り上げられない首都圏の地域情報に誠実に向き合っている他紙があって、魅力を感じている。そろそろ購読やめようかと思っている。
●ところで、日本政府は原爆に対して国際法上の問題があるとして、1945年8月11日に抗議をしている。核兵器が国際法上問題ないのか、という議論の立て方があると思うが、核の傘というリアルポリティクスの前に、ずっと向き合わないできたのではないかと思う。
もちろん、この日本政府の抗議文も、戦争中という特殊な国際環境の中で出されたもので、日本も仁科研究として核兵器製造が試みられており、この立場が全て正しいとも思わないが、1つの論点としてもう一度掘り起こしてみる必要があるのではないか。
一方、海外で国際法を指摘する動きがあり、1995年、南太平洋でのフランスの核実験の再開に抗議したニュージーランド政府が、ハーグ国際裁判所に国際法違反で提訴し、国際法上の違反として判断が行われた。このとき、広島市の平岡敬市長(当時)と、長崎市の伊藤一長市長(当時)が、感動的な意見表明をしている。
核兵器はこうして裁かれた 広島大学資料より
米国の新型爆弾による攻撃に対する抗議文
本月六日米国航空機は広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり。
広島市は何ら特殊の軍事的防衛乃至施設を施し居らざる普通の一地方都市にして同市全体として一つの軍事目標たるの性質を有するものに非ず、本件爆撃に関する声明において米国大統領「トルーマン」はわれらは船渠(せんきょ)工場および交通施設を破壊すべしと言ひをるも、本件爆弾は落下傘を付して投下せられ空中において炸裂し極めて広き範囲に破壊的効力を及ぼすものなるを以つてこれによる攻撃の効果を右の如き特定目標に限定することは物理的に全然不可能なこと明瞭にして右の如き本件爆弾の性能については米国側においてもすでに承知しをるところなり。
また実際の被害状況に徴するも被害地域は広範囲にわたり右地域内にあるものは交戦者、非交戦者の別なく、また男女老幼を問わず、すべて爆風および幅射熱により無差別に殺傷せられその被害範囲の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の傷害状況より見るも未だ見ざる惨憺なるものと言ふべきなり。
聊々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることは戦時国際法の根本原則にして、それぞれ陸戦の法規慣例に関する条約付属書、陸戦の法規慣例に関する規則第二十二条、及び第二十三条(ホ)号に明定せらるるところなり。
米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の輿論により不法とせられをれりとし、相手国側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において従来かゝる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遥かに凌駕しをれり、米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り多数の老幼婦女子を殺傷し神社仏閣学校病院一般民衆などを倒壊または焼失せしめたり。
而していまや新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり。帝国政府はここに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かゝる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す。
| 固定リンク
コメント