6/3 朝日新聞社説が劣悪保育所を誘導
朝日の社説が、保育所の規制を市町村に全面的に委ねる緩和策を全面的に肯定している。「住民の側から応援したい」って。保育所に子どもを預けている保護者の立場からすると余計なお世話という感じである。住民という言葉で一緒くたにするなと言うの。いもを洗うがごとき保育所に預けている身からすると、この現実が公定の基準にされる危険性を日々感じることがある。
この情報、上部団体の違う保育福祉労組のスタッフtamyさんブログからの情報。退職間際の記者が説教たれるような社説なんか読んでいないなぁ。いけないなぁと反省。
自治体はお金がない。その中で、保育所の設置基準を緩和する権限を与えてしまえば、お金を使わずに待機児童問題を解決するインセンティブが働く。保育士も施設も増やさず定員を増やし、保育所を収容所化することは目に見えている。そこに「それ見たことか」と、保育所批判派の住民たちが、子どもがかわいそうの大合唱をするのだうろ。朝霞市のように保育所に予算を使わず、交付税を他の予算に流用しているような自治体ではろくな結果が待っていないように思う。
そんなに今の最低基準が要求している水準は高いのだろうか。私の実感から言うと、この程度の基準を守らせることができない保育所というのはどうなのだろうかと思う。保育所の最低基準は、児童福祉施設最低基準に書かれている。そしてこの基準を満たすように、保育所の運営費が算定され、税金が支出され運営経費が保障されている。
保育所最低基準の柱は、保育士数と面積と調理室である。
保育士数は、0歳児3人に保育者1人、1歳児6人に1人、2歳児10人に1人、3歳児20人に1人、4~5歳児に30人に1人となっている。
なお、この基準にもとづいて保育所に補助されている運営費は、3人なら3人が11時間働くことを前提にしているから、勤務時間が8時間労働だとすると、3時間分は残業代無給か、常時いる人員は5分の3程度に戦力ダウンして運営せざるを得ないレベルでもある。
面積は、2歳児までが1人3.3平米。3歳児以上は1.98平米。畳1~2畳程度に子ども1人である。職員室は別だが、保育をするスペースに保育士たち職員のいる面積は含まれない。これが贅沢なのだろうか。
国が基準を作るということがおかしい、全国一律がおかしいというが、この程度の最低基準が守れないで、イモ洗いの保育所がいいということがわからない。あくまでも最低基準で、質の高い基準を自治体ごとに待機児童を発生させない範囲で追い求めることは今の制度でも十分可能である。
しかも市町村は保育所を運営しているし、民営にしてもあまりにもべったりした関係にある。第三者でもない市町村が自ら規制を作るということがどういうことになるのか。保育所に子どもを預けている保護者は自治体に異議申し立てをじっくりやっている時間もない。当の子どもたちは法律上も実質上も社会的にも発言権がない。社会福祉法がやれと言っているサービスの第三者評価すら多くの自治体で満足に実施していない。そんな環境で、国の基準をなくせということが理解できない。自治体と違うステージで最低の最低の基準をきちんと線引きするということは大事だ。
保育所は運営形態、施設の付属部分、職員の雇い方、ありとあらゆることを規制緩和してきている。公立保育所に関する運営費は市町村に財源が移されてもいる。それで問題解決しないのは市町村の能力の問題と政治力の問題ではないか。さらなる規制緩和という問題ではない。
それから、規制緩和派・小泉的構造改革派が目論んだ保育所の民営化・民間参入が進まないのは、保育予算を増やさないからだ。保育所の運営には、保育ロボットでも開発されなければ、労働集約型で経済的付加価値が発生する余地がほとんどなく、もらった補助金からどこで儲けるかは人件費の圧縮と食事などの手抜きしか考えられない。そして昨今のアルバイトやパートの人件費の高騰で、どう転んでも儲かる事業ではなくなっている。今の保育所のおかれた状況を考えると、公営→民営にシフトすることで保育予算を削減できるなどというのは勘違いで、病院問題と同じ、民間参入でもそうでなくても、保育予算を増やすしかないのだ。しかしその貴重な子育て財源を票目当てに雀の涙の児童手当でばらまいて、何だかわけのわからないことになっている。
またもう一つ言うと、基準を取り払ったら、公的な保育費用をどうやって算定し保育園に払うのかということになる。その基準がなければ劣悪な保育所ほど補助金もらって儲けてしまうインセンティブが働くことになる。私立学校の補助金が明確な基準のないまま官僚や都道府県の鉛筆舐めで決まる要素が大きい。朝日新聞は保育所の補助金をそんなふうにしたいのだろうか。
朝日新聞の規制緩和がらみで論説委員になった一丁上がりの記者なんて、子育てもしたことないだろうし、保育所の送迎程度はしたことあるかも知れないが、保育所の中に入って保育者と話し合ったり、他の子どもと関わったりなんかしていないのだろう。だからこんな社説が書けるのだ。実際に子どもを預けている人を無視して、規制緩和ちちんぷい神話にのっかって妄想で書いているような論説委員。名前ぐらい出せと思う。命を狙われるような記事を書いている記者が名前を公開する時代に、匿名で説教垂れるなどいいご身分だ。それでトラブルが起きても責任なんか取りはしないのに。
あるいは新聞販売こそ、規制緩和したらどうか。公定価格と販売店制度に安住して、値上げとページ数増→広告ページの割合の増による記事削減→ページ数減の記事減量→文字拡大による記事削減→値上げとページ数増を繰り返しているのは新聞社ではないか。産経新聞社のかたを持つわけではないが、値上げや紙面改革の宣伝を聞くたびに思う。
あきれ果てたサヨク新聞である。浜口桂一郎氏のサヨ→リベ→ウヨ批判をなぞってしまう。
保育所問題は、えてして左翼やリベラル派においても、安易に社会的規制を否定してしまう議論に流れやすい。子育てなんて無縁の身勝手な生活しかしたことのない一部かつ多数派の左翼やリベラル派にとって、そこが生命を維持する生活の場であるというリアリティーがなく、政策談義のネタでしかないからだ。公共サービスがもたらす生活の質ということに左翼やリベラル派は観点がなく、サミットがどうだの国際情勢の議論ばっかりしていて、ほんとうに社会民主主義が根付かない国だと思う。
●保育所の問題点は、発言権のない子どもが当事者であることと、幼少期の影響が大人になるときにどの程度反映するのか、まだ検証もされていないし、評価も定まっていないということ。とりわけ前者については大きい。親がよかれと思うことと、科学的によいと思われることと、子ども当事者の選択権と受忍限度がどこにあるのかというのはほんとうにわかりにくい。したがって、世界的に追求している子どもの権利という考え方も、日本では子どもが非行に走る権利という程度にしか理解されていない。その結果、さまざまな議論を経て子どもの権利条例を作ろうとする自治体に、右翼議員の全国組織によるチェーンメールで妨害が入る。最近では、札幌市でそのようなことがあったようだ。条例作成に関与したPTA連合会の代表が、自ら潰す側に回ったりしている。保護者が子どもへの人権侵害に何も言えないのに、一方で学校に口出すと子どもへの抑圧になるような存在だったりして、PTAの存在って微妙。
●山口二郎北大教授が、自らのブログで、日本人は権利意識がなさすぎる、だから過労死だの、ワーキングプアだのの問題が起きていると言う。まさにそう思う。権利意識がないから、他人の権利なんかどうでもよいと思う人゛か多いのだろう。
◇地方分権勧告―首相も首長も覚悟を示せ(2008/6/2朝日新聞社説)
http://www.asahi.com/paper/editorial20080602.html
「乳幼児は、自分で意思表示できないから、国の規制が必要だ」
市町村が保育所を新設するときに、なぜ全国一律の基準に縛られないといけないのか。そんな疑問への厚生労働省の答えがこれだった。
こんなとんでもない理屈でしか存在理由を示せないお役所の縛りをなくし、権限や財源を移して自治体を「地方政府」に高めていく。地方分権改革推進法に基づき、地方分権改革推進委員会が、こうした内容の初めての勧告をまとめ、福田首相に提出した。
柱は、中央政府の仕事は都道府県に、都道府県の仕事は市に、できるだけ移していくこと。そして、政府の補助金を使った公共施設の転用や譲渡を容易にすることだ。
来春までに国の出先機関の整理・縮小や税財源の移譲についても順次勧告する。政府は分権推進計画を閣議決定するが、当面の対処方針は6月の「骨太の方針」に盛り込む予定だ。
勧告には、住民生活と密接な問題が数多く盛り込まれた。
例えば、保育所や老人福祉施設の基準は、自治体が条例で独自に決められるようにすべきだと求めた。多少狭くても、預かる子供を増やして待機児童を減らす、といった選択ができる。
補助金でつくった施設を当初の目的以外へ転用しやすくすれば、市町村合併で不要になった図書館を福祉施設にするような工夫ができる。
今回の勧告は、住民に近い自治体の権限を強める方向をはっきり示した点で、分権を一歩前進させるものだ。
しかし、これまでの調整の過程で、権限を守ろうとする各省の抵抗はきわめて強く、自治体へ移すべきだと主張する分権委と対立し、結論が先送りされている課題も多い。
国道や河川の管理については、事前の折衝で国土交通省から一定の譲歩を得たが、農地転用の許可について農水省は拒否したまま。こうした未決着の点の多くで、分権委は期限を区切って結論を出すよう勧告したが、政府内での議論に委ねざるを得なかった。
また、小さな自治体へ移譲は現実的ではないとの理由から、都道府県の権限の移譲先の多くを市に限ったことで、町村に不満が残った。
これを実行に移せるかどうかは、政治の責任だ。各省の官僚や族議員が抵抗している項目を、骨太の方針にどこまで盛り込めるか。福田首相のやる気がすぐに試されることになる。
知事や市町村長の覚悟も必要だ。各自治体の中には、「権限をもらっても面倒なだけ」との本音もちらつく。
分権は、政府と自治体間の単なる権限争いではない。よりよい暮らしを実現するための統治の仕組みの大改革であり、日本の再生がかかっている。住民の側からも改革を後押ししたい。
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コメント
ブログときどき読ませていただいています。共感する記事が多いです。
投稿: siinoki | 2008.06.08 19:05