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2008.06.02

6/2 NHKの食育ファシズム

NHKはいつからナチスの宣伝隊になったのか?6月最初の月曜日、四川大地震に続く朝2番目7分間も使ったニュースが「幼稚園のお弁当に異変」というタイトルで、子どもの好きなものしか入れない、などとつまらない批判している。食育ファシスト岩村暢子だ。

NHKのニュースがときどき流す、最近の親はなってないという論調の親バッシング、いい加減にしてほしい。NHKの高給取りは自ら子育てなんかしたことないんだろう。偉そうなこと言うな。

そして、好き嫌いをなくすという目標をなくした幼稚園教育要領が悪いという攻撃。最近の親や子がなっていないどうでもいいような事例を次から次に見つけてきて、教育基本法の改正と同じ手口。保護者が幼稚園教育要領なんか見て弁当作っているか、ウソばかり報道するべきでない。あまりにもレベルが低くて、この記事を作ってきた記者やディレクターの妄想はひどいものである。

最近の親というならそうしたことで金儲けしている人間たちの問題ではないか。冷凍食品のレパートリーを増やしている食品業界、安くて保存のできる食品を大量購入させる郊外型大型スーパーを批判したらどうだろうか。産業構造や、社会構造の問題で、教育指導要領の問題ではないだろう。

これも古森のご指導によるものだろう。古森のお気に入り情報を取材してくるバカな記者が跳梁跋扈するようになったのではないか。

●食育ファシスト岩村暢子氏についてあれこれ検索していると、上野千鶴子のヨイショしている書評を見る。家族が崩壊していることを嘆いている。伝統的な家族とは、さんざん好き勝手してきた上野千鶴子の主張してきたものとどう両立できるのだろうか。さびしい老後が見えてきて、昔はよかったと右傾化する団塊中年インテリの哀れさを見るようだ。人生の最後に姑みたいなモラリズムに阿るようなことせず、最後まで好き勝手して人生貫けないものかと思う。

波 2007年11月号より


二世代目のサイクルに入った「家庭崩壊」
岩村暢子『普通の家族がいちばん怖い―徹底調査! 破滅する日本の食卓―』

上野千鶴子
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 岩村暢子さんには、デビュー作の『変わる家族 変わる食卓』(勁草書房、2003年)から注目してきた。食卓という日常のディテールに眼をつけたところがすごい。徹底的に記録をつけ、かつ虚偽の申告ができないよう食卓の写真を撮ってもらう。面接調査で本人の言い分と実際のあいだに矛盾があれば、容赦なくそこを衝く。プロの調査者として、人が「している」と自己申告することと、「実際にしている」こととのあいだには、「ずれ」があることをよく知っているからだ。
 本書はそうやって集めたデータの蓄積から、1999―2000、2004―2005年の二次にわたって調査した223世帯分のクリスマスとお正月の食卓調査の分析である。
 対象の中心は60年代以降に生まれた新人類(40代)と、その次の団塊ジュニア世代(30代)の主婦。ハレの食卓のうち、クリスマスとお正月に注目したのは目のつけどころがよい。前者は核家族のファミリー・イベント、後者は三世代間の家族行事、と対照的だからだ。
 現代主婦は、お正月にいっこうに興味を示さない。他方、クリスマスは、おうちの飾り付けに大張り切りのビッグ・イベント。とはいえ食卓はすべて買ってきたものばかりで、手作りへのこだわりはない。彼女たちがこだわるのは「家族らしさ」のほうである。
 家族とは何か? 家族のミニマムの定義に「共食共同体」がある。食卓を共にする者が家族、というもの。だが、すでに現代家族は「個食」から「バラバラ食」へと変化している。ひとりずつ食事時間が違うだけでなく、食べるものも違う。食卓にカップ麺、菓子パン、パック入り総菜が並び、それをてんでの好みで選ぶ「ビュッフェ」スタイルだ。家族はもはや「同じ釜の飯」を食べる仲間ではなくなった。クリスマス・ケーキでさえ、家族がそれぞれ「好み」を譲らないまま、違うピース・ケーキを買ってくる羽目になる。
 それを支えているのが「無理はしない、させない」「押しつけやがまんはイヤ」という気分。これを個人主義という価値観と呼ぶのははばかられる。何の一貫性もないばかりか、「まわりと一緒」であることへの配慮が優先するからだ。
 彼女たちの親の世代がすでに「してあげたい」「好きにさせてあげたい」親たち。「してもらってきた」現代主婦たちは、自分の子どもに対しても同じようにふるまう。
 だがこれを「母親の愛情」と呼ぶのは早計だ。子どもは、自分のやったことに「反応」して達成感を味わわせてくれる小道具で、「自分が楽しい」「自分がラク」であることが最優先される。だから彼女たちは、子どもとの葛藤を避けるし、子どもがいやがるしつけもしない。
 これは食卓だけのことだろうか? と岩村さんは、最後におそろしい問いを立てる。食卓を共にする者が何を食べているかに対する無関心は、娘が援交をやっているとうすうす感づいている母親が、娘のばればれのウソを信じたふりをして、介入も対立も避ける姿と私の目には重なる。大事なのは「親子らしさ」「家族らしさ」の方だからだ。
 だから今どきの主婦は……と、そこでだれが言えるだろうか? 家庭崩壊を嘆く前に、夫たちはとっくに家庭から「逃走」し、「してもらってきた」子どものままのふるまいを家庭でも続けている。家で食事の支度ができていても、会社帰りにコンビニの新商品をチェックし、「自分の気分」を優先する「もうひとりの子ども」だからだ。
 ここまで実証データをつきつけられると、目をそむけることができない。日本の家族の危機は、臨界点を越えた。
 欲を言えば、格差社会が問題になる時代に、学歴、職業、収入、居住形態、夫の職業と学歴等々による「格差」はないのだろうか? 家族の解体のその先を見てみたい気がする。
 それにしても、昨今、岩村さんといい、三浦展さんといい、マーケター出身の研究者の、社会学的経験研究の冴えが眼につく。本職の社会学者も、うかうかしていられない。
(うえの・ちづこ 社会学者)

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コメント

こんばんは。

私も幼少のみぎり好き嫌いの多い人間で親を心配させたものですが、ある時期を境にほとんどそれがなくなりました。自己とそこから遠くない他人の体験を一般化して語るのはまったく論理的ではありませんが、多くの場合加齢とともに好き嫌いは減っていくと思いますし、あまりその点は誰も変わらないと映ります。で、成人してもダメなものは本当にダメなものだから、食べなくて良い。そんな「ほんとうの」話を教えれば食育とやらも単なるファシズムに堕することもなくなるのでしょうが、現状では期待できませんね。

まったくの蛇足ながら、私は茗荷が大嫌いです。

投稿: Lenazo | 2008.06.02 22:15

Lenazoさま

コメントありがとうございます。
私も、食に関わるひとの仕事の価値を尊重していて、食育自体は否定するものではないと思っていますが、そこに過剰に価値観を持ち込んで、他人を攻撃し始めると、それがナチスドイツの健康増進運動が、最終的に障害者の虐殺につながったようなことになると思っています。

お母さんしっかりしろ、などという前に、プロのうまい飯を食べて、保護者にこんな飯作ってくれ、あるいは子ども自身からうまい飯を作ったりしていく、そんなことの方が大切な価値を生み出すのではないかと思います。

岩村氏のような人たちは伝統の食事と言いたがりますが、それは武士階級だけの幻想。それもかなりまずい飯を複雑な作法の上に苦行のように食べていたようです(吉兆が偉そうだったのは、その武士の食事の作法を持ち込んでおいしい飯を出したことにあるようです)。江戸の市民は、朝から外食です。これはアジア全体にみられる風習です。おかげで江戸は外食産業が発達しましたが、家庭内の食事の価値を強調する明治維新の文化がどんどん波及することで、朝食を提供できる外食産業は吉野家ぐらいになってしまったのです。

とにかく、食べることが楽しい、そう思える生活を取り戻すことが大事です。武士はいざ知らず、その他の庶民には。

それから、料理も洗濯もできない保護者の愛情を、子どもが発見するという話なんか、涙が出てきます。岩村氏のような眉間に皺をすぐ寄せるような人は、そういうダメ人間の生きることの含みみたいなものはわからないんだろうと思います。

投稿: 管理人 | 2008.06.02 23:47

検索していてこちらに漂着した者です。3年以上も経ってのコメントで恐縮ですが。

岩村の業績には賛否、或いは功罪がありますが、「否」あるいは「罪」に着目する場合の切り口として、「食育」を持って来るのは、いささか筋が悪いように思います。岩村の一連の著作において、彼女の主観を基に発せられるコメントは、確かに伝統的、封建的な家政・家庭運営の在り方を念頭に置いている節があり(例:食卓の変容の背景に、昭和時代における学校家庭科のカリキュラム変更を指摘したり)ますが、彼女の立論の核心は其処にはなく、むしろこの種の誤読をされることに対する無防備さが見て取れます。

岩村の価値観に因る記述は無視して、データブックとして岩村著を読んでみてはどうでしょう。定性調査ではあってもコード化によって一定の客観性は担保されており、岩村とはまた違った問題意識から読み解くことが可能です。仮に私が大学で社会学あるいはそれに類する学問を講じていたら、本書を課題図書にし、同じリソースを投入してもっと有効/有意義な調査にするためにはどうすればよいか、という設問を試験問題またはレポート課題として出してみたい気がします。

投稿: ino | 2011.09.28 13:09

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