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2008.06.27

6/27 憲法25条の理念が実現されていないことに鈍感な9条の会文化人

株主総会のニュースで、個人投資家が外資系ファンドと同調しようか迷っているという報道がされている。株価が上がらないから、取締役を解任するかどうか迷う個人投資家を紹介している。不祥事があったり、明らかな業績の低迷があって株価が低下すれば役員の責任だろうが、投資ファンドが流す風説で、株価が上がったり下がったりする要素は大きく、それを取締役の責任にするのは、ちょっと過大な責任だと思う。

だいたい、そんな株価が下がる前に、売り払うのが本当の個人投資家だろう。

元厚生省年金官僚で企業年金基金連合会(旧厚生年金基金連合会)の矢野朝水あたりが、日経とつるんでさかんに株主のコーポレートガバナンスを強調して、株主の権力を強める世論をまき散らしている。しかしそんなこと行動に移せるのは、機関投資家か、投資信託だけである。ごくわずかに一株運動をやっている市民活動だけである。多くの株主は、経営に意見できるわけでもないし、もちろん経営に責任を負っているわけでもない。単に1株分の出資の範囲で、投資した責任があるだけに過ぎない。その見返りに株主議決権があるが、この議決権の中には、役員選任権ぐらいしかなく、経営方針や予算案を左右する権利はどこにもない。

※矢野朝水氏がずるいところは、企業年金という大手企業のサラリーマンの上乗せ年金の運用金を預かって運用できる立場にあるということである。決して自分で汗して集めた運用金ではなく、大手企業の年金制度が自動集金してくるお金を背景に、株主の権利を主張している。本体の年金で集めた運用金による年金転貸資金による施設建設で政治家のご機嫌取りをしていた官僚の行動の相手を外資に変えているだけである。
その矢野氏が、企業年金の加入者たちから元本割るな、銀行預金の利回りより高く運用せよ、という無言の声以外の何の信託も受けずに、外資とつるんで企業を威圧していることである。企業年金基金連合会が自らの利潤最大化に向けて声を挙げ始めると、肝心の企業年金基金の加入者である労働者のクビが絞まるということの矛盾と、そういうことを言う矢野朝水氏のうさんくささは濱口桂一郎氏が2回ぐらい的確にくさしている。

●毎日新聞夕刊2面の澤地久枝氏のインタビュー記事に絶望的な気持ちになる。澤地氏は「蟹工船」を読み込む若者が多いらしいが、あの時代と今の時代は違う、今は労働運動やったからって投獄されることはない、安易な同調は多喜二が泣くという。

金融資本があらゆる生産手段をモジュール化して、直接の使用者に雇用責任があいまいな形にして、労働者からお金を巻き上げるシステムの情景を蟹工船では描いているが、それは今の非正規雇用におかれた若者と同じ状況である。確かに今は労働運動で投獄はされないが、かといってシャバが、将来に展望が見いだせる救世主になるような思想があるわけでも、経済成長が待っているわけでもない。その絶望感が、深刻なのではないか。

戦争がトラウマで憲法9条のことさえやっていればいいんだ、という80歳前後の文化人の限界を感じるインタビューだった。若者を右傾化させたのはこの世代の左翼文化人の問題ではないかと思っている。私は声を大にして言いたい。赤木智弘氏が「希望は戦争」という言葉の、戦争ぐらいしか尊厳を取り戻す機会がもう無いんだ、という声を澤地氏はどう思うのだろうか。

9条が大切だという感覚は、戦争で痛い目にあった日本人が当たり前に持つ感情から理解できる。しかし、生活するのに贅沢言っていられない、という終戦直後に、GHQの原案にはない憲法第25条の生活権をかき込んだのは、言いだした日本社会党の国会議員と、それを認めた当時の保守革新問わない日本の国会議員たちの英知である。
なぜ戦前に、無茶苦茶な権力欲をむき出しにした軍部を支持する世論が形成されてしまったのか。リベラリストが貧困の問題にきちんと向き合わなかったからではないか。経済の自由権に無批判のまま、無産大衆を放置した結果が軍部の政治的役割を膨らませてしまった、そんな反省が25条には込められているのではないか。

その反省にもとづく生活権を蹂躙される若者がある塊で作ってしまったということは、9条を守っていればいいという楽観的な状況ではない。経済成長しながら、その英知が活かされていない今日の日本の犠牲者である若者が、学校も親も教えてくれないことを、痛みを痛みとして自覚する、そのための第一歩として「蟹工船」から学び取り、その歴史を再確認しているのではないか。投獄されないのだから戦前と同じと思うな、というはの、あまりにも社会に対して楽観的で、歴史や人間を軽視ているのではないかと思う。

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コメント

はじめまして。
このブログ経由で毎日での澤地氏の発言を読み、唖然としました。
彼女が言ってる事って、ザ・アール奥谷の「過労死自己管理」論と同じで、性質の悪い自己責任論になってるんじゃないかって。

私のブログで、今回の澤地氏発言を取り上げましたので、どうぞご覧ください(『きょうも歩く』様からも引用してますので、トラバ代わり、という事で)。
http://d.hatena.ne.jp/vanacoral/20080629

投稿: vanacoral | 2008.06.29 01:01

戦前の反軍の立場の人の少なくない数が、中の上より上の階級の人たちなんでしょうね。それが戦後息を吹き返して、左翼文化人の一角に再生している、そんな感じがします。

だから、無産者、プロレタリアート、何でもいいんですが、そういう人たちの疎外感とか、生活に密着した問題に対する二の次にされる感じとか、理解できないんでしょう。きっと。

文化人って、自己責任で生きている人たちで、やりたいことやって没落したらそれまでよ、って世界にいますから、賃労働の世界と対極にいるわけです。相当気をつけないと、いくら平和だ環境だと言っても、賃労働者が最も気にしていることを忘却してしまうことがあるわけです。

自分の好きなことをやっているわけでもない賃労働者が没落することの納得性のなさなど理解できないのではないかと思うことがあります。
賃労働者が投獄されるまで運動をやるには相当の変化が必要です。澤地氏のように投獄されないんだから、というのはあまりにも乱暴な話だと思いました。

そういう賃労働者の限界と課題をきちんと受け止め、ミクロレベルで対応して積み重ねているのが創価学会だったり公明党だったり(ユーラシア大陸ではイスラム教コミュニティーだったり)して、平和派左翼の退潮というのはそういうところにあるのではないかと思います。ミクロレベルでは、ある種信仰がなければ続きませんので、左翼にはマクロレベルで対応すべきところ、その対応が遅れているという感じがしています。

投稿: 管理人 | 2008.06.30 23:27

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