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2007.12.10

12/9 元社会党委員長 石橋政嗣氏の著書を読む

疲れが溜まっていたのか、家族一同、一日中寝ていた。

●石橋政嗣「五十五年体制内側からの証言」を読む。
石橋氏は、1955年に衆議院議員に30歳で当選。1970年12月に社会党の書記長になり、1977年12月まで務め、1983年~86年まで委員長を務め、1990年に野党共闘を無視して一人勝ちをめざす社会党に憤慨して議員辞職した人物。
徹底的な実務家である。一度会っておきたいと思っている方であり、たまたま先日、書店でこの本を見つけ、是非読まなくてはと思って買った本である。

社会党の歴史を研究する際、いくつかの解明不足なことがある。1970年から7年も続いた成田委員長=石橋書記長時代もその1つである。世界の社会民主主義政党が現実化と政権獲得を行ったこの時期に、日本社会党は左傾化し、都市の大票田は公明党や共産党に奪われ、政権獲得はありえなくなった。世界の流れに逆行することがなぜ日本社会党では可能だったのか。また、成田氏も石橋氏も弱小派閥の出身であり、権力基盤は弱い。それで長期政権が続いたことも謎。その権力構造がどうだったのか、よくわかっていない。最左派でソ連派の社会主義協会派が伸張したのもこの頃。ある意味社会党が良くなろうとしてはダメになっていった時代を何とか支えていたのが書記長であった石橋氏で、社会党が派手に派閥抗争をドンパチやっていた前の時代や、政策や綱領の現実化を模索した後の時代に比べて地味な時代であるけども、この時代に何がおきたのかしっかりふまえておくことは大事なことではないかと思っている。

著書で確認したことはいくつかある。
①石橋氏は、佐々木派(社会党左派の中心派閥で自民党でいう田中派のような存在)を中心とした派閥政治にうんざりしており、その派閥政治を排除することに尽力したということ。佐々木派の前身の鈴木派について悪く言っていないので、佐々木更三氏に対する嫌悪感はかなり強いとみていい。江田三郎氏については、突拍子もないことをする人間だという理解をしていたようだ。
②石橋氏は左傾化したこの時代にあっても、ソ連、中国、北朝鮮に言うべきことは言い、つまらない妥協はしないという社会党の姿勢を貫いたということ。北方領土については、全千島返還を原則におきながら、日ソ共同宣言の二島返還論からの段階的返還論を交渉にしていたことは興味深い。新ソ派が台頭した1970年代においても社会党は全千島返還という党是を確認しつづけていたということである。
③委員長時代は、うってかわって社会党の現実化に務める。この時代もマイナーなものしか文献資料がない。委員長である石橋氏の功績は、新綱領の、社会党の新宣言採択である。一度は流れたものの、本文を一切さわることを許さず、再可決したことはほんとうによかったことだと思う。これで社会党は非武装中立論を除き、西欧社会民主主義政党と価値を共有するところに戻したことだ。それと、これ以降、社会民主党になってからの綱領を含めて、新宣言を超えるような理論と、格調の高い、すべての社会民主主義者を包括できる綱領は生まれていないと私は感じている。ただしこの新宣言採択のときに、社会主義協会派に妥協して付属文書を作ることになり、これがベルリンの壁が崩壊するまで社会党の社会民主主義化の足を引っ張ることになる。そして、1970年代からの西欧社民主義へのキャッチアップの遅れが、政界再編成の過程での流れ解散的状況に追い込まれていくことになる(で、このことを当の社会主義協会派が公式に反省していないことが問題だと思う)。
④1945年の社会党結成時の3ヵ条の綱領だけでやっていればもっと良い政党になったのではないか、という石橋氏の言葉は、高校時代に社会党綱領文献集を読んで以来、私も考えてきたことである。

結党時綱領
一、わが党は勤労階層の結合体として国民の政治的自由を確保しもって民主主義体制の確立を期す。
一、わが党は資本主義を排し社会主義を断行し、もって国民生活の安定と向上を期す。
一、わが党はいっさいの軍国主義思想および行動に反対し世界各国民の協力による恒久平和の実現を期す。

ここで今日、修正が必要なのは、「資本主義を排し社会主義を断行し」を「社会民主主義による経済運営により」ぐらいだろう。政治的自由と後進国日本にとっての民主主義体制の確立を一ヵ条目にもってきていること、三ヵ条目も決して「非武装・中立」に拘っているわけではないことから、今日的国民的常識にかけはなれたものではないと思う。

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コメント

石橋「正嗣」か「政嗣」か?
国会議事録(電子版)でも混在するものがあるという混乱振り。
田畑書店「「五五年体制」内側からの証言」、明石書店「非武装中立論」の双方とも著者名は「石橋政嗣」となっている。

投稿: ゴンベイ | 2007.12.10 10:52

Wikipediaの「石橋政嗣」、「新宣言」、「非武装中立」の記事を読むと、歴史教科書書き換え問題がWikipediaでも起きていると痛感するかと思います。
黒川さんなら上記3項目の記事をどう書きますか。ユーザー登録せずとも編集が可能ですから、黒川さんも編集してみませんか。

投稿: ゴンベイ | 2007.12.10 18:29

ご指摘ありがとうございます。著者名が政嗣であることを確認しましたので、正→政になおしておきました。ご本人にはお詫び申し上げます。

ひまで妄想癖があって、その妄想どうりに何度でも公共のネットの上の文章を書き直すネットウヨが歴史を歪曲しているのにいちいち対抗しているとそれで人生が終わってしまいます。そこまで専門家でもありませんので、いいです。wikiはもはや参考資料でしかなく、歴史研究は、やはり文献の解析と証言の積み重ねになるでしょう。
幸い、70年代の社会党に関してはふんだんにニュース映像なども残されていますから、ネットウヨたちがいかにいい加減な情報を拡幅したり、ごくわずかに起きた一片の事実をさも全体のことであるかのようなデマゴギーは、いつか解明されることでしょう。でも誰かが修正かけてほしいものですが。
ネットウヨがネット上でやっていることは、1950~70年代の共産主義者の大学教授たちと同じ所行です。マルクスレーニン主義的にアレンジしないと学説として認めないような。それと同じようにネットウヨもいずれ社会に居場所を失うことになるでしょう。

投稿: 管理人 | 2007.12.10 20:15

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