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2007.12.13

12/13 ビラ配布禁止考

昨日のマンションビラ配布を規制する東京高裁の判決、民主党も公明党も労働団体も日弁連も抗議していないようだ。

昨日の私の記事

法律的なことや政治的な意味ではなく、ビラまきそのものについていろいろ考えたことを書きたい。

●「ビラまき禁止」の看板があるマンションのエントランスは汚い

こんな告白すると逮捕されてしまいそうだが、仕事柄、政党ビラも議会報告ビラも配ってきた。地方議員が誰1人そういうことをしない街に住んでますます、ビラ配布の大切さを感じている。

それはさておき、ビラ配布をするためマンションのエントランスに入ってみると、とにかく汚いマンションというのが、集合ポストの下にごみ箱が置いてあるところ。次に「ビラ投函禁止」の看板を出しているところ。何もしていないところが一番きれいだ。
もちろん入居直後はどこもきれいだが、5年10年経過したところでは本当に差が出ている。「禁止」の看板が出ているマンションの集合ポストのうち、5%ぐらいは、ずっと昔に投函されたちらしがぎっしり詰まっていて、ごみ箱のようにほんとうに腐臭を放っている。昔は、自己管理のできないわずかな人しかいなかったが、最近は新聞を読まない人が増えたから、最近はほんとうにひどいことになっている。

これは、一昨日の判決と逆説的な話になるが、集合ポストの自分の分を自分の財産として自己管理できる住民が住むマンションは汚くならないのだ。逆に、管理組合や管理員が綺麗にしてくれて当たり前、配っている奴は警察にでも突き出せ、と思ってたかがポストひとつ自己管理しようとしない住民が多いと、汚くなる。
実際、ビラ投函に何の対応も取っていないうちのマンションにも、何が言いたいのか、自分のポストに投函されている不動産業者やマッサージ屋の宣伝ちらしをこれみよがしにマンションの掲示板と掲示物の隙間に置いていくバカもいる(誰がやったか特定しましたけども)。そういう住民自身が共用部分を汚していく。
そう考えると、集合ポストの下にごみ箱を置くなどというのは最低の対応なのだ。

ビラなんて一回部屋に持ち帰って、必要を感じなければさっさと棄ててしまえばいい。逆に、チャリティーバザーとか、個人営業のピアノなどお稽古事の先生、出前のパンフレットなど、生活にふくらみをもたらせてくれたりもする。たかがビラ、されどビラなのである。

●いつからマンションとはこういう神経質なものになったのだろうか、ということを考える。

日々、マンションで起きているトラブルに比べたら、ビラの投函の問題などどうでもいい部類に入ることであるし被害者も被害の程度も低く、住民自身の責任で管理せよとすればいい問題である。
来客用駐車場を見ず知らずの人間に占領されたり、廊下に灯油を撒かれたり、ハトが住みついたり、不良息子が仲間をひきこんで駐車場で騒いでいる、振動だ、騒音だ、ペットだ、ペットがうんちした、ビラのように「あんたが棄てればいいじゃないの」で済まない問題が次から次に起こる。補修だ専門的な清掃だ工事だと管理組合としての本業の話もとても多い。
真剣に管理組合の運営をやっていたらビラ投函なんかかかずらわっていられないはずだが、そういうどうでもいい問題がさも重要課題のように語られることが不思議だ。
この体質は詰まらないクレームには真剣に対応しながら、効果のあるサービスを提供できない行政なんかとよく似ている。

それから、ビラ配布を大問題のように思う住民についてもいろいろ思う。
私は仕事柄、ビラというものを尊いものだと思っているが、やはり、こんなもの配りやがって、ばかじゃないかと言う人がいることを知っているし、世間はその方が多数派である。そしてそれでいいんだと思う。

しかし、「こんな下らないビラつくって配りやがって、バカじゃないのか」と言い捨てて、時にはビラに書いてあることにけちをつけてごみ箱に丸めて棄てるということって、何とも言葉にしにくいが、大事なことじゃないかと思う。

たとえとして適切かどうかわからないが、公園のそばにいるガミガミじいさんみたいなものである。
子どもがわんさといた時代に、公園のそばに住んでいた住民が、騒音だ、ボールが飛び込んでくる、そんことがあって、ガミガミじいさんになったりするものだ。
ところが、騒音やボールが飛び込んでくること自体がたまらない、子どもなんかいなくなれ、と思っていたら、別の理由で本当に子どもがいなくなってしまった。子どもがいても公園で遊ばなくなった。そうしたら、ガミガミじいさんもいなくなってしまった。そういう今の状況を、社会は何と言っているかというと「地域のしつけができなくなった」「地域の子育て力が低下した」と嘆いて、怪しげな教育評論家たちに救いを求めているのである。

ビラ投函そのものを禁止して、ビラを活用する人ばかりか、ビラをくさす人もいなくなってしまうことがいいことなのだろうか。

実はそういうのは労働運動の世界が先行していて、ほんの15年ぐらい前までは、春闘の時期になると労働組合のある職場には、客の眼につくところにも赤い労働組合の旗が掲出されたものだった。ところがそれが何だか理由の不明確な「迷惑だ」という客の声によって、組合旗は客の眼につかないところに掲出したり、ときには掲出そのものをやめてしまうようになってきた。結果としてどうだろうか。労働組合は客に直接訴える機会を失い、客の眼になって経営側の問題を指摘する力を失った。組合運動だって、客に旗を掲げてやるから、客の視線にたえうる労働運動をしなければならなかった。しかし、今はたえず労使関係の中だけで閉じこもった孤独な闘いを強いられている。当然、経営側に対するチェック能力が低下している。

ビラ投函の後かたづけ程度のことを億劫がり、時には財産権の侵害だといって存在そのものを封じてしまうことがまかり通る社会って、どうなっていくのだろうか。すごく底の浅い社会になるんじゃないかと思っている。

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