11/25 12k㎡に選挙カー27台+α
朝霞市議選が始まりました。
各種市民団体がやったアンケートに回答しない、自分の政見を披露しない、市議会だよりでは賛否も質問内容も名前入りでは公開しない、そんな議員さんたちが
「最終ぅさいごまでぇご支援お願いいたします」
などといかにも金で雇われたウグイスによる、素人が使わないような昭和初期のしゃべり方で投票依頼にやって来ます。なんだろうかね、選挙業界のあの古風な言い回しの多さは。ドクター中松みたいにいっそのこと名前だけ言っていればいいのに。選挙の現場で、地域のおじちゃんおばちゃんたちがうぐいすを買って出てくれることがあります。プロのうぐいすがいる陣営だと、票にどう結びつくのかという議論抜きで、うぐいすの作法をめぐって、うぐいすと地元の人との間に大げんかが起こります。あの中途半端なプロ意識って何だろうかなぁと思います。重労働とは思いますけど。
「本人が助手席からごあいさつにうかがっています」
現職のあなたよ、あいさつに来たからどうせよと言うんですか。票がほしければ下りて街頭演説してください。
南北6キロ、東西3キロ、しかも北1キロは低湿地、南1キロは自衛隊基地という人口過疎地帯を除けばごく狭いこのまち(コンパクトシティー)で、2人を除く27人27台の選挙カーが走り回ります。これに公明党と共産党は政党の宣伝カーが入ります。
選挙カーでの名前の連呼というのは、街頭演説会と街頭演説会の移動の間にやってよいということなのに、肝心の街頭演説をしている候補者はほとんど見ません。連呼しかしていません。それでどうして票が集められるのか理解できません。みんなうるさがっているし、好意的な人で面白がっているだけで、それで票が出てくるとは思えません。やるならきちんと街頭演説してください。どの程度の人物か見てみたいです。
なぜ、選挙カーをのりまわす=選挙ってステロタイプなイメージが固定したのか、と思いますが、種明かしは、九大出版会が1980年代に出した「日本選挙制度史」をご覧ください。金をかけないためではなくて、言論で選挙させないために選挙規制が数多く設けられたのです。その例外が選挙カーの乗り回しと電話なのです。
公職選挙法のルーツは、1928(昭和3)年普通選挙法として成立したものです。生活保護受給者を除く一般人成人男性全員に選挙権を与えたときに、それによって政治家の力が高まることを恐れた官僚が、治安維持法と抱き合わせで世界でも類をみない選挙規制を作ったのです。その後、官僚たちは内務省を通じて地域の名士を集めて選挙粛正運動を組織し、選挙時に行われる宴会や集会を監視し摘発していきます。その矛先は、野党議員、社会主義政党の候補者、中野正剛のような反戦右翼の候補者に向けられました。この選挙粛正運動は最終的にはあの悪名高き大政翼賛会になります。
憲法の結社の自由、言論の自由を制限し、法の支配が否定している取締の恣意性を大きく認めている公職選挙法は違憲状態であることが理解です。司法試験の予備校でも憲法の授業でそう教えているようです。検察官も裁判官もそのことは重々承知なのです。でも、その取り締まりは、裁判で誰も異議申し立てをしたことがないので、違憲立法審査をくぐっておらず合法なのです。護憲論者(とくに日本共産党)よ、他陣営の違法ビラを摘発するなかれ。それは合憲である。
その公職選挙法でやっていいよ、と言われている数少ない運動の中で、政治家の知り合いがいない一般市民に目がつくのが、選挙カーの連呼と、電話作戦なのです。そして、どの陣営も、選挙カーのドライバーの確保、ウグイスの確保、ドライブ日程の管理などに必要以上に労苦をかけています。
現行の市議会議員選挙が、大選挙区制のもとで行われるなら、選挙カーがなくても当選できます(県議、市長、県知事、国政になると少し事情が変わってきます)。ある種ムダな労力です。ただしそれが可能なのは、公示日前のたゆみない政策を伝える努力があってこそで、それをしてこなかった朝霞の市議会議員たちは、今さらというものです。
この公職選挙法のもとで行われる地方選挙は、結果として濃厚な人間関係と、人格だけで候補者を選ぶ舞台装置ができあがっています。政策ができた上で、人間関係が巧みで人格もよければ立派ですが、現実にはそういう人ほど、政策面でのチェック能力や提案力は弱い人が多いし、危機にあたっては、立場の弱い人を叩きがちです。
そして鹿児島県議会議員選挙で、えん罪に問われた集落の人々のたたかいは、快挙といえます。
●鳥獣戯画の手書き選挙ポスターを掲出する小田桐清作さんは立候補せず。何か寂しいものがある。
●頭痛が治らず、睡眠も安定しない。何とかしなくては。
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