10/27 滝山コミューン一九七四と同じ体験
原武史「滝山コミューン一九七四」を読む。
東久留米市の滝山団地の中にある小学校で、1970年代、PTA活動の民主化を契機に、共産党色の強い全生研運動が取り組まれた。その渦中で苦しんだ著者の小学校時代を回想しながら、政治史的な分析を加えて書いている。文章は自伝的なものなので、平易で読みやすい。
著者は一般的に右よりの人間として知られているが、素材が共産党色の強い地域教育運動なのに、バランスの取れた執筆もよいと思う。
著者が紹介し全生研運動というのは、レッテル貼り的に言うと共産党系の教員を中心にPTAや生徒会を巻き込んだ生活指導とコミュニティーづくりの運動である(著者は日教組という言い方をしていたが、社会党系の先生たちは、全生研を朝のうんこ検査が象徴する人権侵害の運動と冷ややかに見てきた)。
クラスを班分けして、班の中と班対班の徹底した討論で生徒集団の民主的自治と統一を作っていくというしかけによって、生徒の、今で言う「人間力」的なものを高めていくというような運動である。著者は民主集中制(共産主義の組織論)を学校・クラス運営に持ち込んだものというような表現をしている。そのことが学校を覆い尽くし、隠された権力闘争の中で小学生である生徒たち1人ひとりに大きな負荷がかかっていく情景が描かれている。
著者は、その象徴的な技法として、班活動を紹介している。クラスの中では、班の数より1つ少ない任務を用意して、班ごとで競わせたり、リコールさせることで、自発的に統治している仕掛けも取るらしい。仕事をもらえない班は、「ボロ班」と言われ、それにならないために、仕事のある班を批判したり、仕事のある班はボロ班にならないように努力したり、議論を尽くすというのが美しい仕組みである。
しかし、そこにはボロ班と呼ばれる人たちがおり、逆に全生研運動に熱心な教員たちの期待を背負って、小学生なのに政敵とたたかい、身内を固めなくてはならないエリートの生徒たちの苦しみがあったりもする。
滝山コミューンの卒業後30年近く経った今でも、著者がインタビューした当時の生徒会委員長は、当時は精神的な影響がさまざま出るほど重圧だったと吐露し、「トラウマ」という言葉で今でもその呪縛から離れられないと語るシーンが重い。
読後、いくつか感想を持つ。
全生研運動のクラス運営について、私も小学生のとき1年ぐらい体験したことがある。
担任に取り入った質の悪いクラスのリーダーが自らの権力と暴力的なエネルギーを昇華させるために班活動・班編制を利用し、次々にクラスにスケープゴートをつくり嫌がらせをし続けた。私も「ボロ班」の班長となったことがある。クラスリーダーの「仕事もないのはかわいそうだから」という「温情」で、数ヶ月間クラスリーダーが持ち込んできたドバトの小屋づくりや世話をやらされた。しかも、ハトのフンやはねが不衛生だからと、みんなの登校する前に掃除を済ませろという制約をつけられたり、ドバトが逃げたり死んだらおまえのせいだ弁償してもらうからと恫喝されながらである(それでハトを平和のシンボルとすることに納得できなくなってしまった)。
彼はいろいろな人にそのようなことをしていたらしく、担任にバレたときには授業が3日も止まって、担任とそのリーダーの話し合いが続けられた。結局は担任はそうしたむごたらしい班競争システムはやめることにして、私を含めてリーダーの被害者に涙を流してお詫びされた。そんな経験を思い出した。
このように班活動の現実は、いくつかの面で残酷な部分を表す。子どもの中に生活をめぐって権力闘争が持ち込まれる。教員が絶対であるというシステムそのものを否定しないままに行われるので、教員の価値観を生徒自らが競いあって忠誠を誓うようになる、できの悪い子どものいる班が貧乏くじを引くので、できの悪い子が二重のスケープゴートになる、などの問題点がある。
これは、私も小学生のときの一時期に体験したり、高校生活の一部でよそのクラスで触れたことでもあって、体験者以外の人にはなかなか説明がつかなかったことだった。原氏にうまくまとめていただいたと思う。
それから「班」という日本的な組織について考えるものがあった。
1970年代の民主主義の進化は「班」というものの検証と評価を抜きに語れないと思う。全生研運動が生徒指導の方法として「班」を重視したが、労使協調の大企業労組の存立基盤ともなったQC活動も班活動、同時代に拡大した生協運動も班活動・小集団管理を重視している。もっとも近代的自我が発達した1970年代に、前近代的なるものとして否定した隣組や農村の共同体を彷彿とさせるようなシステムを使った運動が、右も左も熱心に取り組まれたのか興味深い。
そのことが70年代以前の権威主義的な時代より、個人には残酷なメカニズムをもたらしたのではないかということも考えられる。一方で、80年代後半以降「班」活動が流行せず、90年代後半から入ってきた市場原理のドラスティックな変化と比べると、班活動はあまりにも陳腐な存在になってしまっている。
文中出てくる、戦時体制の中で青春時代を送った「三浦先生」が、小集団管理は戦時体制そのものだという冷ややかな視点をもっていたことが紹介されているが、興味深い。
1970年代は、権威主義が否定され政治構造が流動化しはじめたことで民主主義が進化した時代とも言えるが、一方で、そこで行われてきたことは、隣組的な戦時体制のやり方そのままだったということもいえる部分がある。10年ぐらい前、社会党系の政治家の妻と話をしていたとき、団塊の世代の人材難について嘆いた後、「(主張は左ではあるんだけども)戦争中に行われてきた人間のむごさに対する洞察力が欠けている」と心配しておられたことを思い出す。
本書の中で、背景事情として、東久留米市など、1970年代に大団地が建設された地域の特有の政治構造の変化を捉えていることが興味深い。その後の多摩ニュータウンや田園都市線の沿線開発との対比を行っているのも興味深い。
東京に通勤する新住民が集中して住み、駅から団地行きのバスで既存の地域から切り離された生活圏、文化圏ができてくる中で、地域社会の権力構造や政党支持の構造が一気に変化してくる状況をうまくつかんでいる。朝霞の近隣市でも、水準はどうであれ団地住民が大量に流入して以後、多様な政治的主張が市議会に反映されている新座市や和光市と、いくら新住民が増えてもステロタイプな革新と旧来からの政治構造に安住する保守ばかりの朝霞市や志木市との対比にそれを感じる。二代にわたって私も経験しているが、散発的に新住民が後から入ってくると、旧住民の恭順させる圧力や不合理なしきたりを破る力は持つのは難しい。
市議選の候補者のバラエティーと市議会の風通しの良さが全然違い、ここは団地の効果を見せつけられると思う。
原氏と私は全然立場が違うので安易に原氏に共感するのは慎まなくてはならないが、ほんとうに30年以上前のことをよくまとめられたと思って感謝して読み終えた。
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コメント
原武史氏の「滝山コミューン一九七四」からの引用・要約と黒川さんの感想・意見部分が混然としていて区別するのが難しい。明確にすべきではないでしょうか。
投稿: ゴンベイ | 2007.10.27 17:50
ご指摘のとおりで、確かに混乱しますね。少し文章を組み替えてみました。
それでもまだまだだと思います。比べものになりませんが、文化大革命の渦中で大変な思いをした人たちが、回想を書くのに苦労したのがよくわかります。あれも権力が人々をどう抑圧したのか、具体的に示せということになると不明確な話が多いです。
表向き、民主的で活力のあるかたちであり、実際に荒くれる多数派の側に立っていれば日々躍動的で面白いものですから、何が被害だったのかわからないような話ですから、どうしても客観的な話と主観的な話が混乱しがちになってしまいます。
投稿: 管理人 | 2007.10.28 07:51
いわゆる左翼が夢想したコミューン活動ってのは、そもそも市民革命に淵源があって、絶対君主に対峙する為に市民が団結していくってもんでしょう。本質的には。
しかし、日本社会は市民革命が存在しなかったんですよね。そればかりか江戸幕府や分国法の様にコミューンが権力支配の末端に組み込まれて、しかも互いに監視し合い権力の手先として活動していったって背景がある。そういう時代背景の"差"を、左翼の面々は見落としていたのではないかと。
そう言えば、中村敦夫が『地球発22時』の取材で警視庁を訪れた時に「理想の治安体制は?」と警視庁の中の人に聞いてみたら「100人ちょっとの体制で100万都市の治安を維持していた江戸の体制こそ理想的」だと嬉しそうに答えていたんですよね。江戸時代の治安体制と言えば五人組の相互監視に加えて寺請・宗門改・人別帳で個人情報も管理されてて、しかもアウトローが一部で「岡っ引き」として治安維持を請け負ってた。これって現在の治安体制と何処が違うんですかね??
投稿: 杉山真大 | 2007.10.28 17:32
民主集中制的な流儀を左翼と一括りにされるところが日本的です。社会党右派、中間派、社民連などにそういう流儀を拒否しようとした勢力がいたことを言明しておきます。
一方で、市民革命のコミューンというものが、たぶんに暴力的なものだったということも解明されていて、「近代民主主義が誕生して以来、ファシズムやスターリニズムは何度も出現した」と言う人もいます。
その上で、日本共産党は、自らの組織と影響下にある運動体をどう統治するかということに猛烈なエネルギーを割き、そのために滑稽なほど科学理論と結びつけて運動をしていたと言えると思います。その一端が全生研運動だったのではないかと思うのです。そして科学の限界を見据えない科学主義によって自縛になり、後の時代になってより科学が進化するとあほとしか思えないような疑似科学を信奉し他人に押しつけまくっていたことがわかってしまったりしています。
江戸時代の治安維持については、金正日的なものだという暗黒説と、実際は空洞化していたものだったという両論あるので、私は言及するのはやめておきます。鹿児島県立博物館「黎明館」で、5人組の相互監視体制が薩摩藩独特のものだったという表現をされていて、それが薩摩藩の戦闘力の基盤になったようなことが書かれていました。藩によってずいぶん違っていたようです。
投稿: 管理人 | 2007.10.28 21:28