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2007.09.08

9/8 司法制度改革を考える

司法制度改革が、日本の民主主義を大きく変えようとしている。にもかかわらず、議論は関係者と目立たないマスコミにとどまり、行方が心配になる。

1つは裁判員制度である。これには是非論があって、前提となる議論は是非論ともに説得力を持つ。裁判に市民常識を入れるという是の考え方と、裁判にまで大衆煽動に左右される要素を入れなくてもいいという考え方と両方である。私は、比較的前者の考え方に近かったが、最近は、後者に近い考え方になっている。善悪の判断ののりしろみたいなところが、マスコミの煽動に左右されやすくなっていると思うからだ。
たとえば極悪人の裁判で、弁護士がその職務にのっとって加害者を擁護する手を講ずると、弁護士を懲戒処分にせよという論調が非常に強くでる(もちろんその弁護士がやっていることが加害者にとっても効果的とは思えないようなこともある)。しかしこれは、依頼人の利益を最善に、という弁護士の職務の本分からすると、社会を敵に回し、感情を害するようなことであっても、やらなければならないことではないか。
マスコミの感情的報道に煽られた世論や、検察権力に楯突けない裁判所までが、極悪人の弁護士に対して、資格を剥奪せよ、という議論が起こっていることに、恐怖を感じている。こうした冷静さを失った議論が司法でなされるようになっているときに、市民参加という美しい響きの言葉がどういう意味を持つのか、考えなくてはならない。
それは、行政や立法というポジティブな分野の市民参加と意味が異なっていると思う。
戦前、陪審制が、一般刑事犯に重刑を追認する一方で、アナアキストを殺害した甘粕に甘い判断を下し、野に放ち、結果として満州事変を引き起こして国の破滅をもたらしたことを思い返さざるを得ない(アナアキスト殺害は、その後、日本の社会主義運動がマルキスト一色にほぼ染め上げられることになるきっかけとなる大きな損失でもある)。

もう1つは司法試験制度の改革、つまり法科大学院の設置である。このことの本来的な理念は正しいと思う。試験偏重から、長い小集団の議論を積み重ねた学習による資格取得にシフトしようという理念は正しい。
これを現実化するためには、法科大学院の卒業者=司法試験合格者となるよう、年間1500人の合格者にあわせた法科大学院の定員でなければならない。しかし、法科大学院の乱造で、現実には3000~4000人も定員があり、法科大学院に入学した人の半分以上が脱落、不合格にならざるを得ないシステムになっている。
もちろん質の高い人材を集めるためには、不合格者がないことが問題だという議論を設定できるが、半分が不合格になるシステムが、試験偏重を再び呼び込んでいる。
また、本来は旧帝大+αだけに設置されないはずの法科大学院だったが、試験と切り離されてハクがなくなるのを恐れた二流、三流大学の法学部教授たちと、法科大学院設置の許認可利権にまとわりつく官僚や政治家の利害が一致して法科大学院が粗製濫造された結果として、法科大学院の選択と集中が行われなかった。このことで、法科大学院に費やされるべき財源が分散されてしまい、学生には非常に高い学費を負担せざるを得なくなってしまっている。
結果として、司法試験予備校(年額60万~100万)と、高い法科大学院の授業料(年額120万円+入学金100万円)を払え、かつ司法浪人してもなんとか潰しのきくような家庭環境にある人しか、司法試験は挑戦できなくなっている。しかも、ゼミという手間暇かかるものをやりながら、試験勉強もしなくてはならないという時間的二重苦も背負わなくてはならない。
これまで、実務経験を重ねて転身してきた社会人は、司法試験からシャットアウトされたといってよい。

そういうことが、どういうことをもたらすのか、不安である。貧しいところからたたき上げたり、普通の家庭から問題意識を持って弁護士になる、という人はほとんど見つからなくなるだろうし、医療のように世襲になっていくことは避けられない。かつての司法試験は苛烈なものであったけども、しかしお金がなくても、時間がなくても、勉強さえできればチャンスが与えられていた。つまり、貧しい人の本当の感覚や、問題意識のあることに取り組む司法関係者がいなくて、弁護士がカネのある人の企業舎弟みたいな存在になる傾向が避けられなくなるということだ。
ライオンズクラブやロータリークラブのような人間関係の中に弁護士も検察官も裁判官もいる中で、労働弁護や障害者の弁護などやる人が出てきても、それは慈善の範囲を超えないということにならないように思う。

しかもそんな中で、司法試験を作る教授が、自分ところの学校に試験問題を垂れ流していたとも思えるような疑惑が発生している。
市民の権利、人権は、最後に司法制度が守ることになっている。しかし、このようなシステム変更でほんとうにそれが維持できるのか、金持ちとマスコミを味方に付けられる人脈にある人だけの人権にならないか心配でならない。

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コメント

>裁判員制度
自分も以前から裁判員というか陪審制には疑問を持っていたんですよね。「自分が犯罪者で罪を免れたいと思うならアメリカで裁判を受けた方がいいが、自分が無実でどうしても無罪になりたいなら日本で裁判を受けた方がいい」と立花隆の著作で読んだことがあります。陪審制では弁護士の口八丁・手八丁や陪審員の心証で有罪・無罪が決まってしまい、有能な口の巧い弁護士を雇えないと裁判に勝てないからだそうです。
裁判に市民の意見を反映させるというのは必要かも知れませんけど、それならば参審制にしても良いし、裁判官の人事が最高裁と内閣に左右される現状を変えないと意味が無いと思うのですが。

>司法試験改革
弁護士の数を増やしてアクセスを容易にする、というのは肯けるものがあると思います。ただ医師の場合と同じ様に、資力の差で就業の機会が限られてしまうのが問題なんじゃないかと。大学の選択と集中と言うのも聞こえが良いですけど、日本の場合それは下手すると超一流校だけが美味しい目に遭わないて難点があるんですよね。法科もビジネスも先端技術もみんな東大が担って、その他大勢は下請けというのが望ましい姿とも思えないのですが。
藤末参院議員とこでも書いたんですけど、今一度法科大学院に進まない人向けに専門的な知識を問う一次試験を実施して、それに合格した上で法科大学院の卒業者と同じ土俵に上がらせるというのは如何ですかね?またそれとは逆に司法書士とか行政書士などその他法律が絡む公的資格の受験においても、法科大学院修了者は一定分だけ免除すれば弁護士にならないと元が取れないって問題も少しは緩和されるんじゃないかと個人的には思うのですが。
#ちなみに会計大学院と公認会計士&一部の経営大学院&中小企業診断士では、このシステムが採用されています。

投稿: 杉山真大 | 2007.09.09 20:31

杉山様
コメントありがとうございます。
東電OL殺人事件の東京地裁の裁判官の話を聞いたとき(詳しくは佐野眞一の著書をお読み取りください)、裁判所に対する市民チェックのシステムは必要だと感じました。また検察の起訴の99%が有罪になるという今の閉鎖的な裁判の現実に風穴をあける意味で、裁判員制度を肯定したいのです。しかし、今度導入される裁判員制度は、検察が裁判員を忌避し、その理由を明かさなくてもよくなっており、裁判所が検察官の言うがままという現実は変わらないことになるようです。そうすると、ポピュリズムの部分だけが裁判に入っていくことになり、とても危険なことだと思います。

司法試験の改革については、大枠では法科大学院制度を肯定しますが、結果からいうと、法科大学院の淘汰は避けられないと思います。制度導入時期なら旧帝大+αということになろうかと思いますが、現状では、すでに結果が出ていますので、新司法試験の合格率の低い法科大学院は認可を取り消すというのが現実的じゃないかと思います。そうなると東大とはいっても安心できないように思います。

法曹養成教育ができないような法学者は、専門家養成の大学院などにいなくていいのです。今までどおり、学部か、専門家養成ではない大学院で研究を続けていればいいことですし、それはそれで意味の大きいことです。

さらには、法科大学院の定員を削り込むなら、その分のコストは残った法科大学院にすべてつぎ込み、可能な限り学費を抑制できるように、民間で10年ぐらい働いた人の退職金で3年間の学費がまかなえる範囲には抑制すべきだと思います。そうすれば、貧富の差による機会の差はある程度抑えられると思います。

杉山さんがいう一次試験的なものは今でもありますし、新制度に完全移行しても残ります。しかし、門があまりにも狭くなり(定員が700人→100人になる)、暗記の得意な人でなければ合格しない門になります。同じ能力なら、法科大学院に行った方が確実です。しかしその場合、お金がかかって仕方がないということです。

能力があれば、努力をして能力がつけば、誰でもが法曹を目指せるシステムで、かつ受験勉強一辺倒にならない方法をどうしたらよいのか、格差社会の人権保障の観点から重要な課題だと思います。

今の改革はとにかく虻蜂取らずです。

投稿: 管理人 | 2007.09.09 22:24

遅ればせながら、お返事をば。

>現状では、すでに結果が出ていますので、新司法試験の合格率の低い法科大学院は認可を取り消すというのが現実的じゃないかと思います。そうなると東大とはいっても安心できないように思います。

うーむ。東大が専門家養成に手を出さず、学問的な研究に没頭って棲み分けが出来れば意味があるかも知れませんけど、現実には東大が全てを取り仕切っている訳なんですよね。それを抜きに「法科大学院の定員を削り込」み、「その分のコストは残った法科大学院にすべてつぎ込み、可能な限り学費を抑制できるように、民間で10年ぐらい働いた人の退職金で3年間の学費がまかなえる範囲には抑制す」るとしても、今度は狭き門に殺到するために高いコストを支払う事態になるかも知れませんよ。

>杉山さんがいう一次試験的なものは今でもありますし、新制度に完全移行しても残ります。しかし、門があまりにも狭くなり(定員が700人→100人になる)、暗記の得意な人でなければ合格しない門になります。

確かに少な過ぎますね。仮に法科大学院を削減するなら減らした分を増やすとか、逆に法科大学院卒に司法書士・行政書士などの資格試験で科目免除の恩典を与えるとか何らかの手当てが必要ですね。

ところで、『社会新報』がこんな↓主張をしてますよ。
http://www5.sdp.or.jp/central/shinpou/economy/economy1031.html
「日本と米国とでは歴史的にも文化的にも大きな違いがある。日本は「和」を尊び、何事も話し合いで解決しようとする。だから訴訟は少ない」「なによりも米国流の訴訟国家に陥るのは「反対」」って・・・・・裁判を簡単に起こせないことでどれだけ泣き寝入りしているか知ってた上で言っているのですか?これがいみじくも"人権派"弁護士を党首に戴き、労働者の権利を守る政党の主張なんですかね!?!?

投稿: 杉山真大 | 2007.11.10 22:57

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