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選挙の応援。選挙カーの運転をする。これが結構気苦労する。
最近、小さな面積の自治体で選挙したいという人には、選挙カーなんてやめちゃえとアドバイスしている。本番での選挙カーなんて票にもならない。多少効果があるのは、街頭演説。小規模のを100メートルごとにやれという人もいる。そうなると選挙カーなんて身動きの取れない無駄なものでしかない。
小さなトラフィックメガホンを担いで自転車に乗るか台車に乗せてやった方がいい。
ところがここで難問。1月ぐらいに千葉市議に出ようとしていたバカな候補が、駅前の陣取りをめぐって暴力沙汰を起こし、そのことがきっかけで幟旗に候補者名を掲出することが禁止されているという公選法の四角四面の解釈がよみがえり、全国紙を通じて、一般市民にまで知れ渡ってしまった。
おかげで、選挙カーを持たないで街頭演説しているときに、通行人に何という候補者か掲出できる看板の類は、選挙カーの看板しかなくなってしまった。
公選法はあれするなこれするなと書いている。そのことが選挙の公正さに寄与しているとは思うが、国民と候補者との距離を分断し、政治不信をふりまいていると思う。
●沖縄戦の終盤での、集団自決について、これまで軍が命じたものがあったと書いていた教科書の記述が削除され、あたかも沖縄の人たちの自発的な意志で集団自決が行われたように書き換えられた。
手榴弾による集団自決は、いったい誰の与えた手榴弾によって行われたのか、殺人事件で、指紋付きの血塗りの包丁が発見されて犯人が特定されたときに、オレは刺していない、相手が勝手に刺さってきただけだ、と言い逃れしているような雰囲気だ。
オレは強制していないという軍人の証人をもって否定したというが、それが全体として強制していないという証拠になるとは思えない。
集団自決が軍による誘導、強制がなかったとするなら、最近流行の国産戦争映画みたいに、そういう美談でお涙ちょうだいたっぷりの映画でもつくって沖縄で上映してみろと言いたい。
政権は、菅義偉というヤクザ的立身出世の行動原則しか持たないバカ大臣のおかげで、放送局のどうでもいいねつ造をネタに言論機関の権力による監視を制度化しようとしているが、文部省が音頭を取って行う教科書のねつ造記事については放置するらしい。
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