4/19 満足とは
昨日、3ヵ月前の子どもの写真が送っていただいた。その表情と今の表情を見比べて、少し落ち込む。3ヵ月前の方がおとなだ。
20年前、私の通っていた高校は、日本で一二を争う話題の学校だった(教育内容ではなく存在が)。冒険心の強い私のような子もいたけど、過去の経緯が縷々あって「子どものためによかれと思って」親に勧められて入ってくる子も少なくなかった。そんな子たちは、新天地である学校を拒絶するか、戻れない現実に盲従するかどちらかの対応に分かれていたように思う。
この4月、私は「子どものためによかれ」と思って新しい選択をしたが、それがどうだったのか。心が揺れ動いている。
多くの科学者たちがいろいろな試験を通じて理解を広げているものの、子どもの世界は、理屈や科学で解明できていないことばかりだ。たとえば、離乳食をめぐる最新の研究、それを数年後を追っかける厚生労働省の保健の方針、現場ではるか昔の子ども観で母子保健を指導する保健行政、これだけを見るだけで、科学は一面しか捉えることができていなかったことがよくわかる。
その上で、陋習やエセ科学(脳科学など)、根拠のない精神主義みたいなものが本物の子育てのように語られたりもしている。「子どものため」という言葉の意味はほんとうのところよくわからないことなのだ。「子どものため」を語る保護者、保護者に「子どものため」と善導する子ども関係者、それのどれが本当のことを語っているのか、当の子どもも大人と同じように語れないので、本当のことはわからない。本当のことがわからないから、子どもの世界があるんだ、という理解をしていかなくてはならないのだろう。
根拠のないはずのものを形にしたがるからこんなことが起きるんだ、という話では、昨日の毎日の鷲田清一さんのコメントが参考になる。
●「満足死」を読む。高知県の佐賀町、疋田医師の地域医療のレポート。
介護保険制度の導入の理念「ぴんぴんころり」を思い出す。生活死から生物死まで1週間とすること、ということをどれだけ実現し、生活の中で死んでいくのか、ということを実践していった話。地域の医師の往診なくして満足死はありえないと思った。
老いと家族をとりまく考え方に若干の考えの違いを感じるものの、大枠での死のとらえ方については同感した。
家族の側についての社会状況の変化では井上治代「子の世話にならずに死にたい」と抱き合わせて読むといいと思う。
●伊藤一長長崎市長が亡くなった。テレビの映像で流れていたが、霊柩車を見送る市民の多いことに、やはり名君だったんだと感じる。あれほど惜しまれた政治家が最近いただろうか。
自民党の地方議員から市長になって、選挙のときには本島等さんとの差別化のために「安全保障の問題は国の課題なので」と避けて当選したが、当選直後、あそこまで見事な反核兵器運動をされるとは思わず、毎夏の原爆の日の慰霊で読み上げるメッセージも感動的な内容だった。
●自分の暴力を他人の責任にする、卑劣な暴力犯が相次ぐ。池袋の通り魔も、心神耗弱がどの程度かわからないが、加害者が行った意見陳述はひどいものだったらしい。
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