3/7 進歩と自由
家族一同咳に苦しむ何日かだった。大事な用もキャンセル。すっかり顔向けできない。
ここ数日、職場では新しいシステム導入に向けた会議が続く。前の仕事ではこうしたときの提案側に回っていたが、今は聴いて質問する側に回る。不思議な気持ちだし、提案側になっていたときの重苦しい気持ちのフラッシュバックもあったりする。
システムのグレードアップは、業務の効率化が最大の目標で、次の目標が営業推進力の向上だったりするが、システム設計を進めていくと隠れた課題である内部統制の強化がどうしても色濃く出てしまう。
社会進歩=自由になる、という幻想に支配とれている我々は、コンピューターが良くなること(進歩)はできることがふえるべき、と思いこんでいる。しかし実際には、業務用のコンピューターの世界では内部統制的な機能が強まり、グレードアップでできなくなることが増えたり、現場的裁量がなくなるわけで、拒絶反応が出やすい。コンピューターと人間が一対一ならいくらでも自由に使えるが、やっぱり人間と人間の合意によって動いていて、その媒介にさらにコンピューターという融通の利かないものが入ってくるのだから、仕方がない。そして鋳型をはめてもらうと、確かに効率的にはなる。
仕事に時間がかかっても多少効率が悪くても細かい裁量を残して全能感を持たせて仕事をすることがいいのか、効率のためには機械に鋳型をはめてもらうことがいいのか、難しい問題だと思う。経営的に成功するのは後者のパターンが多い。
ところが10年前の自分は不幸な人間で、鋳型にはめることが正しい、とわかっていてもそれを言い切れなかった。サービス残業しまくっても自分の創意工夫でやっている現場の経理、業務、商品管理の担当者が自分なりの持ち場をつくり楽しく仕事をしていることに、論争してダメといい、システムで締め上げるのがつらくてつらくて、一方でコンピューターが中でどんな動きをしているのか理解するのもしんどくかった。もっとも不勉強だったからだと思うが、もっとシステムの中身を知っていたり、業務の効率化についてのきちんとした視点があったら、踏ん張れたかも知れないと思うところもある。
儲からないのにいい仕事している会社だったし、先輩や上司には可愛がってもらったけど、結局、愛社精神とは裏腹に、自分の仕事ぶりを愛することができなくて、やさぐれて居残ることも見苦しく、退職することにしてしまった。もったいないことである。そして、賄賂や贈答はもちろんだが、愛社精神や愛国心などの精神訓ではモチベーションを維持しない自分がいることを発見した。
そして、システムの説明を受けると、ありとあらゆるイレギュラーな処理を考えてみる自分がいる。詰め将棋ってこんな感じなのだろうか。
そんなことをいろいろ考えてしまうこの頃だ。
| 固定リンク
コメント