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2007.01.02

1/2 野党と在野勢力の質が問われる07年

外に楽しみもなく、テレビをつければ芸能人がだらだらと喋っている番組ばかりで、しかも家にいれば親に意味のない公約をさせられそうになるお正月は子どもの頃から苦手で、経済的に自立してからは静かに家にいたことはほとんどなかったと思う。だから、年末だから、年始だからと特段、いろいろまとめてみることは苦手で、昨年末も何一つ美しいこと言わずに「きょうも怒る」でしめくくってしまった。

●今年は、野党的立場にいるすべての人たちにとって大きな転機が始まる年だと思う。憲法の「統治機構」の規定では、この国がどうなるのか、ということは衆議院選挙の結果によるが、流れができるのは、今年のように参議院選挙がある年が多い。また大きな政党の枠組みの変化はないが、統一自治体選挙は、政治に流れ込む人材、地域社会という根っこのところでの政治選択がどのように変化するかということも示してくれる。

ここ数年、野党は税金の使途の問題と、官僚支配と、参加のオープン度をめぐって自民党に対抗軸を示してたたかってきた。政党が軸になる理念や社会像をまとめられない中で、裁量行政の中で口利きを通して利権の分配機構として機能してきた自民党を叩くのには、とてもわかりやすい理屈だったからだ。

しかし、小泉政権が誕生して、ほんとうのところはどうだかまだわからないが、表向きは民主党や社民党よりも遥かに激烈なかたちで、税金の使途の問題と、官僚支配について攻撃して、内容はともかく国民へのアピール度の高いやりかたでそれらの解体もやってきた。政権だけにそれらはそれなりには具体化し、野党のやってきた主張というのが対抗軸としての価値を失ってしまったと言ってよい。前原氏が繰り返し「改革派の自民党」と連携したがるのも、税金の使途の問題と官僚支配の解体という各論だけでは、対抗軸がないということを明らかにしている1つの現象だと思う。

何のために税金の無駄遣いを問題視し、官僚支配を解体しようとしているのか、その根本的なところをわかりやすく対抗軸にしていくことが求められているのではないか。それがないから、「改革」後の社会像を提示できず、格差社会の前に、野党はなすすべもないのではないか。ほんとうはその社会像を提示するには十分な議論がされてきているし、個々の議員はそうした良質な議論にシンパシーを感じながら、民主党を中心に野党は1992年ぐらいからの改革談義の呪縛に縛られた議論しかできていないから、まったくもって前に進まない。

野党のありようをめぐってはいくつかの議論がある。

1つには、松下圭一「市民自治の憲法理論」から菅直人「国民主権論」にいたる理念がある。
現行憲法では、国民主権と地方自治が社会の意思決定プロセスとして重要だ、と示しているにもかかわらず、三権分立を口実に行政権の独立性をことさら強調し、行政法学によって巧妙に官僚支配を正当化している今の法体系の改革が、野党勢力にとって対抗軸のベースにしていくのか。これは菅直人氏が党首になるかならないか、ということではなくて、改革の負の側面を相も変わらず裁量行政のままに恩恵の政治でカネや公共事業のバラマキで終えるのか、それとも意思決定権をダウンザイジングして、国民それぞれが自分たちと考え方の違う人々や利害の異なる人々と合意形成を図りながら、社会を自分たちのものとして実感できるかどうかの改革になる。

1つには、山口二郎氏のリスクの個人化か社会化かという問題提起がある。
山口氏は、①裁量行政と意思決定の透明化の対抗軸と、②リスクの個人化か社会化かという対抗軸を示し、政治のありようを4つの枠組みで分析している。ここでいうリスクとは、金融破綻とか、戦争の危機ということだけではなくて、失業、病気、介護、保育、離婚などさまざまな人生のリスクをどのように管理するかという視点である。
旧来の自民党(山口氏は「抵抗勢力」と呼んでいる)は、①が裁量行政で、②がリスクの社会化だった。そして小泉政権は、①が意思決定の透明化だが、②はリスクの個人化で、そういう意味では旧来の自民党の正反対の立ち位置にいるということになる。リスクの個人化とは、小さな政府をめざし、生活上のリスクは個人責任にしていくことである。具体的にいえば母子家庭への支援を下げたり、医療費の自己負担を上げながら、一方では児童手当のように、資格要件をほとんど問わないような補助金をばらまく施策である。小泉改革で意思決定の透明化がされたかどうかには異論があるとは思うが、不透明な裁量行政は表向き否定され、わけのわからないマニアックな利害調整の議論はこてんぱんにされたと言ってよい。
そして安倍政権は、意思決定の透明化は政治家の選考過程にとどめようとしていて、政治家と官僚とが仲良くしてなんとかのりきろうというスタンスを感じる。与党系団体の陳情的な要求以外は、ほとんど政治家と官僚たちが物事を決めていると言ってよい。多くの自民党議員は小泉政権を異常事態とみていることから、リスクの個人化を残したまま、裁量行政の復権に移行するのではないか、と山口氏が予言していたことがだんだん当たっている。
山口氏は、国民主権論的なものをふまえながら意思決定の透明化をめざし、社会のリスクについては共同化していくことを提示している。前者についてはほとんど異論はないと思うが、後者について民主党は意見が分かれている。
「税金の無駄遣いを許さない」というわかりやすいが、どんな社会像を作ろうというのか理念も何も見えないスローガンを前面に立て続けてきたので、民主党の中には、単純に歳出をなくそうとする「小さな政府論」と、有効に税金が使われることに視点をおく「有効な政府」をめざす考え方と両極端な立場がなだれ込んでいる。そこに加えて、民主党の場合は「社会党の再現になる」という言霊で縛られて、少しでも社会党と共通の政策や理念が出てくることを恐れるあまり、リスクの共同化という立場を決断できない状況にある。小泉純一郎も、中川秀直もこの分裂を巧妙に突いて、リスクの共同化の理念が見えないときには「理念がない」と批判し、リスクの共同化をめざすと「何でも反対の社会党の再現」「抵抗勢力と変わらない」と批判している。そしてそれに動揺する党内世論がある。
山口チャート理論は政治関係者にはとってもわかりやすいが、現実にはいくつも克服しなければならないヤマがあると思う。

最後に、神野直彦東大教授の「ほどよい政府論」である。
「ほどよい政府論」というタイトルが良くないが、ここ10年、ほとんどの政治勢力が小さな政府をめざしてきた。民主党はそうだし、消費税増税に反対な社民党も、共産党も小さな政府論である。「増税はゴメンだ」という世論に悪のりして、政権としてリアルに社会保障や社会保障の代用機能をバッサバッサと切ってきたのが自民党の改革派である。
神野直彦氏は、財政赤字は政府支出の高低で決まるのではなく、有効な政府がかたちづくられているかどうかの結果でしかない、という議論を投げかけている。レーガン政権もサッチャー政権も財政赤字を拡大して終焉したが、小さな政府が財政赤字を拡大しているというパラドックスの1つの回答である。そして財政赤字を解消していくためには、税収とその背景になる国民や社会の危機を回避できる機能が政府には必要だと提言する。教育や社会保障の機能の強化はそのための手段だと言う。
神野理論は、民主党・社民党関係者に強い支持があるし、実際に民主党の議員など神野先生の講演を聴くと感動して帰っていくものの、全然、それを党の理念として具体化したり、実現しようという動きが出てこない。非現実的だという先入観が強すぎる。それより、民主党の中は、少子高齢化を無視した、15年20年前の経済偏重主義・バブル経済の残滓でしかない大前研一理論の方がまだ根強い。

対抗軸になる理屈はいくつか提示されていると思う。
また各論においては、高山憲之さんの年金、小野善康さんの経済運営はじめさまざまな議論がある。そうした様々な対抗軸となる考え方をうまく組立て、組織化できるかどうかが野党に問われているのではないか。

一方で、そうしたことを選挙にまで貫徹して要求する人がいるが、それは別の話だ。選挙というのは、どうしても局地戦(地域であったり業種であったり)の要素が入り込むため、なかなかそんなにすっきり頭脳の通りにはいかない。
理念をふまえて野党統一候補を立てていくというのがすっきりした美しい姿だが、そんな評論家たちの美しい言説が具体化することは永遠にないだろう。相も変わらずの玉石混淆の中から候補者は選ばれ、それなりに「わかりやすい言葉」で局地戦は闘われると思う。
しかし、そのわかりやすい言葉が、きちんと理念との連携のなかに置かれる努力はしなければならない。与党は小泉政権の間にそれを具体化してきて、今、それが抵抗勢力の官僚や、自分の利害しか考えない経済界がぐずぐずにしているいいチャンスではないかと見ている。

それと、今回の統一自治体選挙や参議院選挙で、そんなに簡単に民主党や野党の思うような選挙結果が出るとは思えない。参議院選挙を過半数割れに追い込むことができなければ民主党は解党だ、と民主党幹事長などが発言しているが冗談も休み休みにしてもらいたい。ほんとう、この人はすぐカタストロフィーみたいな言い方するのが好きだ。しかし、実際に議員も政党もそんな簡単に壊れるべきものでもないので、結局、民主党幹事長の発する言葉の多くは、政治の言葉の信頼を失わせる役割を負っているのではないか。選挙を控えた議員にそういうハッパをかけるのはいいが、国民に公約みたいに言わなくてもよい。むしろ国民には、今回民主党が勝てなければどうなるのか、明確に提示することが先にやるべき仕事で、そういう情報なしに、民主党が解党の危機に瀕する、なんて国民を脅してみたところで、そもそも政党不信の国民にとっては「どうぞご勝手に」という話でしかない。

選挙の結果は国民の審判であって、野党第一党が解党してその後の国民の審判の機会を奪ってしまうようなことはやめてもらいたい。田原総一郎に乗せられて全議員辞職を決定したPKO法案のときの社会党みたいなこと言わずに、その財産をきちんと生かして、何が国民に信頼される対抗軸なのか、きちんと描いてほしい。
繰り返すが理念も何もまとまっていない、ある意味与党以上にパッチワークの基本政策しか持たない民主党が、簡単に政権を取れるわけがない。今の民主党の訴えていることは、各論以外は、相手陣営のスキャンダル暴きしかやっていない地方議会並みの水準の主張であって、そんなやり方で政権を取りの口実をつくるとは、リクルートスキャンダル以来もう飽き飽きしているし、それで政権を任そうなんてことにはならない。

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