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2007.01.31

1/31 川口市の生活道路時速30キロ規制を評価する

もう1月が終わる。営業日数が少ないから、ばたばたばたと仕事が通り抜けていった。まだ職場で「新人」と呼ばれ続けていた(バブル崩壊で営業職以外は後輩が入らなくなった)95年の冬のボーナスで買ったお気に入りの毛織物のロングトレンチコートを11年も着て、もうたいがいすりきれている。探しているが、ここ数年はロングがない。トレンチは毛織物のがない(超高級品ならあるけど)。今年は暖冬でよかったと思う。
今日、少しショックなことがあった。いろいろなことがわかる。

●川口市が、生活道路全部を時速30キロ制限にするという。ほんとうはハンプをつけたり、一方通行にしたりして、物理的にクルマが使いにくい道路にしてもらいたいが、予算の限界がある中では、こういう規制でやるしかないと思う。とにかくいいことだ。人が生活のために過ごす生活道路の規制速度が無し=時速60キロでありながら、表通りの制限が時速40キロなんて逆転現象も珍しくない。制限時速を下げることで危険運転致死傷罪適用へのハードルも低くなる。

●書店で見たNHKブックス「障害者市民ものがたり」が気になる。著者は、昨年亡くなった大阪の障害者の方の追悼会で司会をされていた河野さん。帯の「バスに乗ることさえ闘いだった」という言葉を見て、ほんの15年ぐらい前まで、公共交通機関が介助者のない障害者を乗車拒否していた話がちっとも珍しくなかったことを思い出す。障害者に対する感覚がずいぶん開かれたものになったと思う。まだまだだけども。

●過日、朝霞市の児童福祉課が市ホームページの認可保育所の案内で各保育園のHPのリンクを切ったことが問題だ、と書いた。恥ずかしいことに、私の事実誤認で、認可外保育所の紹介に各園のHPのリンクが貼ってあったものと勘違いしたものだった。児童福祉課に謝罪のメールを送る。
だからといってHPですでにある情報を紹介しないのももったいないことだし、各認可保育園が作っているHPの質も高く、掲載しないよりした方がいろいろな意味でいい効果が期待できるので、検討するよう求めた。

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1/31 企業減税要求は恩着せがましい利益誘導

月刊連合2月号に大阪大学の小野善康教授のコメントが出ている。小さな政府がいいことと疑ってもみないことに慣れきった連合民間大手の関係者に読んでもらえれば、と思っていたので、小野教授の記事が紹介されたことはよかったと思う。新古典派経済学の原理主義に則らない限り、小さな政府を訴えることは、労働運動のめざす理念とたいがい矛盾をきたすのではないかと思う。

小野教授は、経済界に対して「どれも俺に金をくれというだけなのに、大企業の経営者が言うとすばらしいように聞こえるから不思議だ」「大量解雇も企業整理も、勝ち組がライバルを追い出しただけ。つまり二極化が起こっただけだ。勝ち組は日本経済のためだと恩を着せるが、これだけずうずうしい利益誘導はない」と評価。一方労働組合に対しても「経営者は国のためと言いながら自分のためにしか考えていない。同じように労働者が俺にも金を回せというのはいいが、それで減税だ、小さな政府だと言っていたらただの取り合いで日本経済は良くならない。金をくれという分、税金もしっかり払い、中身のある政府事業をやるよう要求するべきだ。そうすれば、仕事も売り上げも増えて、必ず自分たちに返ってくる」という。

高いGDPがありながら生活の質が低いことの一因には、消費財の生産や流通がとても豊かなのに対して、官が提供するものにしても民が提供するものにしても社会サービスがあまりにも貧弱すぎるからだ。日本人の家計のうち、私塾の費用や民間保険料の負担額が突出していること、労働者に必要不可欠な通勤電車に公的助成がほとんどないため実情があまりにもひどいことなどはそれを物語っている。そういう現状を我慢して、辛抱の美学で労働者をやっているのもいいけど、税金を今より払ってでも、そうした負担を軽減する選択もあり、と考えた方がいいのではないか。わずかばかりの減税を期待して質の低い教育や福祉に我慢しているなら、税金を取って教育予算の強化や、年金や医療の保障をきちんとやってもらう方がいいと思えないか。

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1/30 

●柳沢厚生労働相の問題発言の波紋が興味深い。
右派で古い家族観を政策の売り物にしてきた高市早苗氏が反発していたりする。女性の人権=左派、男女の性別役割分業=右派みたいな固定観念があるけれども、95年ぐらいから、そういう固定的図式は崩壊していると思う。
すごい護憲主義者でフェミニズム的なことをいう女の人が、労働観や国家観、経済思想ではとっても競争選抜主義で右よりだったり、労働観や国家観、経済思想では社会主義的なのに、男女の役割分担についてはものすごく固定的に捉えている女の人も多くなったと感じる。
あるいは、保育なんか関わっているとよくわかるけど、左翼政党を熱心に支持して福祉運動をかんばっているような人が「お母さんの愛情」という極めて保守的な言葉を使って、人間の能力を母親の役割という言葉で封じ込めたり、商業主義丸出しの保育事業者が、性的役割分業の考え方から比較的自由で、育児を社会化している保護者に寄り添うようなことしていたり(ただし保育士の労働条件確保に関しては違うが)、ぐちゃぐちゃな状況である。
左翼側が男女観、家庭観、子育て観についてずいぶん流動化したのに対して、右翼側は相変わらずで、女系天皇といえば反対、男女平等といえば反対、夫婦別姓といえば反対、何でも反対の化石状態である。図らずも高市氏がそうでもないということを露呈しているのだ。
話を戻して、柳沢氏の発言に関して言えば、「少子化対策」という問題設定が歪んでいて、「少子化」を克服すればこの国が豊かになるという固定観念が古いのではないかと思う。ニート問題や、学力低下が問題になる状況などをとらえると、若者が増えたって満足に職業を用意できない社会になってきているし、誠実に働くことだけが売りの労働力が働くことのできる現場は、おおむね低賃金職場しか用意できなくなっているのだから、もはや若者が増えれば社会が豊かになるという固定観念がそもそも間違っていると思う。

●田中哲二「キルギス大統領顧問日記」(中公新書)を読む。ソ連中央銀行の支店から切り離されたキルギス中央銀行の顧問として日銀から派遣された人物が、その見識を認められ、大統領顧問になって活躍する話。
IMFの新古典派経済学に全面依拠した金融改革が、混乱から立ち上がったばかりの国には劇薬すぎるというような指摘をしている。経済混乱と金融自由化で、成金の設立したポケットバンクが乱立し、インフレ気味になるため、緊縮財政によるインフレ抑制策を行うため、経済が一次的に崩壊状況に陥るという。また経済効率の低い農業などへの投資や、ポケットバンクの整理・統合が行われるまで大規模な投資に見合う金融システムが確立できないことも問題だと指摘している。
その反対の見本が終戦直後の日本で、官製金融や長期信用銀行(興銀、長銀、日債銀)の創設と、貯蓄増強運動を通して、終戦直後の混乱に金融機関の混乱で経済が振り回されることもなく、農業の復興や大規模な設備投資を行えたというし、キルギスもそれが適用し、官製金融と長期信用銀行の複合型の金融機関を作りたかったようだが、IMFの介入と資金不足でできなかったと残念がっている。もっとも著者は官製金融が今の日本にとって無用になってきていることの指摘も忘れてはいない。
新古典派経済学が通用しないこともある、ということを知るための良書だと思う。

●昨秋知り合ったばかりの経済誌の記者が退職される。若年者の雇用問題を、最も触れたがらない読者がいる経済誌で書き続けた記者で、心底尊敬していた。少し残念だけども、きっと次に活躍する場が見つかったのだと思う。その新しい活躍を期待している。

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2007.01.29

1/29 筋がちがうよ

●JR東日本のテレビコマーシャルで、踏切事故ゼロ運動が流れていた。
クルマに対しては、踏切事故をなくそうと、税金使ってまで立体交差事業をやっているのに、JRにお金を払っている利用者がホームから転落することには物理的対応を取らない。ホームドアを設置するとホームが狭くなるとか言っているけど、ホームの隅は今だって危険で歩いたり、電車を待ったりしないようにしている。
それにしても最近、踏切事故が多い。踏切につっこんでしまったり、電車の止め方を知らいのか。最近のドライバーは。それから、ときどきステレオの音が大きいクルマがある。警報音が聞こえなくて、救急車につっこんだりする。踏切の警報音もたぶん聞こえないだろう。クルマのステレオ、規制した方がいいんじゃないだろうか。

●安倍首相が代表質問の答弁で、教育改革について「すべての子に、必要な学力をつけるため」と授業時間の延長やゆとり教育の否定をした。「すべての子」と前提にしたことは、障害児も当然含まれるのだろうね。そうであるなら文部行政史上、画期的な答弁である。アメリカではベトナム戦争に身を捧げた兵士の名誉のために障害者差別禁止法が成立した(そういう背景を知らないで障害者差別禁止=左翼とレッテルを貼って千葉県条例に反対して骨抜きにしようとした右翼議員たちは猛省をしてもらいたい)が、反動のミステイクの中から、差別解消が進むことをせめて期待したい。

●自民党の逢沢一郎議員が、宮崎県知事選挙で自民推薦候補への「応援をよろしく(公選法では投票依頼)」というメールを1000通送ったことで問題になっている。民主の鳩山氏は「とんでもない」と反応しているが、バカじゃないかと思う。この人はいつも無定見な政局反応しかしない。
メール規制の解禁は民主党がずっと訴えてきたことではないか。ここで民主党がとるべきは「メール規制なんて愚かな規制ですよね」と受け止め、公選法でメールによる投票依頼を解禁するよう、与野党合意に持ち込むべきだろう。どうしても資金力で劣る野党は、メールのようなローコストな選挙運動のツールを少しでも増やすのが得策だろう。人格者の逢沢氏に選挙以外で喧嘩しても、あまり意味がない。

●NHKの従軍慰安婦模擬裁判の番組がいろいろ話題になってきたが、模擬裁判の主催者がNHKの報道が歪曲されたと裁判に訴え、今日、勝訴した。そのこと自体は意義があるのかも知れないが、しかしこれは原告にとって得策だったんだろうか、と思う。NHKにしてみれば、安倍晋三にイチャモンつけられてまで作った番組が、取材してやった側からも訴えられたとすれば、こういう面倒くさくなる問題は番組にしない方がいい、ということになるだろう。
今は団塊の世代が番組づくりの現場を指揮しているから、左翼的話題も大切にしてくれるが、10年後、団塊の世代や左翼大嫌いな前原誠司世代が番組づくりを牛耳るようになる。そのときにこの裁判で受けたNHKの傷は取材拒否の格好の口実になるだろう。
イデオロギーの正当性は政治的合意で勝つことが大事なんであって、そのために運動をし、世論を動かして、政治家を動かすことが大事だ。イデオロギーの正当性は裁判所に認めてもらうものではない。そんなに偉い人に認めてもらいたいか、と思う。裁判所がいくら正しいと認めたって、模擬裁判の意義なんか国民にはちっとも伝わらない。そこを原告たちはわかっていない。

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2007.01.28

1/28 抗体反応

家族が次々に風邪にやられて、幽霊船になっていくようだ(風邪だからいつかは治るが)。

そんなときに、鳥インフルエンザのことを考える。専門知識があるわけでしゃないし被害にあった養鶏業者のことを考えると軽々なことは言えないが、日本は渡り鳥の飛来地で、かつインフルエンザウイルスというのは数限りなくありそうなので、今取られている水際でのウイルス撲滅作戦ってどこまで守りきれるのかわからない。
ウイルスに効くクスリはなく免疫で退治するしかない、とか、あるいはインフルエンザは一定程度蔓延すると解毒化していくとか、そんな話を聴いていると、死んだ鶏は廃棄するにしても、インフルエンザの感染した養鶏場で生き残っている鶏を繁殖させた方が、効果的ではないか、などと滅茶苦茶なことを考えてしまうが、どうなのだろうか。

●久間防衛大臣が記者クラブで、自衛隊のイラク派兵はアメリカの誤情報に騙されてしまったんだというような本音の話をした。朝のテレビを見ていたら、そのことに対する民主党菅代表代行の「閣内不統一だ」というツッコミに対して評判が悪い。結局久間さんは黙っちゃうみたいだ。それではイラク政策が変わらない。
国会での論議の技術上、安倍首相を追いつめていく意味では閣内不一致というツッコミは有効なのかも知れないが、ここでは、イラク政策の変更について久間大臣が思い切った発言をしているのだから、もっと上手に捉えて次の議論に広げていくことが必要だったと思う。民主党の政策としてはイラク派兵には反対なのだから。
イラク派兵の責任追及の前に、誤った情報とは何か、誤った情報で対米協力を約束してしまったシステムは何なのか、国会で明らかにしていくべきだろう。

この問題についての尾ひれはひれ。
①政権交代があれば過去の政治判断ミスを浄化する機能が働いて方向転換できるんだけど、日本の場合は政権交代がないし、さらには小選挙区制の導入で派閥による疑似政権交代も無くなったから、国としての過去の政策判断の誤りを浄化する機能が働かず、過去の蓄積の上での政策転換をすることになる。与党はねじ曲がった理屈に理屈を重ねて方向転換を図るしかない。一方、野党は筋のよい方向転換のためには政権交代を迫っていくしかないが、理念や大義なき政権交代ばかり意識すると、最初の「閣内不統一」というような政局がらみの判断をする体質が身に付いて、これまた野党も力がつかない。ジレンマである。
②こういう発言をしても大目に見てもらえる久間氏の存在というのはなかなか面白い。他の政治家(に限らずすべての組織人)だったら謹慎させられるようなことだと思う。麻生太郎さんも、久間さんの発言を長崎弁で紹介して、自分の言い分を通すのに使ったことがあったような記憶がある。

山口二郎北大教授のブログで、御手洗経団連について批判している。論点が整理されていてよい。ただし過去の経団連代表が今よりよかったのはわかるが、「国士型」というのは持ち上げすぎだと思う。

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1/28 実はエリートに愛国心がないんじゃないか

NHKスペシャル「インドの衝撃」で理系エリートを養成しているインドがレポートされていた。

国のため村のために一所懸命勉強する若者がいる、という伝え方を見て、愛国心や愛郷心に必要性を感じている教育再生会議の改革論は、発展途上国の教育政策への巻き戻しなんだとわかった。
インドのように高い教育を得られる若者が限られている国(大学進学率で7%、11~14歳で教育を受けている子が61%)では、自然と高学歴の若者は国や地域を背負う立場にならざるを得ない。1960年ぐらいまでの日本の大卒もそんな役割を負っていたのだろう。

エリートでないその他のおおぜいの人は目先の生活だけを追いかけていればよいし、それしか余裕がない。
では日本はどうかというと、やはり、国や地域を背負って立つ若者なんて、はっきりいえば社会に一部いれば済んでしまうのが、現実のこの社会だ。キャリア官僚はそうだし、プラント輸出している商社マンなんかもそうかも知れない。民間人といってもプロジェクトXに出てきたのが大企業の開発者か営業だけだったように、やはり一部の人たちなのだ。
残りの人は持ち場持ち場の大切なところで一所懸命仕事し、生活するので手一杯なのだ。それでも戦後の日本は、職場や労働組合、業界団体、町内会、ボランティア活動、趣味の活動などそれぞれの持ち場で、個々人の社会的役割を位置づける機能が働いていて、そこで高い職業的モラルが維持されてきたのではないか。

そういうモラルの危機を、愛国心や愛郷心の問題に一元的に絞っていることに違和感をもっているが、今日のインドのレポートを見て、そのずれがわかったように思う。

日本のモラルの危機が愛国心の危機として語られるのは、普通の人に愛国心がないことではなくて、トップエリートに国や地域の未来を背負っている自覚がないことなんだ、ということなのか。実際、今の日本のエリートは、大半が専業主婦と学校社会に囲まれながら育ち、家族や地域のしがらみはほとんどなく、自分のしがらみを断ち切る救済思想として国を持ち出す必要もなく、エリートコースに乗っかったまま、ただ観念的な使命感だけでエリートになっていくように思う。政治家や憂国の教育評論家たちが日常的に接するエリートたちに、強烈な国や地域に対する使命感が感じられないということなのか。
一般人に愛国心が無くて、何が困るのか、私にはいまいちわからない。実際、日露戦争までの日本社会はそういう状態だったようだし、それでうまくいっていた。愛国心を持ち出した日露戦争以後に社会はおかしくなっている。
トップエリートが普通の人と同じように持ち場のことしか考えなくなっていて、その責任を普通の人を巻き込んで処理しようとしているのが、愛国心や愛郷心を強調する教育改革論者なのだろう。

私のように、DQN人口の高い地域に住んでいると、国を背負ってもない人にとって、愛国心とモラルが関連しないことがよくわかる。日の丸を愛車に貼り付けているエリートでもない人のその愛車が、マフラーを外していたりすることはよく見る光景である。国や地域を言葉の上で愛していても、地域の人たちに迷惑がかかるということが何なのかということを理解できていない。そういうのをイデオロギー過剰という。
今の教育改革で国民のべたんに愛国心や愛郷心を強調しても、国民がみんなイデオロギー過剰な状態におかれるだけだ。煽られた愛国心にふさわしい役割が与えられない人にとっては、良くて(ゲームボーイを買い与えるお金があるのに)給食費も払わないような連中の間に日の丸シールが氾濫し、2ちゃんねるみたいなところで左翼バッシングが今以上に行われることで、最悪なのは、巷の人々が国に仕える自分さがしを始めて、結果として草の根民族主義の勃興、つまりファッショ的日常がわきおこるということである。

そういう意味で、お侍さんに国を背負って貰って殺し合いを押しつけ、その他の人には愛国心や愛郷心の残酷さから解放する封建主義というのは、一つの知恵なのかと思うときがある。

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2007.01.27

1/27 高齢者の安否確認

午後2つめの予定は、地域福祉計画の「高齢者・障害者の危機管理プロジェクト」の高齢者ヒアリング。デイサービスに通っている3人の高齢者の話を聴く。

病気やけが、災害、そして犯罪被害という3点から高齢者や障害者を守る仕組みを作るムーブメントを作ろうというプロジェクトで、最終的には、市役所や介護、福祉事業者、その他いろいろな人たちに提言をしていく。
その最初の段階で、当事者が、どんなことに注意を払い、どんな人たちと関わりながら生活しているのか調べる作業だ。統計調査ばかりに依存しないで、人々の暮らしのなかのオーラルヒストリーを蓄積していって解決策を考えるのが朝霞の地域福祉の市民委員会のいい習慣・手法になっていると思う。統計調査では少数の人の課題になりがちな福祉を考える上で、ヒアリング取材というのはとても大事だということは、この間読んだ岩田正美「社会福祉研究法」(有斐閣)にも書いてあった。

3人が3人、高齢独居者で、話は勉強になった。買い物がスーパー・コンビニで済ませられる時代に、定期的に配達があったり御用聞きするサービスは新聞ぐらいしかないこともわかる。低所得の高齢者にとっては、新聞を読むこともなく、ほんとうに親族と公的サービス以外はほとんど安否確認が行われないことがわかる。むしろ男性高齢者の方が、料理が苦手なため宅配の惣菜などを利用していたり、新聞を読んでいたりして、まだ安否確認のつてが多いと思った。

基礎年金しかない高齢者の生活についても聴くことができた。家賃で収入の半分以上が持っていかれて、なかなか厳しい。こうした自立すれすれの人に対する福祉は脆弱で、宗教団体とワンセットの政治家に頼って公営住宅の入居を斡旋してもらうか、親族に頼り、子どもの嫁や婿と嫌な思いをしながら死を待つことを勧められるかだ。不動産屋天国ニッポンの弊害を垣間見る。すべての物価を高いと言っているのは貧困者じゃないのだ。ほんとうの貧困者はまず住宅費を何とかしたいと思っている。
興味深いのは詐欺も窃盗も、こうした高齢者のところにはあまりやってこないようだ。騙しても、借金させても回収できないことがわかっているからだろう。犯罪には下調べが行われるということを証明している。振り込め詐欺や消費者問題を起こす詐欺は、中産階級の高齢者の問題だとわかる(中産階級とてもう年金生活者という無産者なので事態は深刻なことに違いないが)。
基礎年金だけで暮らすような高齢者にとって風呂や娯楽も禁欲だらけで、自分自身の大学時代を思い出した。

調査の余談で、デイサービスでマージャンの日があることが話題になり、この高齢者も誘われていた。最初は遠慮していたが、賭をしないマージャンだとわかったとたんに前向きになった。お金のかからない遊びというものをどれだけ発見できるかが、豊かな高齢社会なんだなぁ、と思った。それで思い出した映画があって「月夜の願い」という台湾映画。最初のシーンで、高齢者が集まってマージャンやっていたように思う。
私はマージャンを覚えずにこの歳まできた。この高齢者たちに教わってみたいという気持ちが起きた。高齢者と一緒にマージャンをやるというボランティア活動もありだと思う。

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1/27 市民の権利擁護より事業の方が大切な市役所

午後1つめの予定は、地域福祉計画の福祉オンブズマンプロジェクト。近隣自治体でオンブズマンを設置している市と、福祉オンブズマンを設置している区を訪問して調査することを確認。市に対する要請として出したものの回答が不満で、次回に再意見書を提出する予定。

市の意見として「開店休業状態の自治体があるようなので」と、オンブズマンの必要性について市は疑義を呈しているが違うと思う。詳しくは意見書に書くが、たとえて言うなら治安のよい自治体に警察や防犯活動がいらないということにならないのと同じ論理ではないかと思う。とりわけ福祉の利用者は、たえず自己規制をし、明らかな人権侵害にも遠慮して声に出さない人が多い。また、身体能力としても経済能力としても、訴訟を起こしたりや県庁に何度も行ってまで問題を明らかにしていくことは、物理的に不可能で、地域の自治体がこうした社会的弱者の権利侵害を放置しないという姿勢が大事じゃないだろうか。こういうことにタカを括っていると、朝霞市役所が雪印や不二家のように、いつか福祉の問題で、裁判に訴えられたり、警察沙汰になるんじゃないかと心配になる。

「先行事例に倣うのではなく、独自に考えていく必要がある」というが、福祉の先進自治体がそういうこと言うならともかく、複雑な福祉問題は県施設に押しつけるか、東京都に福祉難民として送り出してきた朝霞市に、福祉の応用問題を解決するスキルがあるとは思えない。同時に深刻な状態を受け止め解決してきたスキルも少ないと思う。「独自に考える」というのは、だめんずの「オレ流」に近いダメ思考である。だめんずが職安で履歴書の書き方、面接の受け方の基本を教わるように、まずは基本をきちんと習い、スタンダードな制度を整えることが基本だろう。当事者が福祉サービスで不当な扱いを受けたことは消費者問題でもあり、それに「独自」って何があるのだろうか。

「地域包括支援センターの活用を検討しては」というのは賛成だしその通りだと思うが、どちらかというとそれは福祉サービスを受ける前の事前の総合相談機能の充実の話で、権利侵害の救済機関の話ではない。
朝霞市には介護事業者や医師が運営しているものしかない。人口比で3~4カ所設置しなければならないが2ヵ所しかない。両方とも交通不便地域だ。そこが、福祉の権利侵害までやっている余裕も、立ち向かっていくことも難しい。同業者の失敗をことさら厳しく追及できるだろうか。
それなら地域包括支援センターの運営を介護事業者や医師に丸投げしているだけの状態を改善すべきで、市や社協など公的機関が1つぐらいは運営したらどうかと思う。

「事務局が福祉サービスの提供者である行政で良いのか?」というが、大切にすべき理屈が逆立ちしているとしか思えない。福祉サービスそのものを運営するのが行政の一番大切な仕事じゃない。
福祉を必要とする人が不当な状態におかれないようにすることが福祉行政の第一に求められる役割で、その次に福祉サービスが公的な立場から違法な状態や利用者にとって悲しむべきような状態で運営されていることがないように監督することが行政の大事な仕事である。具体的な個別の福祉サービス(朝霞市でいえば保育園)を行政が提供しているのは、運営者が誰かという副次的な問題でしかない。公営の福祉があることを理由に市民を権利侵害から守る責任からほおかむりすることはどうかと思う。そういう責任放棄の論理立てするなら、かえって公立保育所の民営化をせよ、という声は高まっていくだろう。これはコスト負担の問題でしかないから。
福祉オンブズマンのような、収益が期待できないけども、公的な価値が高い仕事(他には消防署や警察、裁判所などもそうだ)こそ行政が運営していなかければ行政の存在意義が疑われるのではないか。こんな収益のあがらないことを民間にやらせようというのなら、タリバンに支配されたアフガニスタンと同じ論理である。

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1/26 住民合意と行政権の独立→暴走

昨日のブログの議会の記事に関して、自分自身の振り返りから。

質問の場としての議会だから生産的な議論ができない、行政の追認機関になってしまっている、というような問題提起を紹介したが、実は、これは行政部局が行う、各種の審議会、委員会でも同じことが言えていて、行政が原案を説明した後、委員が質問を繰り返し、行政をうならせたり、案を修正させると仕事をした気になっていたりする。えてして、行政追及型の委員と、行政をヨイショするだけの委員が、行政に自分の意見が正しいと言わせるだけの対抗関係しかない。

しかし、本来は会議の場なのだから、委員どうしが自ら考えて、文章化して、提案するぐらいやらないと市民参加ではない。また、行政が提案したとしても、委員どうしで議論して委員の自治能力として結論をもってこないと、市民参加なんかやっても行政の意のままである。
私も朝霞市の地域福祉計画の策定でもそれを心して関わった。行政にいちゃもんをつけるだけの参加では面白くない。そういう時間があったら、作ること、決定することにそもそも市民参加をやっていく時間に使いたかった。2年間は委員長もそういう方針で、行政に意見を引き出すような発言は「われわれがどう考えるべきか、そういう立場で意見を発表してください」とよく軌道修正していた。
行政にいちゃもんをつけている範囲では、行政権の不可侵性に何の挑戦もしていないのだ。施策の決定権を市民に取り戻すためには、市民どうしで話し合い、合意や落としどころを醸成していく討論が重要なのだ。

地域福祉計画の原案を作った策定市民委員会では、公募市民による委員どうしの議論、調査活動をとても重視して、活発に行われたことがよかったし、実際に原案作成から手法の開発まで市民が市役所やコンサルと調整しながら主体的にやってきた。
上位の意志決定をする策定委員会では、行政に答弁を任せきりにせず、私を含めて3人の、原案を作成した市民委員会と重複する委員が、明らかに行政が説明すべき事柄以外は、スケープゴートになる覚悟で、有力者からなる委員たちからの質問から批判まで引き受けた。実際、特定の委員からスケープゴートにされたけど、市民自治という観点からは、行政だけが批判の矢面に立つことは良くないわけで、進歩もなく毎度私を目の敵にしてきたその委員にはいろいろ思うところはあるが、スケープゴートになったこと自体はまぁいいかと思っている。

●群馬県伊勢崎市が、市町村合併のアメとして発行を認められる合併特例債を財源に大観覧車を作ろうとしていたことが報じられている。市町村合併の本質が見えてくるような話だ。

合併特例債とは、市町村合併をした自治体に、合併で必要な施設を作るための費用を借金できる仕組みで、その70%分の元金と利息の返済を不交付団体以外は地方交付税で国が面倒見る、というもの。財政の効率化という目的のためにばらまきが行われたのだ。

総務省は、新市役所とか、旧市町村境を超える道路が少ない地域の道路造りとか、さも必要最低限のものしか認めないようなことを言ってきたが、実は伊勢崎市のように街のシンボルだかなんだか理由をつけて観覧車を作るような自治体もあったわけだ(公共事業にたかりたがる人間たちとそれを煽る建築家は空虚な思想を騙り●●のシンボルという言葉で無駄をカモフラージュするのが大好きだ)。今頃になって総務省が事実上の疑義を示しているが、そもそも市町村合併の計画段階で、県庁や総務省に、特例債による事業計画として打診されているはずだ。総務省は今頃住民が騒ぎ出したからと、疑義を示しているにすぎないのではないかと思う。

財政が悪い、高齢化社会に耐えられないと、市の様々な事業を民営化したり、リストラしたり、生活保護を出し渋ったりしている一方で、みんながほしがっているからと、観覧車のような「民でできる」事業に市役所がお金を散財するということがほんとうに理解できない。公園、スポーツセンター、温泉・・・、娯楽でしかなくて本来は民で事業化すべきことを、市民、議員、工事業者、運営受託予定事業者などがコンサルタント会社を使って、ワークショップなんかの手法で「他人の意見を否定しない」などのルールを押しつけられ、よってたかって、あったらいい、夢のある施設、と話を持ち上げて、税金を使うことを合意させられる。夕張じゃないけどえてしてそんないい加減な構想で作られた娯楽施設など運営がうまくいかなくて、赤字になって、外郭団体などへ借金の飛ばしや、不正な会計操作でまちの財政にもっと大きな穴をあけていく。そうした施設を作って、儲けているのは誰だったか、よく考えるべきだろう。

伊勢崎市民の名誉のために付け加えておくと、建設反対を訴える署名には、2万人もの市民が署名をしたようだ。賢明な判断だと思う。朝霞市なんか、老朽化した温泉を廃止する合意すらつくれなくて、休止といって誤魔化している。伊勢崎の観覧車建設は、みんなが欲しい施設、という前提そのものが崩れていて、何の公共性もない事業であることがほとんどはっきりして決着がついたのではないか。

●なかなかわかってもらえないが、すべての職場に労組があるべきだ、という理念を持つ労働組合の職員にも当然労働組合がある。その組合のレクレーション事業について、隣席の担当者が昼休み悩んでいた。要望として高かったのがディズニーランドだという。うーむ。レクレーションには違いないけど、ディズニーランドを組合で行く意味があるのかなぁ。消費と相互扶助と生産と切り分けたときに、組合行事ってどこに入るのかな。ディズニーランドって、与えられたものを買うだけじゃん、と思う。それなら私的にやった方がいいんじゃないかな。浦安市と夕張市の成人式の対比のように、好き嫌いも結構分かれるし。

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2007.01.26

1/26 敵味方の峻別

家の向かいの古いケーキ屋さん、埼玉一古いパティシエのおじさんがやっている。オーソドックスなおいしいケーキが食べられる。買いに行くといつも奥の調理場で楽しそうに仕事をしていている。とってもうらやましい。

●長くほったらかしにしていた飯島勲「小泉官邸秘録」を読み始める。ハンセン氏病の和解という政治決断など、ボトムアップの組織にトップダウンの手法を持ち込むときのスタッフの作り方は勉強になる。また、小泉政権の影の部分を全然見せない話の持っていきかたがうまい。ハンセン氏病の控訴断念と和解以外は、私にとっては鬱陶しい5年間だったはずだが、この本を読むと、えらく小泉時代が良かったように見えてくる。それくらい今の政権が良くないのだろう。まあそれでも、やっぱりハンセン氏病への控訴断念と和解の政治決断が象徴しているが、障害者や女子どもを政治が差別取り扱いしてはならない、ということに関しては、確かに小泉氏ほどきちんとしていた人はいなかったと思う。

厚生労働省から官邸に呼び込まれ、この本の中によく登場する参事官の香取照幸さんは、私が今の労組に入ったばかりの98年の6月頃、未来の幹部を養成する連続講座の講師に来ていただいた。
香取さんは当時は厚生省の介護保険関係の担当の課長補佐だったと思う。私の勤める労働組合で当時福祉政策を担当していた役員や先輩職員が、香取さんたちと介護保険制度の導入に向けて精一杯仕事していた。
講演では、確か介護保険制度が先鞭をつける社会福祉基礎構造改革の進路みたいなことを話していただいたように記憶している。村山政権を政策シンクタンクのように支え、その後の民主党の結成に大きく関わるという政治の流れの中で、私たちの労組も、人権の観点から、保護してやる介護から、権利としての介護に一気に舵を切った。当時のわれらが労組は、社会福祉の改革の旗手として輝いていたし、そんな中に私が転職し飛び込んでいった。時代は時代である。

●角田義一参議院副議長が副議長を辞任と。仕方がないだろう。
一方で、民主党群馬県連では、主導権争いから金銭スキャンダルによる理念無き内部抗争に明け暮れてきたというし、今回の角田氏の問題もその中で表沙汰になったようだ。不正は身内であっても糾すべきだが、どうもまた群馬の保守二大政党を志向する「若手議員」予備軍が利敵行為をしたのではないかという疑念がわく。2ちゃんねるでもずっと上位にこの話題がランクされるようにしつこくしつこく書き込みが続いていた。いやな感じがしていた。
「若手議員」は少しでも左よりな意見を言うとしきりに民主党が旧社会党のようになる、と批判するが、旧社会党が沈没した理由は、イデオロギーの面の問題もあるが、党内の敵を倒すために自民党やマスコミと結びついて利敵行為を行ってきた身内の弊害が大きい。「若手議員」のこうしたスキャンダル暴き依存体質こそが社会党の失敗の轍を踏んでいると思う。

●社民党が東京選挙区に候補擁立。野党系が乱立気味で結果が心配である。たぶん社民は当選しない。民主左派や川田龍平の足を引っ張るだけになると思う。そうなれば東京の社民党の政治的位置は完全に孤立するだろう。何のメリットもない判断である。川田龍平に乗っかって、むしろ彼と思いを共有する社民党という絵が描けなかったのだろうか。社民党の独自候補擁立で、公明、自民、民主右、共産は指定席になったと思う。あと一議席を、民主左、革新系無所属、社民という似たものどうしで足を引っ張ることになる。助かったのは共産党。自民がもう一人出しても当選できる可能性も出てきた。そうなれば、公・自・民主右・自・共産という結果になるのではないか。

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2007.01.25

1/25 下品な議員になりたくない人のガイドブック

労働規制をどうするかという特集では、東洋経済の方が話題になったが、東洋経済はエキセントリックな主張を掲載しているだけ。背景事情などきちんと伝えているのは、「エコノミスト」の方だと思う。

自治研1月号「民主主義の原点 議会改革」がおもしろい。内容もタイミングもいい。この春議会を目指す人たちで下品になりたくない人にはぜひ読んだ方がいい。
最初の佐藤竺さんと小原隆治さんの対談では、市長が公選制であることに意味があるのか、地方議会にも比例代表制を入れてみたらどうか、専決処分の乱用状態への疑義などが提言されている。諸外国の地方議会制度と比較しているのもいい。基本的な理念のところからステロタイプな議会観、議員観をまっさらにできる論文だ。
広瀬克哉さんの「民主主義の舞台としての議会」は、行政に質問するばかりで、存在がいちゃもん屋の集まりみたいになっている議会の復権のためはに、討論の場としての議会の再生を考えるべきだと訴える。行政の市民参加に対抗して、さまざまな計画策定を議会がやり、そこで市民参加を進めていくということも、行政主導の「一部の市民」だけの市民参加に対抗するやり方にならないか、という提言は参考になる。
金井利之さんの「自治体議会改革の視点」での議員・議会についての社会的な存在感についての説明がなかなか笑える(文末に転写したので、時間があったらどうぞ)。“質の悪い労働組合”という言い方が正鵠を得ている。もちろんそうでない人もいっぱい知っているが、その人たちの同僚は右も左もやはりそんな感じで苦労している。そうした職業的慣習を克服するために制度理念を確立していくことの必要性を説く。
北大の神原勝さんの栗山町の自治基本条例の紹介は、なかなかいい。町議会の定着を進めてきた一つのまとめとして自治条例がある。栗山町議会が地域社会に存在感がある様子が伝わってくる。
香川県議の梶さん(社民党)が、耐震化推進条例を議員立法した経験から、議会の改革も試みた経験を書いている。過去に香川県議会の不公平な議会慣習によって議論が封じられた経験から、議会活動と住民との結合の必要性を訴えている。質問時間の運用も与党(自民党)に甘く、野党(民主、社民、共産)にはひどく厳しい香川県議会の実情と改革の必要性を書いている。余計なことだが、社民党もある程度の多数派を形成できる力のあるところはマンネリにならないんだなぁと思う。

議会改革というと定数削減と議員報酬削減ばかりが話題になって、ここには最近、革新系無所属議員まで尻馬に乗っかっている。昨日、幸手市では、定数を25から15に減らす住民請求が行革好きな退職住民から出て、違和感を持ちながらも、抵抗勢力扱いされるのをおそれる保守系4会派の議員の賛成で請求は通ってしまった。
自治体議会の今のような存在感では、そんな程度の改革を繰り返しても構わないけど、議会って何のためにあるのか、議員ってどんな役割があるのか、ということがきちんと定まらずに、議会自身が、野党会派への牽制としての定数と報酬の切り売りばかりやっていると、いつかは消費者迎合のディスカウントを続けてボロボロになったマクドナルドみたいになると思う。
議論の場、討論の場(質問の場ではない)として、議会を再生させ、市民合意をつくる場としての機能をどうやったら作られるのか、試されていると思う。議会が機能不全だから官製タウンミーティングが必要なんだとも思う。
議会と市民との関係については、機能不全の議員と先鋭的な市民が牽制しあう関係を克服しないと、これからの市民社会に議会は不要論ばかり大きくなっていくと思う。そこに“質の悪い労働組合”的な抵抗を試みても市民からますます浮き上がる一方だと思う。
何人かが指摘していたが、役所がつくる計画策定の市民委員会など、議会の下におくというのは、討論の府としての機能再生に有効じゃないかと思う。市民参加の時代に議会が取り残されないためにやってみる価値ありではないか。そこまでいかなくても、議会の各会派が市民シンクタンクを作ることは重要じゃないかと思う。

和光市議の松本さんのブログから。乳幼児医療費無料化を実施している自治体に出している県の補助を、不交付団体の分はカットする、と県知事が表明したことに怒っている。
私自身は、すべての人に対する乳幼児医療費無料化は、小児科医療をパンクさせる危険性があると思って、そもそもの制度には反対する。
しかし、県は埼玉高速鉄道の延伸、八ツ場(やんば)ダムの建設など、将来的にお荷物になる危険性のある事業を推進しておきながら、財政が不足しているからと、一番声を挙げにくい、ベッドタウンの子育て世代をねらい打ちにした補助金カットをやるのは、政治感覚として問題だし、この問題の延長には、政治的発言力がない人が利用している保育所や介護保険への財政カットが想定できる。
不交付団体である和光市も朝霞市も、民主党公認・推薦を名乗っている知事与党の「地方主権の会」の県議候補がいて、4月の選挙を控えている。彼らがこのことについてどう動くのか、有権者はきちんと動向を監視して、投票行動に結びつけるべきだ。

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1/24 朝霞市内・マイカー通勤を2割減を実現

●埼玉県が朝霞市を実験地域にして実施している「モビリティーマネジネント」によって、市内の事業所の協力でマイカー通勤者を公共交通にシフトしてもらう働きかけが行われてきたが、結果として対象事業所にマイカー通勤するうちの2割を減らすことに成功したという。今後は一般市民に働きかけを行っていくということで、マイカー乱用気味のこの地域の交通のあり方を少し変えることができることを期待したい。

カギはバスの強化だと思う。バス停2~3カ所程度の乗車の運賃を下げること、本数の確保(1時間に3~4本の訂間隔運行)、バス停の間隔を短くすること(国際興業はできている。意外と長いのがコミュニティーバス)など。朝霞市のコミュニティーバスは大改革の余地がありそうだ。バスの台数の割に本数が少なく(わくわくドーム前の車庫には複数台のバスがいつも休憩している)、福祉用施設送迎バスの域を出ない。東上線が急行準急だけで1時間に8本も運行して池袋に人を運んでいるのに、市内の移動が2時間に1本しかバスが来ないというのはどうか。採算とバス会社への委託費の関係が不明確で、三社(西武・東武・国際興業)に委託で委託費がたかられていないという検証がしようがない。コスト感覚も経営感覚もめちゃくちゃになっているとしか思えない感じがする。路線が重複して本数が集中する朝霞台駅とわくわくドームの間では、5分間隔で来る時間帯もあれば1時間以上も来ない時間もあったりして、チューニング不足気味のダイヤである。市役所が運行計画にまで手を突っ込んで管理しているとは思えないようなダイヤでもある。

以前、地域福祉計画でタクシー会社にヒアリングに行って、コミュニティーバスについてぼやかれたことがある。市が1億もバスの赤字を埋めるなら、思い切ってタクシー券を配れ、と。確かにコミュニティーバスは民業の圧迫で、市内のタクシー会社には客を奪われる迷惑事業かも知れない。私はコミュニティーバスを必要だと思うが、それだけにタクシー会社に迷惑かけて余りあるような効果がある運営をしないとまずいのではないか。効果も見えない無駄を放置してよいというのはコミュニティーバスが政治路線であることの証左にしかならない。(余談だが、市内タクシー事業者が交通弱者をほんとうに味方につけたいのなら、車内がたばこ臭いことなど、改善の余地があると思う。ぜんそく気味の家族は危なくて市内のタクシー会社は利用できないでいる)。

私の中でコミュニティーバスの改善として指摘できそうなことは、①膝折・溝沼線の路線が複雑かつ長大でわかりにくいし本数の減少原因になっているのではないか。本町地区内と、栄町地域と、溝沼地域と客層が重なるとは思えず、路線を切ってその分多頻度の運転ができるのではないか。第三中学前の公共施設を経由するようにすべきではないか。②バス停の間隔が長すぎるので縮める。③住宅が建て込んでる割に交通不便地域が多い宮戸線を大胆に増発すれば利用客が見込めるのではないか。④東洋大学、市立図書館、中央公民館、市民会館、溝沼保育園などの公共施設にバス路線がない。⑤一般バス路線も含めて、市役所に乗り入れるバスが少ない。根岸台地区から市役所への交通手段がない。⑥路線別に委託バス会社を1社に絞り、採算と委託費の関係を明確にすべきではないか。
バス利用者の極めて少ない地域は、無理して大赤字のバスを運行するより、思い切って地域住民にタクシー券を配ってもいいのではないかと思う。

●連日、有楽町線が止まっている。ダイヤが乱れたときに東上線との直通運転を切るのはやめてほしい。直通電車が和光市以北の各駅停車の本数を補っているから、直通運転をうち切ると、急行通過駅は日中で15分、夕方ラッシュ時間で12分も電車が来ないことになる。また建設目的に東上線の複々線として、迂回路としての意味もあったはずで、この地域を陸の孤島にしない意味でも、トラブル発生時に安易に有楽町線の直通電車の運転を切る選択をするのはやめてほしい。
昨日は有楽町線が全線運休していた。いくつかの駅に折り返し線があるのだから、それを活用して部分的に運転できないものだろうか。平和台、氷川台あたりの人たちは帰宅難民になるのではないだろうか。

●朝霞市の保育園の紹介ページ(といっても、保育園名と住所と電話番号が書いてあるだけだが)に以前は保育所の作成したホームページのリンクが貼ってあったが、いつの間にか削除されている。保育所の入所決定は、利用契約方式と措置制度の中間的な制度になって、一方的に市役所が入所園を決定するのではなく、ある程度保護者の選択権を尊重することになっている。保育園選びの情報があまりにもない中で、独自にホームページを持って紹介している保育園の情報をあえて紹介しないのは何か変だと思って、市役所にメールして問い合わせる。

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1/24 活動的な高齢者に犠牲にされる埼玉県財政

埼玉拘束鉄道の延伸について、既成事実のデータの積み上げがどんどん行われている。「検討委員会」が開かれ、岩槻駅の位置、急行運転のための技術的問題、需要予測の再計算がテーマだったよう。

こうした県民の手の届きにくい場所で、勝手に「合意」が積み上げられ、建設しないという判断ができないようになっている。需要予測や「経済効果」などという根拠薄弱な数字が一人歩きして、埼玉高速鉄道など、不必要だという人の肩にも県民負担としてのしかかってくる。

経済効果として、財政を支援した埼玉県に何かいいことあるかというとそんなことはない。市街化調整区域が駅前に化けて儲ける地主たちのための経済効果だ。

そういう現実をカモフラージュして、子どもがおもちゃをほしがるような手口だが、このツケは、買っても遊んでもいない子どもたちの手に残る。埼玉新聞は「委員からは「活動的な高齢者が増えることを念頭にした需要予測を」との注文も出たという」と伝えてるが、まさに物取りのような活動的な高齢者のおかげで、そのしわ寄せは子どもの将来不安や、活動的になることができない高齢者や障害者が犠牲になる。

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2007.01.24

1/23 他人に厳しく自分に甘く

最近、なんだかとっても勉強したくなる。佐藤優効果か。

●菅儀偉総務相が、次から次に放送局への介入を試みていて、気分が悪い。「あるある大事典」で嘘報道することだって、NHKの受信料の水準だって、監督官庁としてやることはあるのかも知れないが、圧力かけすぎて言論の自由が萎縮することにもう少し配慮があっていい。たぶん、参議院選挙へ向けて安倍晋三をもり立てるよう、あるいは少なくとも安倍晋三の評判が下がらないよう、にらみを利かせるためにやる牽制だろう。しかし、まぁ、自分の立身出世と親分のためなら、民主主義社会の知性みたいなものをかなぐり捨てている菅総務相を見ていると、ほんとうに気持ちが悪くなる。野中広務みたいなすごみもないのに。

●何かの調べ物をしていたらついでにでてきたのが、地方議会での懲罰をリスト化したHP。大半の議員が実につまらないことで懲罰にひっかけられている。地方議会って言論の自由がかなり制限されるところのようだ。少数派がちょっとでもオーバーランした発言をしたりヤジを飛ばしてもすぐ戒告などはざらで、出席停止処分を食らうこともある。しかし多数派にはどんなにとんでもないことしても懲罰は否決されている。
驚くのは愛知県・日進市の共産党が自然保護派の議員に出した懲罰動議。再開発地区に共産党の要望していた施設が建てられることになったが、そもそも再開発自体を否定している自然保護派の議員が、議会質問でルソーの言葉を引用して、共産党まで不和雷同して再開発を推進して自然保護を訴える市民の声を無視する状況について、議会制民主主義が選挙のない間は民主主義が機能しないのか、と批判した。それに対して何を問題に思ったのか懲罰動議を出した共産党議員は「民主主義社会を否定するもの」「この議員の懲罰動議に賛成しないのは民主主義に反対する人」などと発言している。市民参画で自治体計画を作っているこの時代に、びっくりするようなやり方だし理屈。良心的な共産党の人も知っているだけに、こういう「社会主義の敵」理論をふりかざす人が、スターリン批判から50年もたった今の時代にまだにいることにびっくり。

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2007.01.22

1/22 大学生のヒアリングを受ける

夕方、育児休業制度について研究している学生から、ヒアリング調査をしたいというのでヒアリングを受ける。
研究の趣旨は、どのような制度を開発していくことが、育児と仕事の両立に有効かということで、実際に育児休業を取得した人の話を聞きたいということだった。
ふだん、人間の内面の自由に踏み込むことになる意識改革を忌み嫌う私だが、正社員に限定して言えば、こればかりは制度も相当整ってきたし、使えない、使わせない、それぞれの現場にいる人の意識の問題になってきているんじゃないかと答えた。
また、職場のインフォーマルコミュニケーションの多くが、サービス残業中の時間だったり、飲み会だったりして、社内の空気が醸成されていくことから、そういうものによりかかっている職場風土を変えないと、私用のために早帰りしたり、休んだりということを恒常的にやることが難しいといわざるを得ない。
しかし、そういうインフォーマルコミュニケーションのあり方を否定すると、職場が民主的じゃないという批判になって返ってくるわけで、そうなると、小室直樹などの日本の職場は、機能集団ではなく共同体なんだという問題意識につながってくる。
この問題が解決しないとホワイトカラーエグゼンプションがめちゃくちゃな運用になっていくことは想像に難くない。

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2007.01.21

1/21 バトルをしてみんなが育つ保育園

午前中、上尾市の保育所の保護者会杉の子連合会が主催した、大阪・熊取町のアトム共同保育所の園長さんである市原悟子さんの講演を聞きに行く。この保育所はNHKスペシャルでも取り上げられて話題になった園。陰口をいったり、コミュニケーション不全の保育園を20年かけて変えていったこと、親とバトルしながら信頼関係をつくっていったこと、そしてみんなが育つ保育所を作っていったこと、など。
「シンプルなんです。やりたい、やりたくない、それだけ。でもやりたくない人が周りの人に、やらんとき、というのは間違いで、子どもたちに自分で考えさせていくことが大事」そのためにどうしたらいいかを考えているだけで今の保育園になっていった、という。
保育だけじゃなくても、仕事も気持ちいい関係でやるには、そうだよな、なんて思って聴く。腹芸はできるだけやめた方がいい。

午後、あわてて片づけ、掃除やって、ロシアの日本語学校から戻ってきた友人を囲んで、社会主義談義。正教会のカレンダーをおみやげにいただいて、うれしい。昨日、NHK世界遺産でコンスタンチノープルが特集していたが、もともと東ローマ帝国の総本山であるソフィア大聖堂をイスラムの最高芸術みたいなことを言って紹介したり、東ローマ帝国をビザンチン帝国と言うので、良心的な番組ではあったが、その無知ぶりにぷんぷん怒っていた翌日なので、うれしい。
社会主義談義では、組織論やら理念の必要性やら、社会党が自滅したターニングポイントだとか話した。
北朝鮮の核問題を誤魔化すなど、価値を相対化(アメリカの核配備と対比)して自分たちの主張(絶対的平和主義)を貫徹しない社民党のずるさを議論する。旧社会党は非現実的と言われる政策を掲げていたけど、一方でギロリとした国際情勢の情報もふまえていたようだ(小川和久が証言している)。しかし、今はどうなんだろうか。
政局論でしか動かない今の民主は便利だけども、世の中が動くと後追いでしか反応しないわけで、きちんとした視軸をもった政党が必要だとも議論する。視軸だ理念だとなるとえてして愛国心談義になりがちだからまずいと思う。

晩ご飯に近所のとんかつ店「かつ利」に行く。味に厳しい友人が喜んでいる。

●宮崎県知事選挙にそのまんま東氏が当選。「しがらみのない」「セールスマンになって」というメッセージが評価されたようだけど、そういう知事を選んだ県民の体験として、そういうのってどうかなぁ、と思う。うちではしがらみのない知事が、しがらみだらけの八ツ場ダムを推進しちゃった。で、水道代があがるのは時間の問題。しがらみがないよりも、少しだけあるしがらみをはっきり示してくれる人の方が安心だ。
セールスマンって言うけど、売り歩く前に住んでいる人への満足度でしょう、と思う。地域ブランド、セールスマン、そういう感覚は大事だけど、それが自己目的化していくと、何か大事なものを見落とすことになりはしないかと思う。
それと、10年以上も前に東京や大阪で起きた現象が起きているわけで、政治改革が10年遅れでやってきている、という感じがしている。

●納豆が店頭から撤去されているという。納豆屋が期限切れの納豆でも売ったというのだろうか。インタビューに答える「一般市民」が怒っているが、ダイエットという、本来は科学的にやらなくてはならないことを、こうすればこうなるというテレビの情報を鵜呑みにしてやっていることが問題だ。今回のことはともかく、他でもハウツー健康法やハウツーダイエット法でいい加減な情報を相当に流している。

●地下鉄談合が問題化している。大多数の政令指定都市でも本来はバスの増便や、路面電車、(地価が安いから)地上の電車の方がペイするのに、不釣り合いな地下鉄建設を進めて、東京、大阪以外のどの都市も運賃全額利息に持って行かれるような経営状態になっている。それなのに、建設が止まらない。一回、その都市に地下鉄屋が棲みつくと、いつまでもそこの自治体の交通局を政治家とともに食い物にしてなかなか出ていってくれない。住民や沿線町内会をたきつけて、政治路線として地下鉄建設が永遠に続けられる。でも地下鉄はバスより本数も少なくなるし、階段だらけになって使いにくいので、結局、公共交通利用者は全体で減っていく。

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1/20 地図があらわすアメリカ社会化

午前中、管理組合理事会。来客用駐車場に常駐していたクルマに注意ステッカーを掲示した翌日に灯油をまかれる事件があり、その善後策を話し合う。
午後は、管理組合支援のNPOの会議。2011地デジ化と東京タワー移転によって、マンションがひきおこす電波障害範囲が変わるが、そのことのコスト負担を危惧して対策に取り組んでいる理事から国との交渉の報告があった。
マンションの影で電波障害を受けている周辺住戸への対策はマンション管理組合が行わなければならない。通常は建設時にデベロッパーで対応がすませてあるが、この変更のために、新たに受信障害になる住宅への対策や、従来の受信障害対策設備の撤去費用など、管理組合が7桁のコスト負担をしていかなくてはならくなる可能性が高い。
このことに対して国が全く影響調査もやっていなければ、コスト負担のあり方について検討してこなかったことが判明。国会は社民党も含めてノーチェックで法案が通っている。これまで電波障害対策については原因者負担という考えでコスト負担を整理してきたが、今回の場合は原因どうなるのか、また地デジ化による受益者は誰かということが今後の論点になるようだ。
余談だが、政党へのアナウンスを行ったようだが、こうした対応では肝心要の与党J党で対応に出た議員(大阪で旧社会党から移籍したらしい)は「マンションなんてお金持っているんだから自分たちでやったらどうですか」と返したらしい。最近、改革イメージで粉飾しているJ党も、こういうところで都会人の味方ではないと馬脚を表すのかもしれない。マンションに住むJ党支持者の離反を招かないためには、この担当を外した方がいいと思う。
地デジ化の動機は、①テレビ受像器や受信設備の買い換え需要の喚起(電機業界の金儲け)、②NHKの受信料管理の厳密化(受像器の所有者を全部管理できる)、③開いたアナログ波の電波の転用(ドコモやauに対抗する携帯電話業者が電波枠をよこせと騒いでいる一件と関係ありか?)のようだ。
テレビ業界は、女子アナ使ってふざけた啓発CM流しているが、消費者はいい迷惑だ。テレビを見ないという選択肢が一番いいのだろうけど、万難排して見たいと思うような番組に限ってNHKが流していたりして、悩ましい。

●テレビ番組「あるある大事典」の番組ねつ造が大騒ぎになっているが、テレビで芸能人の口から流される科学情報をまともに信じる方がバカじゃないかと思う。テレビの流す情報は視聴率と広告代理店経由でのスポンサーの介入で成り立っている。普通はコストか労力かけて集めるべき情報が、ブラウン管からタダで流れてくるのだから、PR会社の仕込んだ調子のいい情報が流れがちだということは覚悟すべきだ。どうしても正しい情報をくれというなら、対価を払って情報を手に入れるべきだろう(対価を払っている新聞や雑誌だって、大きなお金で情報が変わることがあるぐらいだから)。
それで健康障害があるならともかく、今回は納豆食べるとダイエットだっけ、納豆が体に悪いことなんかない(納豆菌そのものは猛毒らしい)し、ダイエットはできなくても花粉症対策はじめ免疫系のトラブルには効果があるんだから、裏切っただのとかまびすしく文句いうなって、思う。

●あす行こうと思っているイベントの会場について調べていたら、サイタマ県がアメリカ型のクルマ社会に移行していることをつくづく思い知る。
日本の案内地図にはたいてい駅が入る、と中学校のときに講談社プルーバックスで読んだことがある。会場の地図を探していたら、主催団体以外のものでは駅のない地図しかない。駅から徒歩15分らしい。季節が良ければ歩くけども、とても寒そうなのでバスの時間を調べようと思ったら、どこにもバス路線は書いていないし、どの地図上にもバス停も書いてない。この施設を利用したい人はマイカーで来てくださいということかな。何とかバス会社のHPを探したけれども、東武バスの分社化でこの地域のバス路線は粉々になってサードパーティーのバス会社ばかりだから、バス時刻表のHPが整備されていない。始発のバス停の時間は出ていたので、何とかそれで予定を組めるかな。ここまで苦労してバスを使う人って、私のようにマイカーを拒絶している人しかいないだろうなぁ。

●古い話になるが、今年の歌会始の御製は「務め終へ歩み速めて帰るみち月の光は白く照らせり」。労働歌のようで天智天皇の百人一首のうたを思い出す。それと、苦難にみまわれる給与所得者をうまく描いたんじゃないかと思うのだが、子の命名に因果があるように感じるうたでもある。

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2007.01.20

1/19 長い会議に充実感を見いだす感覚

●ホワイトカラーエグゼンプションの推進派の中に、残業代という制度が長時間でも働く意欲をある人から働いて自分が成長する自由を奪っているのは問題だ、という意見が目立つ。
実際に、私の職場も活動家的なみなし残業制度から実質残業制度に移行して、窮屈な思いをしたことがあるので、一瞬は、そうかもなと思わせるものがある。
しかし、ほんとうにそれでよいのだろうか。経済活動にしか時間を使わない人があまりにも多いおかげで、社会はいろいろなしわ寄せを受けている。目と鼻の先の経済活動では確かに仕事をばりばりやって成長していくことに大きな意味があると思うが、家庭責任、地域責任を負ってこなかったサラリーマンが、退職後地域や家庭で使い物にならない、とあちこちで言われるのの裏返しに、自立して生きていくためにはある程度、仕事以外のこともやっておく必要があるし、その時間も必要だと思う。
さらにはサラリーマン階層が、専業主婦や学生や自営業の人たちに比べて、社会負担の収奪の対象になっているのも、仕事にばかり時間を割かれて、割いて、社会や地域や家庭にものを言ってこなかったからではないか。
奉仕の精神で、長時間せっせと働いている本人は精神的な高揚感が得られるのかもしれないが、そういう納得の仕方は、会議が長ければ長いほどいい、という感覚ではないか。
その人が長時間働くことで、いろいろな人が巻き添えになる。その人の仕事をサポートする関連業者や下請け業者はブルーカラー的な存在だが、彼らもホワイトカラーが時間に気にせず働かれたら、帰宅後も気が抜けなくなる。
本人の生活を支える人たちも大変だ。コンビニエンスストアや深夜のバスや電車を増発しなくてはならない(個人的には歓迎だが)ことで、その社会コストはいったい誰が負担することになっているのだろうか。
働きたいから働かせるというのはいいけども、度が過ぎると、仕事が個人的趣味になってしまう。中央官庁では、政策を企画した官僚が死ぬまで政策変更ができない、と言われ、相当な腕力がない限り、事業計画が始まって40年も50年も経たないと事業見直しができなかったりする。個人のライフワークとして仕事を置く考え方もほどほどにしないと、その人の熱意のおかげで社会が大迷惑することもある、ということも考えておかなくてはならない。
ドイツや北欧は厳しい労働時間規制をくぐって、企業や社会の競争力がついてきた。教育改革で躾や美徳といった文化人の趣味談義にうつつをぬかしている日本と違って、国民の知的能力を高める努力も社会が払ってきた。
残念なことに日本は、すでに残業代踏み倒しはすでに違法なかたちで常態化していて、人材は延長料金なしだと思っている企業が多いから、能力開発や効率の追求はおろそかになる。残業代制度が機能していれば、2000年前後の激しいリストラは、若年者の労働強化だけに著しいしわ寄せが来ることも避けられていたかもしれない。

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1/19 市の障害者プランに意見を提出

朝霞市の障害者プラン案がまとめられ、今日までパブリックコメントの意見募集を行っていたので、意見を書いて提出した。
【提出した意見】
朝霞市障害者プラン・障害者計画案への意見(pdfファイル)」をダウンロード
【計画案】
1.朝霞市障害者プラン案
2.朝霞市障害者計画案

個別障害者施策については、私も追っかけきれないことが多いし、おそらく当事者や当事者団体が意見していると思うので、そこには言及せず、バリアフリー、ノーマライゼーション、社会福祉基礎構造改革の観点から計画を検証して、意見をとりまとめた。

こうした理念の基本をねじ曲げて、措置制度時代の残骸のようなしてあげる福祉からの観点が目につくし、安易に想像力も働かせず、美しい言葉に飛びついているのではないか、と思うようなことも見られる。

その中でも障害者の自立という言葉があちこちに使われているが、行政責任や地域責任から障害者を自己責任に放り出すことなのか、それとも自己決定、自己選択できる力づけを行う自立なのか、定義が定かではない。言葉の定義で言い争うことはあまり好きではないが、同じ障害者の自立でも、全然違うとらえ方ができるのだから、めざすべき障害者の自立像を明確にしていかないと具体策が散漫になってしまう。

また、上位計画であり、福祉の総合計画的な意味を持つ地域福祉計画の提言があまり生かされていないように思う。民間企業も福祉やバリアフリーに取り組んでもらうことは想定していないし、権利擁護は、福祉相談なんかと一緒になって、当事者が不安を持つこと自体が問題かのように書いている。ソーシャルワーカーなどの総合的な相談ができる専門職について、全く書かれず、相変わらず「連携」と今やっている各セクションの努力で問題解決できると思っている。

●大阪・八尾で、作業所で働く障害者が子どもをデッキから放り投げた事件で、知的障害者への偏見が広がらないか心配になる。彼らは、意志疎通がうまくいかないため、防犯活動でマークされやすいことも心配である。また「子どもが死んでもいいと思った」と供述した(なぜ供述内容がマスコミに漏洩するのか)と報じられているが、それは刑事事件を立件するときに、故意による殺人未遂(殺そうとして死ななかった)なのか、傷害事件の延長としての未必の故意(殺そうと思ってはいないがその犯罪行為で人が死ぬ可能性があることを認識している)なのか、判別するための供述取りだと思うが、知的障害者であることを考えると、そのまま解釈してよいかどうか、もう一度立ち止まらなくてはならない。犯罪被害者の立場では、障害者だから甘やかすなという声が聞こえてきそうだ。もちろんそれなりの刑事罰を受けるべきだが、その感情に流されて、加害者が何の気無しに断片的に言った供述をことさら悪質に捉えるだけでは、知的障害者がひきおこす事件の本質が見えなくなってしまう。再発防止という点からも加害者がどのような状態だったかを冷静に検証していく必要があると思う。

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2007.01.18

1/18 アンバランス

NHKの大河ドラマが、毎年毎年飽きもせずに戦国時代か明治維新ばっかりでつまらない。戦国大名を順番にやっていくのだろうか。NHKエンタープライズあたりが、その年の大名のいる県から、観光協賛金でももらっているんじゃないかと思ったりする。もう5年も、戦国時代と明治維新を繰り返しやられたんで、今年は見ないことにする。山梨県のみさなんごめんなさい。
歴史教育とか言うけれども、結局出てくるのは戦国時代か明治維新の臭そうな奴の武勇伝ばっかりなんだよね。うんざり。

来年の大河ドラマは日露戦争だとか。明治維新ののりの延長だけども、それでも少し嗜好が変わるかもしれない。日露戦争は確かに明治維新の理性的な部分がきちんと作動していた「まともな戦争」だったのかもしれないが、あの戦争も、その後の歴史を考えるとどうだったのかと思うことはある。日露戦争以後、日本にナショナリズムが生まれて中毒を起こすし、歴史の必然かもしれないけど右翼も出てくる。
今朝電車の中で読んだ、山内昌之「歴史と外交」では、日露戦争に勝って、その後の40年は坂から転げ落ちる歴史だったのに比べて、太平洋戦争で惨敗して以後の60年はいい時代になった、と戦争の勝敗と時代の明暗の逆転をうまく書いていた。

●教育再生会議が体罰容認論やら、土曜学校登校など、時代のねじを巻き戻すようなことばかりを思いついているようだ。トチ狂っているとしか思えない。
元暴力崇拝のヤンキー、そして左翼学校の教師に転向、そして再び逆戻りした義家が口火を切って体罰復活を切り出したら、他の委員が賛同して、見直しをするという。その体罰禁止が書かれた学校教育法は、1948年にできた法律なので、戦後の体罰教師を容認するにとどまらず、戦前・戦中レベルの体罰教員を容認するというものなのだ。
日本の学校のシステムは刑務所と同じで、やり方は収容所みたいなものだ。そこに子どもを週6日も預けたり、看守に躾を押しつけたり、そんな議論が改革の名のもとにまかり通り、そのことに異議を唱えれば、偏った人間のような言われ方をするなんて、社会の感覚は確実におかしくなっている。
私自身は私塾否定派だけども、めちゃくちゃな論理で改革される公教育なら、子どもには不登校になってもらって、私塾に通ってもらった方がいいと思うこともある。
専門家には、教育がシンプルに教育としてきちんとしている国の事例をもう一度点検してほしい。

余談だが、義家については、新座の革新系市議が講演を聞きに行って感動したとかで、ブログで擁護論を展開していたことを思いだす。古い革新系は情緒論に弱くて、義家みたいのをホンモノと勘違いするから、現実政策で対抗力がないんじゃないかと思う。今日の体罰容認論について、どう考えているのか聞いてみたいものだ。私はああいう社会派ぶって夜郎自大に更正したことを売りにするような元ヤンキーは信用しない。権力の犬でしかない。トラウマみたいな教訓だ。

●憲法改正とか、教育改革とか、イデオロギーの危機を煽ってイデオロギーの改変を目論む右よりの人々って、進歩がないなぁと思う。戦後、吉田茂にやりたい放題、社会制度を改革されたルサンチマンみたいなものを、今頃になって思い出しては全否定し、戦後の社会の爛熟による現象への対処を、憲法改正で戦前的価値を復活させたり、教育改革で道徳律ばかり押し込んだりすることしかアイディアが浮かばない。

●菅義偉総務相(元横浜市議)って、ほんとう政令市の保守系御用聞き議員の枠を出ない人だと思う。NHKの命令放送、情報通信省の創設、NHK受信料の値下げなど、理念もないのに自らの地位の権力性を振りかざしているだけでみっともない。

●日銀が利上げを見送り。そのことの是非はわからない。経済学科卒なのに情けない。
しかし、経済成長に見合う利上げをしなかった結果としてバブル経済が発生し、その後始末に塗炭の苦しみをみんなが味わった経験を振り返れば、金利を上げなかったことを喜んでいていいのかと思う。
企業が豊かで個人消費が伸びないという状況ですべきことは、利上げをしなくて(相対的に金利を下げる)も効果はどうか。クレジットカード、サラ金、銀行の個人向け融資、どれも金利の高低の影響は受けず、個人の借金にそんなに金利は影響しない。好調な企業業績でだぶだぶの投資資金が土地投機に向かっているようだし。景気の下支えがなっていないのは、労働分配率が悪いことの影響が大きいんじゃないか。安倍政権になってから、企業と個人の間のバランスが悪い政策が多いように思う。経済政策は中曽根政権のミステイクに似ていると思う。

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2007.01.17

1/17 「現場」を語る運動のミスリード

お迎えの束の間に書店に立ち寄るが、そこで発見した本を買う。

矢沢進「保育労働運動の探究」という本。出版社が萌文社だから、職場である労組と保育イデオロギーで対立してきた東京都の共産党系の公務員保育労働運動家の著書。敵の保育運動が社会情勢に対してどのような議論をしてきたのか、タテマエより踏み込んで知ることができると思い、古本にしては高かったが買った。

保育制度の議論をすると、東京に住む政府審議会の委員や、その友だちのフェミニスト資本家は、公立保育所や認可保育所の融通のきかなさをしきりに攻撃材料にして、保育の市場化(vs社会化)をどんどん進める。しかも、背後関係に労働組合が妨害しているからというような批判を重ねて、この防戦にずいぶん苦労した。労働組合が妨害していない、と証明することは、労力としてそもそも無駄だし、やっていないことを証明する証拠は、えん罪を証明するぐらい難しい。
今はだいぶよくなったが、私が保育政策に携わっている頃、地方都市の保育所が結構努力している中で、東京を中心に確かにサービスの立ち後れが目立っていたし、保育所が保護者に要求することも多く、それらが連合内部でも民間労組の女性活動家を中心に厳しく批判されてきた。

私が保育労働運動に関わって、確かに頭かちこちの現場職員もいるが、大多数の保育所の職員は職場をよりよくしたいし、子どもや保護者のために何とかしようという思いで働いている。特に、地方交付税で自治体を維持している地域の保育士たちは、自分たちの自治体の能力の限界というものもよく知っているし、保護者は地域の知り合いでもあるので、労働条件の話はそれはそれで、労働条件を盾にサービスを削るという発想はあまりなかった。だから首都圏の外の地域の方が休日保育や病後児保育の実施は進んでいる。

しかし、東京23区を中心にした同心円状に、組合の保育部会の幹部に延長保育をはじめ、土曜休日保育、病後児保育、障害児保育に後ろ向きな保育関係者の意見が根強い。お迎えの前に買い物に行ったら怒らるなど1分1秒でも余計に預けたとみなされると怒られるエピソードはよく聞く(赤ちゃんを抱えながら買い物することが子どものためなのだろうか。子どもを家に放置して買い物に行けというのだろうか)。延長保育の反対論も、子どものためと言うが、本当だろうか。そこで公立保育園や認可保育園が責任を放棄したら、ベビーホテルに流れていくだけだというのは歴史が証明していることだ。それが子どものためなのだろうか。労働条件は労働条件であって必要なら増員や予算要求をすべきであって、保育所が子どものためという言葉を楯にとって責任放棄する理屈を立てることはどうかと思ってきた。現に、地方都市ではできていることなのに。

どうして東京の保育労働運動はこんなに非現実的な主張が根強いのか、そしてそのことで、政府審議会に出入りするような人たちをはじめ、全国で最も要求水準が高い人たちがすんでいるのに、その人たちに揚げ足とられ、あちこちで喧伝されるような発言するのか、と正直不満だった。

この本は、敵側共産党系労組という場で、保育現場をミスリードした人物が自分史として書いたためよく状況がわかってきた。著者がやってきた運動は、「現場に」依拠すると言いながら、保育労働者は公務員じゃなければならないから公務員保育士しか仲間に入れないと、それこそ「階級的」な運動をしている。でもそれは間違いじゃないだろうか。労働者という観点では、公務員も民間もなく、同じ公共サービス従事者、同じ保育士だと思う。公務員であることで公的責任は負いやすいことは間違いないが、そもそも保育所というのは公的な場なのだし、私立であっても、児童福祉法で厳密に定義され公的管理されて税金を出している施設いるものなのだから、それを排除するというのはおかしな運動の建て方である。

また「土曜開庁原則論批判」で、延長保育や土日保育は保育所のコンビニ化だと断罪し、可能な限り土曜勤務はしないよう保護者に求めることが望ましいと言っており、一般労働者の生活状況を全く無視するような議論をしている。まさに「注文の多い料理店」で、結果として、今日の東京都内の公立保育所の「非効率性」への批判を挑発した議論だった。 1981年、ベビーホテルで乳児が相次いで死亡する事件を受けて、厚生省は認可保育所の最低の開所時間を、8時間から11時間にのばした。私の勤務先の労働組合に対して、過去の8時間開所の運動方針に自己批判もなく容認したと批判している。私はこの方針転換は正しかったと思う。自己批判がなぜ必要なのか全くわかない。当時の共産党ワールドの流儀に従えといっているだけである。

興味深かったのは、こうした豊かな東京の独特の保育運動が、どうも共産党の世界でも全国的な広がりを持ち得なかったことで、それは私の問題意識の表裏で重なりあう。著者の加入していた共産党系の自治労連の保育政策の方針が、延長保育容認や土曜開所容認論であることを批判し、容認論の自治労連保育部会長と公開質問状でやりとりしている。
共産党は、私の職場の組合である旧社会党系よりも保育問題ではずっと深く地域に入り込んでいる(旧社会党はこうしたことに深入りできなかったことを反省すべきだと思うし、今現在も保育問題で民主党は入れ込めないどころか浮き上がっている状況)。保育団体連絡協議会などを作り、地域の保護者活動などと密接に関わってきている。そうした保護者会運動の中で、東京の公務員保育士たちの独特の理屈を出せば、信頼感を獲得できないと計算したのだろうか。あるいは、そもそも東京以外の自治体ではそんなに財政的余裕もないことから、無茶な要求もできないということなのだろうか。

著者のような理屈がまきちらした問題の後始末を、規制緩和委員会、規制改革委員会などの圧力におされそうな厚生省相手に、だましすかしやってきた自分としては、いろいろ見えてくるものがある一冊だった。

労働運動のような仕事は「現場」の重みがある。たいした能力もないが私はいろいろな「現場」に行くことが大好きだ。私のような学校を満足に通っていないバカには、現場に行ってそこで何が起きているか見て聞いてかかわってくることが最も効果的な能力開発であり、組合員へのお返しである。
しかし、安易に口先だけ「現場」を語り、自分が全面的に現場の代弁者のように振る舞う間違いを、この著者に見た気がしている。理屈に理屈を重ねるような著者の指導で、ほとんうに現場は有意義な職場になっているのだろうか。社会福祉の高邁な理想を学んだ職員たちが能力を窒息させていないのか、それが気になってしまった。

●延長保育の話でも思い出したが、私は厚生省保育課と、延長保育とは、11時間を超えたところからなのか、延長保育の補助金を支給開始となる11時間30分なのか、さらにその時間を延ばすのか、ということで議論を重ねた。地方分権もあって微妙だが、補助金を通した法律的な考え方では、延長保育というのは、正確には11時間を超える保育のことを言う。
しかし、朝霞市の保育園のガイドを読むと、16時30分以後が延長という扱いになっている。これでは8時間保育の理屈のままである。ちなみに公立園では延長保育料は取らないから、保護者にその意味はあまり重くなく実損もないが、考え方としては16時30分以後は、子どもや保護者の保育を求める権利として実施するのではなく、サービスとしてやってやっているんだから、万難排して1分でも早く迎えに来い、という意味なのだろう。

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2007.01.15

1/15 改革ってなんだろうかね

大量の事務作業があった。

●クローズアップ現代で金属価格の高騰を取り上げていた。
欧米の大量な年金資金が投機先を探して、資源価格にまで手を出している結果、使用価値を大幅に超える投機が行われていて、生産の現場にとんでもない影響が出始めている。
私は原材料価格はある程度高い方がいいと思っている。ここ数年、原材料が為替とデフレであまりにも価格が低かったので、省エネやリサイクルがないがしろにされてきた。構造改革イデオロギーのおかげで、社会的価値を規制だ非効率だとぼろかすに言っては無視し、経済的価値の追求に邁進することが、「努力した」ことの証として崇高な人間的価値のように言われてきた。そのしわ寄せは原材料や労働力のコストなき浪費というかたちで現れた。原材料価格が上がるということは、そのイデオロギーの歪みを調整することになる。また、自治体が独占化する傾向があったごみ処理を、かつてのように民間の自律的な経済活動に取り戻すことができる。町内会やボランティア団体の資金確保にも道が開ける。
しかし、今日のように投機の結果として生産現場が傷つき、金属泥棒が横行するような状況はよくない。原資が年金資金ということで、改めて年金制度が積立方式である弊害を感じ、賦課方式の利点を確信した。積立方式だと、大量の不労所得の確保のためにお金が動き回り、結果として働く現場が痛む。ヘッジファンドがアジア経済をぶっ壊したその教訓は今も何も変わっていない。
この裏をかいて何ができるかな。そういえばアメリカのごみ処理は分別もせず原野に放り捨てているだけだったような気が。アメリカの大きなごみ捨て場に再処理工場を造って、ごみの山をほじくり返し、原材料を発掘するのがいいのかもしれない。

●あまりにも企業寄りのコメンテーターばかりをそろえた今回の東洋経済の「労働」特集。人買い会社の社長の奥谷礼子か暴走コメントを寄稿しているらしくて、ブログの世界でちょっとした話題になっている。8年ぐらい前の規制改革委員会での奥谷氏の発言のめちゃくちゃさにびっくりして以来、改革利権のコメンテーターである、宮内義彦八代尚宏と並んで批判してきたが、ようやくそのめちゃくちゃさが世間にも認知されてきて、孤独にやってきた主張が少しだけ報われた気分だ。
愛読している「LovelessZero」が紹介するだけでも10本近いブログ。その中で労政審議会の奥谷氏の暴論が紹介されている
奥谷氏は、ホワイトカラーエグゼンプションを強烈に推進する立場から、労働時間は多様化して出勤時間・退勤時間を多様化すればホワイトカラーエグゼンプションをやっても労働時間は守られるはずだ、労基署は存在意義がない、ひどい働かせ方をすれば裁判で経営者は負けるからそんなことはしない、というむちゃくちゃ楽観的な我田引水発言をしていた。労組でもないほかの委員から、日本の労働者は些細な遅刻で罰則を食らったり、サービス残業を断れば人事で報復されるような国だし、裁判でたたかうといっても資力にそもそもの格差があって話にならない、と諫められている。その腹いせを連合推薦の長谷川裕子委員にぶつけて、「労組が甘やかすからいけないのよ(日本人は労働者が努力しないのよ)」といった発言をしている。
このやりとりをみて、奥谷氏の認識能力を疑ってしまう。個々の労働者の状況については、奥谷氏を諫めた委員の言う通りだろう。企業は金の力をもって顧問弁護士を雇い、文句をいうステークホルダーに話の本筋ではない損害賠償や名誉毀損で恫喝して、相手に法律的費用の負担をさせて屈服させることもできる。個別労使関係など、よほどのずるい労働者でなければ、屈服する自由しか与えられていない。
労働組合が労働者を甘やかしているというのはどういう事実を指すのだろうか。自分の仕事の恥かもしれないが、個々の労働者に労働組合に甘やかしてもらったことがあるか聞いてみろ、と思う。
エキセントリックな経営者は、自分の思うように動かない職場の仲間に、努力しない、使えないという言葉をすぐ投げつける。どうせ、その文脈での「甘やかす」という言葉だろう。奥谷氏の人間観のなかには、自分の政治的支配に屈しなくなることを、努力しないという見方があるのだと思う。改革利権系の経営者は前近代的な人間観、労働者観を持ったこういう手合いが多いと思う。

●山口二郎「強者の政治に対抗する!」を読み始める。改革利権の政商を厳しく批判していてこぎみよい。日本人は人格の統合しているものだという前提が崩れ、矛盾を平然と受け入れる精神になってきている、という香山りか氏の分析を紹介し、批判が批判として成立せず、政治家の責任転嫁が社会の正当性としてまかり通ると前書きで分析している。ここのところの自民党と民主党若手議員の、社会保険庁へのスケープゴート報道、教育水準の低下を教育基本法の改正で解決しようとするやり方、みんなそうである。あまり効き目がないけど奥谷氏の労組批判も。何の因果関係もないところへの煽動でしかない。

●山手線がまた人が線路に立ち入って止まっているらしい。毎週のように同じような問題が起きて、ホームドアもつけるなど物理的な問題解決をせずに、30分から1時間もの全線運行停止ばかりしている。これだけ同じ問題が起きて何の改善もしないのは馬鹿だと思う。首都圏3000万人もいれば線路に入るなと言って通じる人間ばかりじゃないことぐらい想定すべきだろう。モラルだけに頼る問題解決はダメだという見本だ。山手線を使うというのは、かなりの頻度で時間リスクを背負うことになる。私はできるだけ使いたくないと思って、乗り心地や雰囲気が悪くてもなるべく地下鉄を使うようにしている。山手線を使わないと行かれないようなところはなるべく行かないようにしている。

●近所から猛烈なカレー粉のにおい。最初はいい匂いだとおもったが、だんだん強くなって頭が痛い。

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1/14 民主党に法的防衛が必要だ

●民主党の松本政調会長が、政治資金報告書の事務所費が過大である問題について、菅代表代行が問題なしとコメントして、大丈夫かと思っているが、対応が遅くて、だんだん火の手が大きくなるような予感がしている。
この問題、本来は大した問題ではないが、事務所費など、政治資金報告書の一部項目には証拠書類の添付が不要であることから不透明な印象があり、松本氏に限らず、騒がれている伊吹氏にしても松岡氏にしてもなにがしかの後ろ暗いお金が事務所費で処理されていることが明らかになった場合には、メディアスクラムで松本氏も連座せざるを得なくなる危険性がある。問題なし、と先に結論づけるのではなく、その日のうちに松本氏に使途や支出先を明確にさせ、その上で菅代表代行が問題なしとコメントすべきだったのではないだろうか。
あと、民主党にこうした疑惑を持たれた議員を調査するコンプライアンス部門が必要じゃないかと思う。政治家というのは同じ党の人間でも懐を探られるのをとてもいやがるので難しいと思うが、与党が痛くもない腹まで探ってあら探しに明け暮れているここのところの政治情勢のもとでは、法律に抵触する話を早めに発見してつみ取る仕組みが必要ではないかと思う。

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2007.01.14

1/13 守る力と主体性と

子どもの風邪が小康状態になってきた。夜にはうなされることもなくなった。

●昨晩のETV特集「アフガン戦争」がよかった。
今の世界中の混乱は、ソ連のアフガン介入が大きな転機になっていることもわかる。イラクの混乱を冷戦の縄張り争いにとどまったベトナムから語るのではなく、縄張りがそもそも存在しない混乱に陥ったアフガン介入から語る視点もよかった。アフガン介入、そしてその後の戦争とチェルノブイリ原発でソ連は崩壊していくし、アフガン反政府勢力の肩入れの結果としてアメリカはとてつもなく大きな代償を払い、日本はつきあわされている。大きな政治勢力の傘に入ることの大変さ、独立しようとすることの大変さなども教訓になる番組である。
とても不思議なのは、イスラム世界は、西欧では独裁政権や共産政権としてマイナスに捉えられている政権が近代化の旗手となっており、それに対して民衆から巻き起こる革命が、自由からの逃走であり、貧困化であり、そこに豊かな精神性と伝統を見出すことである(最近の日本も伝統や精神性ばかり強調するあまり、近代的価値を否定するような考え方が台頭してきているが)。
私が政治に興味持ち始めた頃が、ちょうどソ連のアフガン介入について世界中が反応していた頃だったし、多感な高校や大学にいた頃がゴルバチョフ政権と同時代にあったので、自分が社会主義、そして社会民主主義を捉えてきた問題意識に重なりあう。
ソ連のアフガン介入について、80年代前半に認識が甘すぎたのが日本の左翼陣営の崩壊の原因だ。ヨーロッパでは今でも政権政党として存在している社会民主主義勢力が日本でほとんど崩壊しているのも、決定打はこの時期にソ連と決別できていなかったことにあると思う。
戦争反対=戦争に巻き込む反米帝という理屈でソ連びいきだったからだろう。ここが、ソ連をきちんと批判した西欧の社会主義者たちと決定的に違った。社会党の変化も、一部の右派の西欧社民系の議員や党員を除き、口先だけではなく自らのイデオロギーの危機としてアフガン介入を批判するようになるのは冷戦の終結である89年ぐらいからではなかったか。
今回の番組でもソ連の上層部は書記長を除き介入に猛反対の立場だったことが明らかにされている。それくらい、当事者にとってすら困った問題だったのに。

●終わった後、友人から電話。社会運動にかかわる人にわきおこる必然性みたいなものについてあれこれ議論。ちょうど、岩田正美ほか著「社会福祉研究法」(有斐閣)について読んでいる中で、現場と研究者の立ち位置の違いについて議論が出てきて、いい具合に話が重なり、反復学習のような感じになる。平野貞夫のブックレットをプレゼントしたところご家族が先に読んだらしく、内容が面白いと言っていたとお礼を言われる。

●小康状態になったので、8月に知り合った友だちの誕生日パーティーに少しだけ出る。誕生日パーティーとかこつけた異業種交流会のようなノリだった。
そこで、いろいろな人に出会う。クルマから歩行者を守ろうと活動してきた朝倉船橋元市議に久しぶりに会う。自然食品店に就職した若い友だちもいた。京都からやってきた神学生の友だちにも会う。佐藤優さんの後輩である。うらやましい。うっかり同業者にも会った。意外な一面を見た。

●紅白歌合戦の乳だし事件でDJ-OZMAがNHKに出入り禁止になったらしい。本物の乳じゃないというのは姑息だと思うが、世間もNHKも許せよ、と思う。NHKに抗議している人たちって何なんだと思う。教育のためとか言うけども、自分にもおっぱいがついているか、そうじゃなければおっぱいみてウハウハしているんだろう。教育ってそういうものを見せなければいいのか、とも思う。
団塊の母親ぐらいを境目に、人前でおっぱいを与えなくなったが、人前でおっぱいを出すことを猥雑なイメージしかとらえなくなったことと、子育てがしにくい社会であることは、比例関係にあるように思う最近だ。

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2007.01.13

1/12 霊媒としての脇役

仕事が濃密だ。それを片付けていくのに、気分はとても楽しくなっているときがある。

●「ワキから見る能世界」を読み終える。
能番組で出てくる「ワキ」は、シテの前座に解説的なことを言い、シテが舞ったり謡ったりする横でずっと座り、シテと言葉のやり取りをする地味な存在だ。
しかし、そのワキは、主役ともいえるシテを引き出し、「分からせる」存在であり、ほかの人には見えないシテのある部分を引っ張り出す役割がある、と著者はいう。

能が持つ心理描写、言葉の重層的な意味、心の深淵、そうしたものを解き明かしていく。よくよく考えると、ほかの人にも見えてなくてはならないものが、ワキにしか見えていないことになっていることが多いということも指摘している。

ワキといわれる役柄は、放浪するシテの苦悩やしがらみを受け止め、語らせる。能のシテの役柄の多くは、不条理に直面し、世迷い人や亡霊になってしまった人たちである。それをワキが受け止め、霊媒のような役割で、祈祷などを通して新しい役割を発見させていく。
日本には古来か漂泊やみそぎといった、苦難にみまわれた人生を送る人が過去を断ち切り新しく生まれ変わるためのしくみがあったと指摘する。農耕民族だからと、過去に囚われてばかりいたわけではないという。
最後は芭蕉や夏目漱石を重ねて、生きていくうえで漂泊や旅が必要なときがあると話を進める。
じんわり、その話が心に染み、自分には自覚がないが、どうも人生の転機がやってきているのかも知れないと感じる。

実は著者は高校のときの3年間の担任で、学校内で反体制運動ばかりやっては刃を折ってばかりいた私をかばいつづけてくれた方である。
当時の担任は自己実現的なものに前向きで、反体制的にネガティブに考えがちな私に、いつも考案のような思考課題を与えてくれた。反共反体制的の不自由な思考回路にどっぷりそまりかけている私の頭を、可能な範囲でやわらかくしてくれたと思う。
この本では、そんなに世の中前向きなことばかりではない、ということを強調している部分がいくつかあって、とても気になった。

没個性的な高校自体はあまり評価していないが、そうした環境の中で、オリジナリティーを発揮してくれたこの先生と、授業のない時間に研究室に私の仲間を集めてウェーバーを講義してくれた副担任ほか、いろいろかばい立てしてくださった方々には本当に感謝している。多感な年頃でそれがなければたぶん自暴自棄気味な余生を送ったかもしれない。

また引用されていた曲目は、高校の部活動で習ったものが多く、どうしてあの曲目を選んでいたのか、この本を見てよくわかった。

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2007.01.12

1/11 病気と故障と

昨晩は、地域福祉の新年会。子どもをつれて飲みに来ていたお母さん「こういうところに出たい出たいと思っているけど、出れる場所はここしかない」と言う。そろそろいい年齢になってきた発達障害のお子さんも、こういう場に出るのが楽しいらしい。うれしそうにジュースを飲んでみんなの話を聞いている。
帰宅してみると、大学時代に徹夜で飲んだり、ほんとうにつるむようにして過ごした女友だちが、ようやく結婚することになったという報告をいただく。すでに親元を離れて、大学のあった北海道に戻ったようだ。
帰宅して家族にこんなことあったなどと報告していたら、寝ている子どもの息がだんだん荒い音になってきている。おかしいと思って体に当たってみると熱い。熱だ!

翌朝、病院へ連れて行く段取りを取るため、HPを見ようとパソコンを立ち上げたら、示し合わせたようにフリーズし、その後システム崩壊。

帰宅後、看病。闘病している子どもの、おとなびた顔にはなんだか尊敬するものがある。起き上がるなり「バナナください」なんて言う。震える手で一所懸命バナナを食べている。
子どもが寝込んでいる間は、今度はパソコンのリカバりに当たる。いろいろな写真や足かけ5年記録してきた会計情報などは、マシンメーカーのご指導でなんとか復旧できたが、ここ数ヶ月に送信したメールとHPの「お気に入り」だけが復旧できない。これは結構痛い。
買ったときの基本ソフト、添付ソフトから立ち上げるので、更新したソフトの中には、その後の更新でアカウント情報がメーカーから削除されてしまって使えなくなったものもある。

ということで、今日はあまり難しいこと考えることができない。大事で楽しみな用事もキャンセル。そこで会う人たちには、最近何もしていないじゃないの、と言われそうなかかわり方だったので、今日は反省の態度を示そうと思っていたが、これもつらい。

まだ子どもは高熱のまま。少しだけ機嫌がよくなった。

電車の中では、宇野弘蔵「資本論の経済学」(岩波新書)と安田登「ワキから見る能世界」(NHK新書)を読む。宇野はマルクス経済学の基礎的用語をすべて押さえないと難しい。なかなか読み進まない。

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2007.01.09

1/9 あんまり政治の話は繰り返したくないけど

佐藤優「獄中記」読了。彼を擁護し続けたのが岩波と産経というのが興味深い。佐藤優氏が獄中で読んだマルクス経済学の宇野弘蔵の著書を読みたいと思った。せっかくマルクス経済学の大学に行って、日共除名になったばかりの1年のときの担任(大学に担任があるとは思わなかった)の先生が、「宇野経済学にちょっかい出しているので一緒に読みませんか」と誘われたのに、斜に構えて断ってしまったことの不明を恥じる。宇野系右派の学者が、末期の社会党の改革運動に関わるし、今でも可愛がってくれる北海道の大学の先生も、このルーツにあたる。

●郷里の自民党国会議員が、迂回献金疑惑。定価のない情報誌を選挙区の企業に売りつけていたらしい。秘書が勝手に売っていた、って、変な話だ。政党以外に対する企業団体献金を全面禁止したことは、大きな流れとしてはそれでいいことだろうと思うけど、その前に、政治資金の透明性についてきちんと制度づくりをしてこなかったことが、切っても切ってもあとから出てくるヤミ献金や迂回献金、裏金なんだろうと思う。
実際、公職選挙法や政治資金規正法は、政治家と選挙事務所の会計が一体なのか別物なのか不明確だし、政治団体と政治家の切り分け、とくに政治家が拠出したお金が政治団体に貸したお金なのか、持ち出したお金なのか、そのへんの取り扱いも不透明だし、まして政治団体が借りたお金が返済されているかどうかなど報告から漏れても検証しようがないし、会計の仕事をしてきた人間ほど難解な制度で、どういうお金の動かし方が違法なんだか合法なんだかよくわからず、正直ものがバカを見るようなところがある。

●共産党が民主との選挙協力を全面否定。自民・公明・民主を孤立させる作戦だとか。逆に民主を護憲陣営に引き込まなければ、ただただ孤立させられるでしょうに。さすがは宮本顕治に可愛がられた志位くんらしい判断。
そもそも、共産党が地域で平和運動や護憲運動を乗っ取って、共産党以外の人たちが何議論しても提案しても結局は裏で行われる共産党員どうしの話し合いの結果でしか運動ができないから、平和や護憲に価値有りと思っている人が運動に結集しないんじゃないのかな。そうしたことを反省してもらいたい。

朝霞台の駅の前に共産党のポスターが貼ってあって、また「大増税許しません」という調子。
社民党・共産党が増税反対を叫ぶ(88年~90年)→世の右も左も社会を斜めに見ている有権者が税金を払うのをばかばかしい感覚になる(89~93年)→最初は「庶民いじめ」に抵抗している社民党や共産党に投票するが(89~95年)→だんだん無力だとわかる(91~96年)→そこへリアルに小さな政府論を唱える新保守主義の若手議員が公務員や生活保護受給者、果ては介護や保育を利用している人まで攻撃対象にして行革を絶叫する(93~01年)→あまりにリアルなので税金を払いたくないだけの有権者は社・共からこぞって新保守若者に投票し上位当選する(95~03年)→そんなムードのところにアメリカ金融業界の手先かも知れない小泉・竹中が現れる(01~06年)→小泉・竹中が本格的に社会保障をカットする。政治合意のとれやすいので母子家庭や障害者家庭など少数派から切る。(01~現在)、というのがここのところの政治の流れだったんじゃないかと思う。
今日の小さな政府への支持者を増やした最初のきっかけは、左翼政党のすべての増税に反対する態度だったのではないか。共産党は社会保障のツールの多い大きな政府を目指しているのか、税金による収奪を恐れる小さな政府をめざしているのか、スタンスを明確にすべきだろう。税金は払いたくないわ、公務員を減らすな・社会保障を切るなでは、いくら支出に甘いといわれるケインズ系の人間たちも、共産党の主張など相手にする価値もない。

今は大増税に反対するよりも、大企業だけの減税を批判したり、若者からの富の収奪を促した政策を重点的に批判し、それこそマルクス主義の十八番である、労働者を食い物にする社会のありようを変えるという原点を共産党はもっと主張した方が伸びるんじゃないかと思う。余計なお世話かも知れませんが。

●同じことが、無党派の市民派議員グループがやっている議員特権批判の運動にも言えると思う。最初は永年議員表彰制度とか、無意味な制度の批判で問題ないと思うけども、今時の有権者は原価感覚があまりないから、何においても安ければ安いほどいいと思うから。そうなれば、日当、費用弁償から入っていって、そのうち調査費や、議員報酬本体まで批判の対象になっていくんじゃないかと思う。
保守系の大物議員たちが狙っているように、地縁血縁のないような人や、政治錬金術に長けていない人の政治参加は、財力からそもそもできなくなってくる。そうなれば政治が20年前に逆戻りする。財政的問題で労働組合が政治活動力を低下させているから、普通の人の政治参加という点ではもっともっと前に戻る可能性がある。そこをわかって市民派議員たちは運動をやっているのだろうか。彼らの中での正当な報酬と特権との線引きが不透明なので、不安を感じている。

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1/8 タマちゃんは朝霞市の行方不明者ですか?

あざらしのタマちゃんってその後どうなったのか?と時折、話題になる。行方不明ですね。

●佐藤優「獄中記」を読み進む。子どもと遊んだり一緒に寝てしまって読み進まない。反省ばかり。
高校、大学と共産党系の人たちと「神学」的論争をやりうんざりしたので、その後はできるだけプラグマティズムに物事を考えているし、そのことが日本の左翼陣営では希少価値を持つのでそうしてきたが、佐藤優のようにほんとうに神学をやって、物事を考える本質についてたえず考えている人の書いたものを読むと、プラグマティズムばっかりじゃいけないと、いろいろ考えることが多い。

「国策捜査」で逮捕されたから、世論誘導をいろいろ考えることになるのだと思う。獄中記の中の「弁護団への手紙」にこのようなことが書いてある。

一〇年以上前の「矢鴨」事件の時に強く感じたのですが、自然動物をめぐる事件は、人間の思考のいいかげんさを反省するよい機会だと思うのです。(中略)「矢鴨」にせよ、「タマちゃん」にせよ、サダム・フセインにせよ、鈴木宗男代議士にせよ、人間はそれらの記号の中にその時点の社会がもっている「想い入れ」を含めて「物語」を作っているのだと思います。
イラク戦争や鈴木「疑惑」は、ある意味で非常にシリアスに受け止められているので、「あなたが考えるている鈴木像は十体からかけ離れた虚像ですよ」と言っても、誰も耳を傾けません。しかし「タマちゃん」ならば、「想い入れ」について比較的簡単に反省できると思うのです。
○タマちゃんと同じアゴヒゲアザラシが、なぜオホーツク沿岸の北海道では害獣として駆除されているのか?(あざらし、トド、ラッコ等は住民にとって害獣である。例えばラッコ一匹で一年に市価三〇〇〇万円近くのウニ、ホタテを食べる。)
○なぜタマちゃんは住民登録できるのに、中国人の不法滞在者は社会に別に迷惑をかけるわけでもないのに住民登録できないのか?
○なぜタマちゃんは自由に生活゛てきるのに、帷子側周辺のノラ猫たちは駆除されるのか?少なくとも具体的に人間に危害を加えていない仔猫たちがなぜ毎日駆除されなくてはならないのか。
○タマちゃんの出現による経済効果はどれくらいあったか?
これら1つ1つの問いについて真剣に考察すれば、「タマちゃん」に対する一種のフェチシズム(物神崇拝)がたいへんな危険を孕んでいることに気づくと思います。(p274~275)

2つめの「○」については、中国人不法滞在者はその他の不法滞在者が迷惑かけているかいないかについて議論があるかと思うが、多数派の不法滞在者はやはり佐藤氏の指摘のとおり、生活習慣を除けば迷惑かけるどころか日本社会の面倒なところを一番背負ってくれるし、消費税も払ってくれている。しかしどこの行政も入管の弾圧を期待するようにお荷物扱い。タマちゃんは、荒川を遡上して、河川本流上に係留されているプレジャーボート(今は撤去されているようです。これ違法係留だったんじゃなかったのかな。誰も船主について報じなかったような・・・)が気に入って居着いた私の住む朝霞市。市は喜び勇んで住民登録してした(新座市が「アトム」を住民登録したことに対抗したのでしょう。福祉サービスのいいところは隣市のアラを言い立てて無視して真似しないのに変なところだけ張り合うものです)。今は行方不明のようだが、失踪した市民について市役所は何かしなくていいのか、考えてしまう(本当の話と冗談はほどほどにして)。

パナウェーブという新興宗教がタマちゃんを救うということで捕獲しようとしていた事件が大々的に報道される中で有事法制がほとんど報道されず、一部の左翼の人たちが反対するだけという中で国会通過した。そのことを、佐藤氏が取り上げ、世論が流されやすくなっていることを問題視した一連の記述の1つとして書かれている。
参考に、05年の郵政解散の選挙で自民党圧勝に導き、その存在が明らかにされたPR会社「フラップジャパン」の社長が書いた「好かれる方法」(新潮新書)では、このタマちゃん報道のキャンペーンに関わった(国土交通省河川局の発注事業)ことが何の隠し立てもなく書かれていることへの目配りも必要だ。河川局発注なので有事法制との関係性は証明できず、川を愛してほしいというのがキャンペーンの趣旨だと思うが、タマちゃん報道というのが人々の自然発生的なブームではなく、マスコミのカメラがそこに行くように仕向けられた人為的な感情づくりだったということを認識すべきなのだろう。
佐藤氏はしばしば「マスコミスクラム」という言葉を使うが、そういうタイプの報道が発生したときには、こうした人為的な感情づくりが行われていないか、冷静に自分を振り返ることが大切なのだろう。
情報コントロールがある程度できる体制側というのは常にこうしたことに手を出せるという危機感も持つ必要がある。吉本隆明さんの「反核異論」では、1982年頃に流行した西側諸国の反核運動について、「連帯」によるポーランド民主化から良心的左翼の眼を逸らすソ連や東独の政治工作だったんじゃないか、少なくとも結果的にはそうした役回りを負っている、と左翼の反核運動を批判している。この批判の妥当性はともかく、自分が正義か人道的な感情に燃えてるときには、何かに眼を逸らされているんじゃないか、という危機感はある程度持っておいた方がいいということなのだろう。

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2007.01.08

1/8 町内会の先祖返り

午前中、地域福祉の高齢・障害者の危機管理プロジェクトの集まり。おおまかな当事者ヒアリングの質問項目と、ヒアリング先のアポイントメント状況の把握を行う。
福祉の当事者には、自分の思いをうまく伝えられない人とか、ほんとうに困っていることを恥ずかしがったりして話してくれない人がいる。少しでもその人のほんとうの思いを聞き出すためには、流れを大切にしようということで、あまり細かい質問項目にしないことにする。あと質問項目というのは、細かくすればするほど、最初から回答を予測できるものになってしまう。
こういうことは、交通評論家の故岡並木さんが、武蔵野市のコミュニティーバス・ムーバスの開発で、探ったやり方で、高齢者の真のニーズを引き出すのは統計数字ではなく、思いのたけだけ話してもらうことと、その人たちの生活をきちんと記録することで、それができるコンサルが当時は1社しかなかったと話してくれたことを思い出す。
来てくれた方から農園で栽培した大根をいただく。あまりにも大きいのでびっくり。おでんにして楽しむ。

●話のなかで怖い話を聴いた。
朝霞市内のある町内会で、国民保護か、防災かどちらかで、住民全員に●●隊長というようななにがしかの役職を、頭ごなしに強制的にふった話をきく。親の介護があるので断ったら「名簿が汚れますよ」と脅かされて押しつけられたらしい。本人の信条からも、そうしたことは嫌だという。しかもその住民名簿を市役所に提出するようなことまで言われたらしい。
自治会・町内会とは法人格のない任意団体でしかないのに、行政が住民合意をめんどくさがって町内会長だけに何でも相談して合意を取ったり、土着の地方議員の後援会組織と二重写しになっているから変なハクがついているけども、裸にしてみれば、期待されている役割は職場の親睦会のようなものだ。
それが、住民の生活や思想信条を実体上縛り、役所が要請もしていないような相互監視を始めるなら、それはとても危険な行いである。そもそも町内会が、先の大戦に備えてつくられた隣組から始まっていることからも、十分にその過去の過ちについて留意して運営しないと、システムはそんなに変わっていないから、再びとんでもないことになる。

ホワイトカラーエグゼンプションにしても、規制緩和にしても、「官の規制」を緩めて何が怖いかというと、我が国の社会の場合、自由のために制度が解放されるのではなく、公認の権力による規制がなくなるかわりに、末端の小さな組織で相互監視を行ったり、人権の蹂躙を行うようになることである。そしてそれはしばしばパワハラ的な無法なやり方を伴うことになる。

町内会・自治会は大切で、新住民やマンション住民はこうしたものに入らないから大問題だ、という「地域の人」や市職員が少なくないが、一方で、私は住民の多様性や自発性を無視したような運営、既得の発言力を温存したままで、新住民や後から参加してきた人間を使役するだけの町内会・自治会があることに嫌悪を感じている。市役所が町内会・自治会を重視して、引き続き市民の合意形成を図るなら、町内会・自治会の改革を促進するような、役員研修の実施(ありがちな市の経費で買ったり借りたりしたバスでの温泉旅行じゃなくて実体内容のあるもの)や、民主的かつ法律が守られた運営がされているかの監査制度の整備、苦情解決機関の設置を行うべきだろう。

私は、先日あった朝霞市の国民保護計画に対する意見で、住民自治組織や防災NPOなどの法律を逸脱するような行いや、善意に満ちあふれた人権蹂躙に対して、苦情解決できる手段を整備すべきだと意見した。残念ながらその危機感は間違っていなかったと思ってしまう。

もっとも、こういうことをする会長のいる町内会、自治会の会員は、きちんと会長の首に鈴をつけることが大切じゃないかと思う。あの会長をやめさせたら自分がやらされるんじゃないか、などと不安に思うかも知れないが、最後には、自治会・町内会がなくたっていいやと思うぐらいに腹をくくれば怖くない。誰のための町内会なのだ、と。

●昨日の報道特集は珍しく北朝鮮特集ではなかった。安倍政権が圧力をかけているからだろうけど、毎週毎週、北朝鮮情報の垂れ流し、ごもっともなんだけど飽き飽きだ。聞いた話もたくさんだし、もっといろいろな問題を報道してほしい。
今回は、福岡県西方沖地震で半損壊した福岡市博多区のマンションの再建が報じられていた。欠陥建築をしたために柱も壁も破損しているにもかかわらず、マンションデベロッパーの無責任がまかり通る制度と、住民を恫喝したり、お金や管理組合への政治工作で口封じを図るやり方に見ていてムカムカしてきた。

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2007.01.07

1/6 ふみとどまる勇気

夕方、成増のジンギスカン店「ラムラッケ」に行く。とってもおいしい店だった。友人の恩人がお店を始めたというので、誘ってくれた。

友人の話の中で、地域で何か声をあげていくということは、ほんとうに冷ややかな眼に囲まれがちなことだ。そんなことで悩む共通の友人の話を聞く。そして大きく飛躍したところに行きたいと、ついつい現実逃避を考えてしまっているようだ。
同じことは、自分についても自覚する。でももっと困っている人がいて、その人たちが元気になるための手づるをつくることはとっても素敵なこことで、敵をつくってしまっても、私のように比較的言いやすい所にいる人間が言うべきだと考えて前に進んでいる。ほんとうにときどき嫌になって、行政サービスの良いところに転居したい、とかいろんな現実逃避を考えてしまう。
でも、朝霞→札幌、札幌→朝霞と2回の転居を経験して、地域で何かをやっていくというときに、転居はほんとうに何もかもゼロにしてしまう経験を重ね、ここでできるところまでやる、と思う。そして、自分自身への励ましとして、
もし私がこのことを言わなかったらどうなっていたか、そんなことを考えるようにしている。

大きく飛躍するチャンスを逃すのはもったいないことだが、私の職場の大先輩である村山富市さんは、一所でふみとどまって活動してきたから、ちょうどいいタイミングで、周囲が転機をつくり、あまり人に怨まれることもなく首相になった。首相になって、天災やテロにみまわれそのことで本人の能力を超えたところで文句を言われているが、しかし、アジアとの和解、地方分権や介護保険制度の導入、公共事業の見直しなど、その後の社会制度を大きく変えるシステムづくりのきっかけをつくったと思う。自分には真似できないが、見習うべき先輩だと思う。

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2007.01.05

1/5 ゴルチエが消える

きょう、借り物のかばんをいつまでも使うのは悪いと思って、かばんを買いに行った。ゴルチエのかばんが安かったので、思い切って買ったら、国内販売は終わるという話を店員から聞いてショック。

25歳ぐらいまでは貧乏暮らしで、ブランド物は祖父が愛用したバーバリーのお下がりぐらい。就職活動の末期にようやく定職をを見つけ、就職して2~3年ぐらい経た頃だろうか。月の手取り収入が15万を超えるようになり、なんとかボーナスが出る季節に少しは嗜好品に使うお金ができてき始めた頃、最初に自分で選んで買ったブランドものがゴルチエの眼鏡。職業柄、少しだけ目が悪くなって、腕のよい眼鏡屋にレンズ選びをしてもらったが、眼鏡に凝ることも大事だと教わって買った眼鏡だ。
眼鏡のほか、その後買った財布や手袋、名刺入れの少しとびぬけて、性差を超えるデザインが気に入っていたので、ほんとうに寂しい思いだ。

●今朝、通勤途上の新座市の歩道上で、初めて市の禁煙監視員を見た。おかげで今日は吸っている人はみなかったし、いつもより吸い殻は少なかった。効果が上がっていてありがたい。
4市で喫煙を取締る地域を「路上禁煙区域」としているが、表現が良くない。条例では全市域が路上禁煙のはず。駅周辺の特定の地域は「路上禁煙区域」ではなくて、監視員をおき罰金を取るのだから「路上喫煙取締区域」とすべきじゃないだろうか。区域外の喫煙は今もひどい。

●新年の仕事始め。選挙だらけの一年が始まった。4月に統一自治体選挙、7月に参議院選挙、おまけに11月に市議選がある。自民党の選挙対策に、私の勤務先の労働組合が格好のスケープゴートにされる下情報があちらこちらから入ってきているようで、幹部たちのあいさつにも、それを意識した言葉が多かった。
20代終盤は、いろいろな人に出会い、励まし合うのが楽しくて、仕事に矛盾をきたさない範囲で、万難を排し自腹を切って知人・友人を応援しまくっていたのに、何だろうか。とにかく今は万難は排さなくなった。尊敬できる人で、私が行かなくては、となったときだけ一所懸命やっている。
いろいろな事情があるにせよ、不義理を果たしていることの方が多くて、選挙にチャレンジして期待していただいている友人・知人のみなさんには申しわけない思いでいる。

今度ある選挙の中では、自分のまちの市議選がいろいろ考える。少しでも新住民の声を届けられる人を増やせたらいいなぁと思う。8年前の選挙で私の考え方と一緒じゃないけど近い人が1人増えて、朝霞市の環境問題や自然保護運動は前進したように思う。この人にも当選してもらうのは当然としても、古い人が多い今の市議会に風穴をあけていくためには、また別の人が増えてもらいたい。できればサラリーマン経験のある女性がいたらと思う。子育てに苦労していたりすると、マンション買って朝霞に住み始めた世代の人たちと思いが共有できそうだ。
もしそれに失敗すれば、前回始めて40%を割り込んだ市議選の投票率が、さらに下回り、有権者の3分の1の投票すらない市議会になってしまうだろう。
それにしても、ベッドタウンの住民の大半は月給取りである。したがって古い言葉で言えば「勤労大衆」の受け皿になる政治勢力ががんばってほしい。しかし、本来は勤労大衆のための党であったはずの旧社会党や旧民社党がこの地域でその受け皿として役割を果たしているのだろうか。どちらもこの地域の顔はあまりにもイデオロギー色が強すぎる。基地の街だったから仕方ないけども、北海道までいかないが、東京の多摩地区なんかと比べてもどうして埼玉だけこんななのか、と思わずにはいられない。

●名古屋の長田百合子の妹杉浦昌子が姉をまねてやっていた引きこもり更生施設「アイメンタルスクール」の関連会社で脱税があった。青少年に強制労働をさせてピンハネしたお金を隠匿していたという。子どもの権利条約を「あれは発展途上国のもの」と批判しながら、発展途上国の子ども並みの扱いをしていたことになる。また、働いてもない代表の息子に給料を払ったりしていたという。引きこもりの親から巻き上げたカネで、働いてもない息子にお金を出していたとは、冗談にもほどがある。公徳心がなさすぎる。どうしようもない連中だ。

●佐藤優「獄中記」を読み始める。特異な才能がある人が、物事をどう捉えて行動するのか、とても興味深い。

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2007.01.04

1/4 月9万の家賃で怒るな

●今朝の毎日新聞1面トップが、国会議員の9万円の宿舎に誰も入らないという話。あれはマスコミの叩きすぎだと思う。もっと大問題でマスコミも国民も怒るべきだろう。

国会議員になる資格を東京以外の人にも開いていること、それから選挙区制度というものがあって二重生活を余儀なくされることの2点から、地元の自宅と別に東京に住宅を構えることは避けられない。こうしたものは現物支給があって当たり前だろう。SEなど仕事の事情で長期出張させられるが、その居住コストを自前で払えという話もないだろう。また周辺の家賃が45万という話にしたところで、自前で払える人もいるだろうが、一部または全部を会社持ちで負担して住んでいる人が多いのではないか。

オレよりアイツが良い思いしているという議論をするのはいい加減にした方がいい。仕事をやっているかどうか、仕事に不正はないかどうか、そういうことで怒るべきだろう。

もし150万程度の国会議員の月収で、公設以外に秘書を2人(選挙をほとんど団体・組織が丸抱えでやってくれる参議院比例候補以外は最低水準だと思う)雇い、選挙区の事務所を開いて家賃を払い、45万の家賃を払えば、その議員の収支は大赤字になるだろう。そうなれば、どこからかお金を調達しなければならない。家賃だけで言えば差し引き月36万だが、それでは片づかないような、何十倍もの公共事業を国会議員はやり散らかし、そのキックバック的な意味を持つ献金を集めて穴埋めすることになるだろう。どちらが財政を痛めているのか、よく考えるべきだろう。
月9万の宿舎に騒ぐより、国会議員が月150万円程度の収入で20人近い秘書を雇ったり、大きな広場にプレハブ小屋を建てて選挙をすることができるのか、その裏側のシステムを騒ぐのがマスコミの役割であり、そこにきちんと評価を下すことが国民の役割じゃないかと思う。

お金のかからない政治をすすめるためには、ある種、どう考えても必要な現物支給のコストはかけざるを得ない。宿舎や秘書の数、議会事務局の職員、議会の資料収集能力などにはお金をけちる必要はないと思う。同じようなことを普通の仕事で通用するだろうか。上司から年収5000万にしてやるから、部下の人件費、机や椅子、事務所の家賃、自分で払えなんて仕事が他にあるだろうか。そういう普通のサラリーマンが自分で払ってもいないものを国会議員だけは自分で払え、というのは、民主主義の国民として無責任な議論のように思う。月9万の家賃の必要性など考えずに怒っていられるのだ。じゃあ、その家賃分、誰かが浄財を寄附するのか、と聞いてみたい。そこには政治家を国民の共有財産としてコントロールしていく、という発想が皆無で、お任せ民主主義の構図のままに偉い奴に怒っているかたちしかない。そういうことで怒る国民ほど、自分のために利権を運んでくれば熱烈に支持し、そうじゃなければ税金泥棒として怒っているだけなのだ。
劣悪な経済環境のなかに国会議員をおいているから、国会議員や秘書などのスタッフたちは、平日は議会、土日は選挙準備と、劣悪な労働条件に耐えることを自慢するような人しかいなくなっているのが現実だ。そういう屈強な連中が意思決定の中枢にいるものだから、結果として、労働規制など必要な社会的規制はどんどん骨抜きにされ、昼も夜も寝る時間も削って働くような社会にさせられてしまったのではないか。

まして、国会議員は「国権の最高機関」として、できる限りお金など卑俗なものに束縛されずに仕事すべき立場であるにもかかわらず、家賃の資金を捻出するために公共事業の口利きなんかを今以上にやるようになられたんではたまらない。
政治家になる人が、いらないお金を持ち出さなくて済むようにしていかないと、普通の人が政治家になる道が閉ざされ、二世議員か、裏金と結びつく世界にいる人か、組織の代理人しか政治家になれない時代にまた逆戻りしてしまうと思う。

政治家の支出の最大の要素である選挙については、選挙を個人どうしのたたかいから、党どうしのたたかいにすることで、個別の政治家はお金を使わなくて済むようになる。そういう意味で、1993年の政治改革は、政党助成金をもって政党にひものつかない資金的余裕をつくりながら、各選挙区の候補の使う選挙資金は相当減っており、一定の評価をしてよいと思う。これを地方選挙にまで広げられるかが課題だ。

話は戻すが、現物支給がきちんとされ、お金のかからない選挙制度が徹底され、政治にかかるコストを報酬からあまり持ち出さなくてよくなれば、国民感情と同じで、議員の報酬などは、他の知的労働者の水準に下げてもいいのではないかと思う(行政権に対抗していく意味では高級官僚との給料バランスも考えなくてはならないが)。

それからさ、月9万払っても職場の近くに住めないこの社会って何なのか、そのことに怒れよと思う。月9万で3LDKのマンションでしょ、それ自体は安い家賃とは思えない。周辺のマンションの家賃の方がおかしいんだ。
税金が高い、人件費が高い、何が何より高いとまことしやかに議論をする人が多いが、この国の不動産価格の高さそのものについて議論する人が野口悠紀夫と和田秀樹ぐらいしかいないことに怒りを感じてくる。とかく高い高い言われる生活保護費だがそれより高い3LDKの家賃、高いばすの人件費から3割から5割も家賃に払わなくてはならないこの国の大都市住民。むかしの地租と比喩できる税金みたいな家賃を食べていながら、慈善団体に寄附している程度のものを除けば、社会的価値のある仕事をしている話はごくわずかの例外以外聞かない。
こんなに不動産価格が高いのは、他では華僑が支配している大都市だけだ。

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2007.01.03

1/3 公徳心ってね

髪の毛の色が違ったり、携帯電話しか向き合わない異界の若者たちを、歩み寄りもせずに自分たちの理屈をおしつけたいという、都合のよい理屈で公徳心なんて言葉が一人歩きしているが、公徳心がないことなんて、若者に限った話ではない。

私の住むマンションでは、正月、ごみ収集がないとなると、平気でごみステーションに決められた日よりもずっと前からごみを置いていく人の多いこと。毎日収集、混在収集が当たり前の都内や横浜、川崎から引っ越してきた人はごみに対する感覚が悪い(最近は、都内もうるさくなってきたらしいが)。以前、ごみ分別のできていない住民に管理員が注意したら、内容証明でごみの差出人をつきとめるのはプライバシー上問題だと抗議してきた住民もいたらしい。

Tsuro近所を散歩するとき通る、東上線をまたぐ地下通路がある。そこは自転車は降りて通行しなければならないはずだが、ほとんどの自転車が乗ったまま、暴走していく。半分ぐらいの自転車は、PTAか何かで配られる防犯ステッカーを買い物かごに貼り付けている。防犯活動やっているなら、歩行者を交通事故に巻き込むようなことをしてくれるなと思う。佐野眞一も足立区のルポで書いてあったがDQN地帯というのは自転車に甘い。市長もブランドだ何だとやっているぐらいなら、ブランド自治体を見習って自転車規制をきちんとやるべきだ。高齢社会で自転車は交通事故の加害者である。

Tsukoku続いては放置自転車。こういう警告をするなら「撤去することがあります」ではなくて「撤去します」でしょうに。甘いんだ。
どちらにしても、看板を出していることに何の意味があるのか。ほんとうに事故でひどいめにあう人を無くそうということより、万一のことがあったときに「警告はしておきました」と言うためだということがミエミエ。行政訴訟逃れとしか思えない。この看板があるところは目の前に十分な駐輪スペースのあるマンションしかないから、置いてある自転車はすべて放置自転車。即撤去が当たり前だろう。くず鉄泥棒が増えているぐらい、くず鉄に価値があるんだから、財政が厳しい厳しいと市役所が言うなら、収益事業として放置自転車をどんどん処分するべきだろう。

●今日が帰省Uターンがピークだという。少し早い気がする。お正月の休暇が3日までに戻ってきているふうだ。通勤電車もオフピーク通勤が減ってきているように感じるし、休みや勤務時間が昔に戻りつつあるのだろうか。そういえば学校週5日制に反対する声が高まっていて、それはそれで自由に議論したらいいと思うが、そうなると子どもが週6日もふんばっているのに、おとなが週休2日でいいのかい?という議論が出かねないと思う。まぁ、週2日塾に行くぐらいだったらとも思うけども。

奥田前会長のときの経団連の教育改革は、経営に競争原理を働かせるというもの以外は、イデオロギーも入っておらず、順当かつ的確な内容だったと思った。学校運営に子どもの評価を盛り込まれていたことも新鮮でした。経営者というのはバランス感覚と現実感覚にすぐれた人たちなのかと思わせてくれるものがありました。
ところが1日の朝日の朝刊で、御手洗経団連になってから、公徳心とか、国を敬うなどという言葉が散りばめられるようになっているようです。
しかし、御手洗さんの会社は、働く人たちに公徳心をもって接しているのでしょうか。偽装請負、そして彼らを正社員化するときの前歴換算の踏み倒し、女性労働者が結婚すると正社員から派遣会社に転籍させられる話、いろいろあるようです。それから御社の組合は穏健な電機関係の組合どうしで最低限申し合わせている春闘ですら離脱を申し出ています。これ以上、御手洗さんは何を国民に従順さを求めるのでしょうか。経営者の公徳心とは何なのでしょうか。

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1/3 子どもや子育てに至上の価値があるのか

政府が少子化対策を見直すという。少人口社会に備えるという。その視点はいい。しかしなのだ。
少子化対策の出自は少しうさんくさくて、もともとは森喜朗あたりの保守政治家が「女が子どもを産まなくなった」と嘆いて産めよ殖やせよ政策を始めようというところから話が始まり、それを厚生労働省の官僚たちが何とかイデオロギー的色彩を薄めて、代わりに本来は少子化対策とは別にニーズのあった保育所充実策とか、子育て家庭への経済支援などに力点をおきかえて、イデオロギーを超えた国民合意として取り組まれてきた。結局、産めよ殖やせよ女は家庭から出るな、と言っている保守政治家たちはそれでは面白くなくて、少子化対策をばっさり切り捨て、再び、巧妙に保守イデオロギーの差別的な家族政策を持ち込もうとしている。

そこには、保育所拡大政策をやめ、家族や地域の結びつきを強めるという言葉で、イレギュラーな家族や、町内会に頼らない地域を、排除したり冷遇したりする政策が進められる危険性が出てきた。またもや「ふざけるな専業主婦」みたいな議論を一からやり直して、落としどころをさぐるようなことをしなければならなくなる。

事実、山谷えり子首相補佐官が、母親は労働をすべきではない、ということを産経新聞の新年インタビューで話している(山谷さん自身はどうなのですか、と聞きたいけれども。実際、山谷氏のようにキャリアで働くとなれば、母親としての責任なんて保育所預けっぱなしにしてもたえられないわけです。本人が自分でそれをやってきたのか疑わしい思いです)。

ここ2年地域福祉計画づくりに携わってきた。それ自体に意義は高くある。でも、今回の政府の見直し案のように、なんとなく政府の都合のよいように住民を動員して、政府の都合のよいように「あるべき家庭の姿」「あるべき地域の姿」などを町内会や地域のNPOがマイノリティーを差別することで語り合い不本意な人まで監視しあうような姿にはしてはならないと、ほんとうに思う。実際に、最近、地域社会で大流行している防犯活動では地域の「へんな人」探しを必死にやって、知的障害者をはじめ、ちょっとでも変わった危険でもない人をマークしてしまったりする。そんなことでいいとは思えない。

もっとも、保育所が必要だと言い続けてきた側も、安易に少子化対策に話を結びつけてやってきたことの反省は必要だと思う。人が自立して生きていくために、そして人材を社会参加のチャンスから脱落させてはならないという社会のリスク管理の一環として保育所政策があるべきだが、子どもを殖やすために位置づけたことの弊害はこういうところで出てくる。

あと、安倍晋三みたいな考え方をしている男は、そんなに家族が大切なら、仕事を辞めたり休んで子育てをやってみろ、と言いたいものだ。能力とは関係のない先天的なものでしかない性別を前提に、子育ての全知全能的な責任を押しつけて、好きなこと言っているな、と思う。

●となりの市で24歳の母子家庭の母親がスノボに出かけて、残った子どもが火事にあい、焼死する事件があった。
この母親がどんな人物だったかは伝わってこないが、おそらく社会は「母親が何をやっているんだ」という論調だろう(そういう俗論が2ちゃんねるあたりに山と書き込まれていそうだ)。私も一部それは認める。チャップリンの「キッド」を見て涙してからは、他人の子にでさえも守ってやらなきゃ、という気持ちが大事だという感じがしているからだ。
しかし、じゃ、同世代が、それこそ森喜朗的な言い方をすれば「子どもも産まずに」連日遊び歩いている中で、子どもを抱え、どういう因縁なのか母子家庭としてやってきて、社会に排除されている気持ちは、たとえしょっちゅう子どもを置き去りにしてスノボに行っていたとしても、とても強かったのではないかと思うと、そんな安倍晋三や山谷えり子のような責任論だけで片づけられる問題じゃないと思う。
こうした親を受け入れて、たまには遊んでおいでと預かってくれるのは、今の日本社会では理解のある親しかいない。理解のない親は最悪だ(だから安易に三世代同居なんて言えない)。保育関係者や地域の子育てネットに相談しても、よほど良心的な人に出会わない限り子どもの価値をやまほど言われて「遊んでいるヒマがあったら子どもと」とやさしいけれども執拗に言われるのが関のヤマである。じゃあどうしてそんなに子どもや子育ての価値があるなら、同世代は妊娠することを危険視して子育てリスクを回避して、遊び歩いたり仕事に邁進しているのか、ということに何の回答も与えていない。
したがって保守的な家族イデオロギーを押しつければ押しつけるほど、子どもや子育ての厳しい現実がある以上、子どもや子育てが社会から忌避されることになるのだ。

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2007.01.02

1/2 野党と在野勢力の質が問われる07年

外に楽しみもなく、テレビをつければ芸能人がだらだらと喋っている番組ばかりで、しかも家にいれば親に意味のない公約をさせられそうになるお正月は子どもの頃から苦手で、経済的に自立してからは静かに家にいたことはほとんどなかったと思う。だから、年末だから、年始だからと特段、いろいろまとめてみることは苦手で、昨年末も何一つ美しいこと言わずに「きょうも怒る」でしめくくってしまった。

●今年は、野党的立場にいるすべての人たちにとって大きな転機が始まる年だと思う。憲法の「統治機構」の規定では、この国がどうなるのか、ということは衆議院選挙の結果によるが、流れができるのは、今年のように参議院選挙がある年が多い。また大きな政党の枠組みの変化はないが、統一自治体選挙は、政治に流れ込む人材、地域社会という根っこのところでの政治選択がどのように変化するかということも示してくれる。

ここ数年、野党は税金の使途の問題と、官僚支配と、参加のオープン度をめぐって自民党に対抗軸を示してたたかってきた。政党が軸になる理念や社会像をまとめられない中で、裁量行政の中で口利きを通して利権の分配機構として機能してきた自民党を叩くのには、とてもわかりやすい理屈だったからだ。

しかし、小泉政権が誕生して、ほんとうのところはどうだかまだわからないが、表向きは民主党や社民党よりも遥かに激烈なかたちで、税金の使途の問題と、官僚支配について攻撃して、内容はともかく国民へのアピール度の高いやりかたでそれらの解体もやってきた。政権だけにそれらはそれなりには具体化し、野党のやってきた主張というのが対抗軸としての価値を失ってしまったと言ってよい。前原氏が繰り返し「改革派の自民党」と連携したがるのも、税金の使途の問題と官僚支配の解体という各論だけでは、対抗軸がないということを明らかにしている1つの現象だと思う。

何のために税金の無駄遣いを問題視し、官僚支配を解体しようとしているのか、その根本的なところをわかりやすく対抗軸にしていくことが求められているのではないか。それがないから、「改革」後の社会像を提示できず、格差社会の前に、野党はなすすべもないのではないか。ほんとうはその社会像を提示するには十分な議論がされてきているし、個々の議員はそうした良質な議論にシンパシーを感じながら、民主党を中心に野党は1992年ぐらいからの改革談義の呪縛に縛られた議論しかできていないから、まったくもって前に進まない。

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