12/4 保育園の入園申請で「精神運動発達」の「正」「遅延」を届ける必要があるのか
保育園の入園申請用紙を入手する。取りに行った家族が怒っている。私も怒った。
昨年までなかった「入園希望乳児の健康診断書」が入っていて、病院に行って、診察料を払って、ハンコ押してもらわなければならないという。なぜこんなものが必要なのだろうか。保育所は生活を見るところのはずで、病院とは違うはずだ。身長・体重なら自分たちで調べられる。
児童福祉法は認可保育園の入所基準を「保育に欠ける子」としているはずで、保育に欠けるかということと関係のないこうした健康状態の情報を収集することの意味がわからない。
項目には「精神運動発達 正 遅延」などの項目もあり、その表現の差別性を感じるし、当事者の保護者からするととてつもなく傷つけられる思いがするんじゃないかと思った。日頃、市の仕事を受注する業者の問題を言っても、守秘義務だとか個人情報保護だとか言って何も対応しないのに、市民のデリケートな情報を、入園審査の段階で収集することは大問題だと思う。保育園の入園申請に臨む保護者は、書類の1つ1つ書くことが入園に不利に扱われないかどうか、心配しながら書いている。
また障害者の親や病弱な親たちの話を聴くと、長いこと「障害者の親なんだから」「病弱な子の親なんだから」という言葉に縛られて、どんな親であろうと認められる権利すら自ら返上し我慢するような状況だった。保育園に入れるということはそのもっとも束縛される最たるものだ。最近まで制度のうえでも障害児の保護者は就労を理由にしても保育園に入ることから排除されてきた。
そんなことを感じて見過ごせないと思い、児童福祉課に電話をする。
市役所の説明では、①乳児は健康状態がわからない②体の弱い子に適切な担当保育士をつけたい、という回答。①については健康状態なんていつどうなるかわからないのが乳児ではないだろうか(生まれて1年もしない子の健康診断なんてあまりあてにならない)。医師に書いてもらった書類1つでわかったことにしようとするのは間違いだと思う。②については理由としては成り立っているものの、最終的に全員の入所が決定するのは2月なのだから、それから考えれることもできる。職員の配置に3ヵ月以上もかけるのだろうか。それも疑問だ。
その他、入園申請用紙とそのガイドをもらって感じたこと。
7月開所といわれていた仲町保育園の開所もいつの間にか延期になっていた(2007年7月→10月)。繰り返される開所延期はどうかと思うが、思い切って10月にしたことは今年の秋生まれの赤ちゃんにはちょっと朗報かもしれない。しかしこの保育園の委託先の業者選定過程も、業者の選定基準も、どんな業者が応募しているのかも全く公開されていない。そうしたことを次世代育成支援行動計画の推進委員会でも報告されない。
子育てもしたことのない公権力が委託先業者を一方的に選ぶということが妥当なのか。先の民間委託園のように、保護者に笑顔だけを売って、中では何がどうなっているのかまったくわからない状態の業者に行ってしまわないことを願うばかりだ。
入園の選考方法について書かれたところを見てまたびっくり。今度追及したい。保育園の入所判定はいろいろな条件を点数化してその合計点で決めていくが、同点の子には、①家庭の状況、②母親の状況、③父親の状況、④児童の保育状況、⑤同居者の状況の順で裁量で決まる
しかし、この母親→父親という順は、子育ては母親がやるものだという価値判断による性差別だ。母親が養育しにくい場合より父親が養育できない場合の方が保育園入園に不利になるというのは、母親が家事と仕事、父親は家事をしなくて仕事、という固定観念から生まれている。同点の場合に判断すべきなのは、④の児童にとっての保育状況がどうか、その一点であるべきだし、厚生労働省も県庁も保護者という言葉を使っているのに母親、父親という言葉で「普通の家族」「そうでない家族」という線引きをつくるのは間違った行政である。大きな問題だと思う。
あと細かいことだが、市の保育園は使用済みのおむつは持ち帰らなくてはならない。そのためにビニル袋を100枚も買って用意しなくてはならない。クルマを持たない私のような人には、たまらないなんて思いながらも、それ自体、少し不満があるものの、まぁいいいとしよう。
使用済みのおむつが、ビニル袋にこまごまと包まれて家庭ごみとして出される方が、ごみ減量からみてどうなのだろうか、そんなことを考えてしまった。保育園っておむつのごみを処理できないのだろうか。大きな怒りからすればどうでもいいことだけど、考えなきゃいけないんじゃないか。
しかしどうして入れもしない保育園のことについてこんなに怒らなくてはならないのか。税金の払い甲斐のある自治体になってもらいたい。
●飯田泰之「ダメな議論」を読む。ダメな議論についての切り方が面白かった。75年生まれの著者は参議院で経済政策を担当していたため、バブル崩壊と構造改革についての議論をずっと見てきた。そこで様々な俗論とたたかいながらダメな議論の見ぬき方を学んだという。
小泉構造改革を批判する側に追い風が吹いているのにどうして論理力がないのか、と思っていたけど、そこにも明確な回答があった。結局、構造改革の基本的な理念を否定できてもないのに、「大きな政府派」だとレッテル貼られることを怖がっているから、小泉みたいな変人が珍奇なことやって許せない、という程度の批判だからだろう。「国民に冷たい」とか「暖かみのない」という飯田氏に言わせれば論証不可能な価値で議論をしているからだ。これは自民党の抵抗勢力はもとより、国民新党から共産党までのほとんどの政治家にいえることだ。
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