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2006.11.23

11/22 タウンミーティング・地方分権・教育改革

家族から「タウンミーティング問題で国会が揉めることに意味があることなのか?」といういい質問があった。私は、一般の人たちにはタウンミーティングそのものが理解されていないだろうから意味がないけど、政界においてはこの問題で揉めることは、民主主義でもっとも大切にされるべき手続き論だから、与野党の緊張した駆け引きの材料になって意味がある、と答える。こうしたつまらないことで揉めていかないと、大事な法案は与党ベースでどんどん採決されていくし。

では、タウンミーティングに対する国民の認知度が低いからといって、やることに意味がないのか、という疑問が出てくる。タウンミーティング自体は、国民との直接対話をする(という擬制だが)ことで、市民社会ができあがってくる中での民主主義である程度の意義はあり、簡単に否定できるものではない。

しかし、1億人もの国民とフランクに対話するということは技術的に不可能だ。どうしてもそこで出される質問や意見はあくまでも1つの意見という域を出ない。そうでないとするなら、今回のようにやらせで仕込み質問とサクラを用意しなくてはならない。そもそも国ぐらいの規模で、直接的な民主主義が技術的に可能かどうかというと相当難しい。だからこれまでは政党や中間(圧力)団体があって、そこが社会にあるいろいろな考え方や意見、利害を整理して系統化し、政党や団体間の調整機能を働かしていく(岩井奉信「立法過程」(東大出版会)をどうぞ)。

そのやり方は安定した社会システムづくりができる。しかし、このやり方は意思決定が硬直化するし、何より圧力団体のない財政問題にどうてもツケがまわってしまう、というのがここ12~3年ぐらいの評価で、そのカウンターパンチャーとして、政府や政治が国民と直接つながる必要性を生んでいる。小泉政治というのはその象徴だった。

で話はまた戻るが、国という規模で政府や政治が国民と直接つながることの難しさがある。どうしても空気を読んで支配するようなリーダーでないと統治できないということになる。そこにポピュリズムと政治の暴走が発生する。また政権が代わると政治への熱狂が一気に冷めて、ナショナリズムとか、その逆のニヒリズムとか、副産物を産出してしまう。
市民社会の成熟とともに意思決定の場に有権者が直接つながることのできる規模という問題を考えなくてはならない。自治の論理が展開され、生活に関連する政策課題については、生活に近い自治体で決めていくべきだ、という地方分権の考え方になっていく。民主主義の成熟化つまり市民社会になっていくことと、地方分権というのは必然的なつながりがある。

地方分権と民主主義で今日的なテーマで言うと、教育は文部科学省が責任を持つ必要があるのか、ということである。教育をみんなが議論して、みんなで決めていく必要があれば、地方分権を徹底していくべきだし、そうでなければ、今のように文部科学省が支配する教育でいいということになる。
文部科学省に届けられたいじめ被害者の自殺予告手紙が象徴しているが、国民世論は権威主義に弱いのか、後者の支持の方が大きい。国が責任を持つと言えばなにやらいじめや学力低下に対してきちんとした対応をとってもらえる、という幻想をもっているようだが、でもその教育システムを明治以来ずっととってきて、今日のような惨憺たる結果になっているのではないか。
これは例が悪いが旧国鉄の意思決定システムと一緒なのだ。国鉄は国が責任をもって線路を引っ張ってくれる。でもその引っ張ってこられた鉄道が地域住民に使いやすい鉄道事業だったかというと疑問だらけなのだ(国鉄改革は是とする方も非とする方ももっぱら職員のモラルなど職員のあり方の問題ばかり指摘されるがそれよりも意思決定システムの問題として考えた方が意味がある)。その証拠に、赤字ローカル線の沿線住民はほとんど1人1台自動車を保有し、赤字ローカル線廃止反対の集会にマイカーでやってくる始末だったのだ。
国の政治は線路を守ることしかできないから、財政問題から守るべきでないと国の政治が判断してしまった途端に、線路はなくなっていった。教育もほんとうは国鉄と同じような状態じゃないのだろうか。この場合、財政ではなく、私塾や義務教育課程での私学の跳梁跋扈というかたちで表れる。
この間の、いじめや未履修問題で、国権強化が教育再建の前提のように語られ過ぎてきたが(いじめ被害者が文部科学省に責任を問うたことが象徴している)、問題解決の視点で考えた場合、教育機関に対する地域の監視、地域の自治ができるようにする方が、ほんとうは質の高い教育になるのではないだろうか。

●プロフィールに記述を追加しました。このブログはアフィリエイトや広告掲載はやりません、という内容です。
というのも、本や雑誌の「ブログで副業」みたいなものに刺激されて、無内容あるいは態度に問題のある(主張がおかしいとかそういうこと以前。)記事しかないくせに広告ばかりピカピカ派手なブログが乱立し、そうしたところからいただくトラックバックが目立ちます。言論の自由があるからやるのは勝手だと思いますが、そんなことやって意味があるんですか、と思うのです。そういうブログに限って、検索サイトに引っかかるつまらないテクニックを心得ていたりしてもいて、検索サイトを使うとそんなブログばっかり上位にひっかかって来ます。

また自分もこうして書いていると、「いくらか入ってくるの?」と聞かれます。もの書いてお金もらえたらありがたいとは思うけど、好きなこと書いて(本当に申し訳ないぐらい好き放題です)読んでいただいているのに、お金貰っては申しわけないような気もします。でも、紙媒体では原稿料をもらったこともあるので、それ自体はいいとしても、読者でもない人からお金貰うのは不純な感じもしています。知らせたいと思う話や、感じたり怒ったりした思いを書いているのに、アフィリエイトや広告料狙いで深夜必死にブログを書いていると思われるのも、なんだかみっともない気がします。

電通一極支配の広告代理店業界のもとで、最近は広告主ひもつきの情報だらけになっていて、社会がおかしくなっているんじゃないかと思っているところに、ブログまで広告主や広告代理店のエサにすることもどうか、と思っています。

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