9/29 教育基本法を改正して学力が上がらなかったら安倍新首相は責任を取るのか
安倍新首相の施政方針演説が行われた。教育の建て直しと称する教育基本法の改正、脳みそ筋肉の、いや訂正筋肉質の政府、二毛作人生が方針として示された。
教育の荒廃を救うのは教育基本法の改正だ(もっと言うと日教組教員の撲滅だ)、というのが安倍氏をはじめ復古調(菅直人のいうところの保守亜流)政治家のホンネだろう。
多くの人にとって、今日公教育が信頼されるものとなっていない。教育の質が悪いこと、子どもたちの学力がひどいことになっていることが共有された認識になっている。で、それにつけ込む政治家が言うのが、戦後教育の抜本的見直し、というフレーズになる。それが国民に翻訳されると、教育基本法で「民主的」な(私はそうでもないと思うが)教育が子どもや教員に甘すぎたからこんなことになったから、厳しくすれば子どもたちの学力も上がる、という話になっている。
ところが現実はどうだろうか。教育基本法の精神をホンネではせせら笑っているような教員が増えた今日こそ、子どもたちの学力は低下しているし、保守亜流政治家たちが教育荒廃の本丸だと言っている日教組が、加入率を下げ続けている今がこの状況なのだ。日教組の加入率が高かった時代こそ、教育の質が高かったということだ。
教育基本法を改正し、左翼的な組合活動をやる教員を撲滅できれば教育水準が上がる、というとんでもないロジックを国民に信じ込ませて、教育基本法改正ちちんぷいで教育改革をやったと思わせている政治家ども、もし万一、教育基本法を改正して学力が下がり続けたら、つまらない観念論で国論を二分させ、本質的な教育改革を遅らせた国賊となる。その場合は、責任取ってほしい。
残念なことに、教育基本法改正に反対する議論では、「戦争できる国にするための教育体制」だとか「民主的な教育を否定する」とか、精神論での反論しかない。これまた安倍晋三と同じ狢である。国民が教育基本法改正しちゃってもいいかな、と思っているのは、そうすれば子どもたちの学力が上がり、塾通いしなくても、少なくともニートやフリーターにならないで済む、と思わされているからだ。であるなら、その国民の期待に依拠した改正論の批判をすべきだろう。教育基本法を変えれば学力が上がるんですか、という問い直しだけでも、冷静になれば相当効果があるはずだ。
●消費税の創設に社会党が反対してしまったから、左翼政党が増税に反対するのは当たり前という空気がある。地方議員を中心に野党系政治家は、増税を「弱いものいじめ」とか理屈にならないことを言う。戦争や革命がないときは、政府財政は所得移転の問屋みたいな存在であって、単純に言えば、財政規模が小さいつまり税金が少なければ所得再配分機能が弱いといえるし、財政規模が大きいつまり税金が多ければ所得再配分機能が強いといえる。つまりリスクや生産手段の共同化を思想的基盤におく左翼政党が増税に反対するのはナンセンスだし、逆に税金を少なくしろというのは金持ちの味方の政党がやるべきことだ。
今回安倍首相が国民負担率を最低にして筋肉質の政府を創ると言っているが、ようやく本質的な議論ができる舞台ができた。安倍政権は政府規模を小さくして、増税をせず、むしろ政府の給付をどんどん切るというのだ。多くの人は公務員の給料を減らせば何だか大きなお金が出てくると考えているが、これは誤解。公務員の給料削減なんて、社会保障のあちこちを切るためのみせしめに過ぎない。
では我々国民はどうするのか。公共事業はおろか、生活保護も保育も介護も年金も医療も切られれば、いざというときのために貯金をかけたり内容が不透明で保険金の払いも不確かな民間保険に恐怖感で入らなくてはならない(今日も損保会社の不払いが発覚)。国民負担率が下がっても、増税がなくなっても、自分たちで見えない税金を払う社会がやってくる。左翼陣営も安倍のような右翼政権が登場して、自分たちがやってきたいい加減な短絡的な政策づくりを改める機会がきたと言える。
●世に倦む日々というブログが不倫が発覚した細野豪志に役職辞任を求め補欠選挙に全力を、と書いている。この不倫問題に「心ある者はこの問題にもっとナーバスにならなくてはならない」って、心ある者って何だろう。自分が無自覚に体得した倫理を「心ある」として押し通す理屈に安倍晋三のような議論の手法を感じてしまう。
今年結婚したカップルの2組に1組が離婚し、家族や私生活が複雑化しているこの時代に、ことさら何の利害関係もないような不倫について騒ぎ立てる神経が理解できない。永田偽メール事件では仕事の不手際だから細野議員に怒って当然だが、不倫問題は次元が違うだろう。基本的には、職業能力と無関係な恋愛に類する政治家のスキャンダルは問うべきではない。政治家の恋愛で実害があるだろうか。まさか女を政治に関わらせると世が乱れるとでも言うつもりだろうか。93年の政治改革と、95年前後からの一連の市民社会のルール確立のための制度改正で、政治家は聖職ではなく、普通の人がなる仕事にしていかなければならない。普通の人並みの私生活のスキャンダルは過度に扱うべきではない。そうでなければ政治家を聖職として特権を回復してやらなくてはならなくなる。
他人の不倫を騒ぎ立て、公党にあれこれ指図するぐらいなら、何らかの批判や抗議の受け皿をきちんと用意すべきだろう。ここまで匿名で偉そうなことを言う人には、右であれ左であれ、ほんとうに嫌なものを感じる。
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コメント
教育基本法改正は多くの教育者の嘘で塗り固められたものです。県、市町村はそれを嘘で塗り固めようとしています。
美しい布で覆い隠そうとしても、醜さはそれを突き破って姿を現します。
投稿: kaze | 2006.10.06 12:39