8/22 社会党からひもとく日本の合意の風景
昨日は、過日亡くなった角屋さんを偲んで、三途の川を渡るぐらいのところでみんなで飲もうという会に出る。日本ではまともに社会民主主義が取り上げられたことがないまま葬られつつある現状を嘆き、いろいろな議論をする。
今日はまた社会党関係者が亡くなった。隣の和光市で精神科の東武中央病院を経営し、後に社会党の参議院議員となった菅野寿さんが亡くなった。この地域の数少ない社会党関係者だった。また、浅沼稲次郎などを送り出した歴史ある派閥河上派の数少ない生存者であった。
今年は、社会党の元議員が次々に亡くなっている。55年体制が終焉し、それを担っていた人間たちの寿命も限界に近づいているということだろう。政治関係者の中では、社会党は滅ぶべくして滅んだ政党だから振り返る価値もないというような扱いをする人が多い。言うことは非現実的だったけども、1970年代までは今の民主党よりはるかにリアルな政治に噛んでいたと言える。
野党第一党の社会党がダメだったのは社会党の特性に原因を求めることが多い。そういう面も多いと思う。しかし、民主党のメール騒動を見ても、野党時代の自民党を見ても、新進党のピケ戦術とその後の崩壊を見ても、あるいは身近な自治組織、例えば町内会や学生自治会、労働組合での主流派に対する非主流派の戦い方も、社会党に共通するノリが多い。社会党的なるものは日本人が主流に反対するときの1つの様式なのではないかと思うこともある。反体制派が自分たちで権力を握る、ということを考えない政治風土があるのか。さらには、権力を握る必要になったら、あっさり反体制派をやめてしまう政治風土ということも言えるかも知れない。
そういう2つの面から社会党の歴史の中で未解明なことは多く、生存者の証言や書き残したものが重要な価値をもってくる。
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