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2006.05.28

5/28 「一部の市民」というレッテル貼り

午前中、マンション管理組合の理事会。防災計画づくりがスタート。副理事長さんが中心にやってくれることになった。管理組合の契約行為のルール化の作業も着手。これは私の仕事になる。近所の住宅公園がマンション敷地内に大きな看板を立てさせてくれ、と申し入れがある。以前にも申し入れがあって断ったものだ。マイカー客相手の商売はバカでかい看板が必要をしている。生活の視線を遮り影ばかりにするし、まちの美観を壊す。

近所にできたセブンイレブンは、昔からあるファミリーマートを潰すために出店した。ところが思うようにファミリーマートの客を奪えず、どんどん看板を大きくしている。マイカーの客には目につくだろうけど、駅前通りを歩いている人の視線には残念ながら入りきらない。

午後は、協働のまちづくり研究会の主催する「市民参加と開かれた行政」を聴きにいく。志木市で市長が交代してから、直接的な市民参加、市民が政策決定に関与してきた志木市民委員会が解散になり、市民参加で進めてきた事業のほとんどが「一部の市民だけが口を出す」として否定されてしまった。その今の状況を聞きたかったが、今のことを言うと現在民間ベースで自主的にやっていることに支障があるのか、昔の話ばかりで残念だった。私は志木の市民委員会がやってきたことは特定の市民の利益ではないし、彼らがいなければ志木市役所がぴりっと締まることもなかったのではないかと思う。

地域社会に思いをもって発言し改革していく市民に、「一部の市民」だから許せない、という農村保守のようなレッテル貼りが行われる。とくに最近は小林よしのりあたりが「プロ市民」などという言葉を発明して、それからなおさらだ。朝霞市でも基地跡地利用の審議会で、どう見ても基地跡地利用で一枚金儲けに噛める不動産屋の委員が、基地跡地利用に抵抗したり商業利用に反対する委員や市民懇談会委員の動きに「一部の市民」というレッテル貼りを行っている。
私はこのようなレッテル貼りは無視すべきだと思う。本人や周囲がそれを真にうけて、誰もが自分が少数だからと発言することを断念してしまったら、再び裁量行政が始まる。そのことでおきる弊害が不正行為だけならよいが、かつての土建業者のように政治と密接に絡み金も権力も操作できるような人間だけがこっそり市役所を動かすようなことに逆戻りすれば、その政策決定の犠牲になる人も多いし、財政規律も政治的に歪められていく。

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コメント

市民参加の現場で、しばしば感じるのが、市民がまだ「公」の視点で自分の意見を客観視することに慣れていないことです。
こんなこと言えば怒られるかもしれませんが、ときに私も「それは一部の…」とか思わずに居られない場面に出くわすことがよくあります。いえね、「一部の市民の意見」は尊重しなければならないのはわかっているのです。だけれども、その当事者に異なる意見を聞く、という姿勢が希薄なことが多いために、辟易することが多いのです。
少なくとも、それが「一部の市民の意見」だという客観的認識を持ってもらわないと、それは市民参加ではなくて、市民運動になってしまう、といつも思っています。

かといって、あまりに高所から対象を眺めるのでは、専門家や行政と変わらないことになってしまって、市民参加の意味が薄れてしまう。
モチベーションとしての「私」を捨てることなく大事にしつつ、いかに「公」の視点で自分を含めて課題を相対化できるか。市民も、もう少しそういうトレーニングを積まないと、市民参加の成功にはまだまだ遠いのではないかと感じています。

投稿: yone-zo | 2006.05.29 00:10

コメントありがとうございます。おっしゃるとおり市民参加の道はまだまだ遠いですね。

優秀な市民活動をされている人も、最初はものすごい極端な意見の持ち主だったりした経験を何度か見ています。北海道で公費なしでDVの保護施設を立ち上げた方は、かつては激烈な(今は穏健な)ウーマンリブの活動家でした。
暴力的に威圧したり、政治力をつかったり、生活から締め付けたり、そういう「一部の意見」の人は何とかすべきですが、「一部の市民」が公につながるためには、まずは発言して世間に議論してもらうところから、だと思います。そのときの扱い方で、良質な市民活動家になったり、穏健な市民になったり、クレーマーになったり、ごろつきになったりしていくのかなぁ、と思っています。

今日の志木の人たちの話の中で、誰かにやらせる市民参加じゃダメで、自分たちの思いをまちづくりに反映させたいんだから、最後は自分が私財を使っても実現する場合にどう調整したいか、そこを考えてやってきた、という言葉に「一部の市民」なりの責任感の持ち方のヒントがありました。そういう市民を野に放り出した志木市の政治はもったいないことをしたと思います。
朝霞では誰がこうした責任ある市民となっていくのでしょうか?まだ見えない状態です。

私も、今の福祉のスタンダードな考え方を広げて、地域福祉計画では発言してきたのですが、一部の方からは「一部の市民」的な見られ方をしています。それをどう捉えたらいいのか、悩みながら進んでいるところです。

投稿: 管理人 | 2006.05.29 00:49

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