朝、テレビを見ていたら、渡部恒三さんが黄門さまと呼ばれているからと、葵の御紋の印籠をもってポーズとっていた。佐幕派の会津藩は、何かと薩長をかばった水戸徳川の真似をしてひんしゅくを買わないのか心配になる。
●新交通システムのゆりかもめが止まる。私は新交通システムが嫌いだ。混んでいるし狭いし、遅いし乗り心地がわるい。今回車輪が外れるというトラブルがあったが、汎用性のない交通システムはトラブルに弱いと思う。
新交通システムが近未来の夢として語られて、神戸のポートライナーを皮切りにいくつかの地域で導入されてきた。亡くなった交通評論家の岡並木さんは、「新交通システム」は新交通システムではない、と指摘されていた。新交通システムとはもともと、もっとパーソナルで、オンデマンドで、タクシーと公共交通の中間的なシステムが想像されてきた。1970年代の未来図によく描かれている、コンクリート軌道の上を走る観覧車のゴンドラ状の乗り物が「新交通システム」の見本だ。
ところが現実には、需要計算が思うように出てこないようなところに公共事業として電車を通すためのつじつま合わせのために、電車とバスの中間的な乗り物という「中量輸送機関」などというカテゴリーがつくられ、「新交通システム」の中身が定義しなおされた。そして、単にコンクリート軌道に小さな車体の車両がトロトロと走る、採算と実用性の低い乗り物が全国各地に建設された。埼玉新交通、千葉モノレール、北九州、多摩モノレール、名古屋の桃花台新交通、どこもここも、赤字を垂れ流し、自治体の財政まで巻き込む結果となったり、借金整理の目処がたたない状態になっている。
最初に乗った埼玉新交通は、低速で、高校の下校時間などにぶつかりちょっと人が乗ってくると、猛烈な混雑になる。ゴムタイヤなので一定の定員以上は乗車制限を受けてしまう。加速減速がきつく、路面の衝撃がたえまなく伝わってくる。二度と乗りたくないと思った。ゆりかもめも座れないと疲れるだけの乗り物で、できる限り乗りたくない(もっとも臨海新都心が●●●ヒルズなんかと似た没個性的な街、嫌いで行かないが)。利用者のことなんかあんまり考えられなくて、コンクリート業者のために開発されたシステムと思う。
わたしが本当の意味で新交通システムと認められるのは、バスに線路をくっつけた名古屋の志段味線で、これはそこらに走っているバスが、専用軌道部分があるところだけモノレールのように走り、またそれが切れると普通のバスに戻るというすぐれもの。需要が高いところや、交通のネックになるところだけ専用軌道をつくればいい。また既存のバス路線を移設していけばいいので、需要予測も外れない。路面電車方式のバス路線「基幹バス」とともにバス以上の需要をどうこなすか、というノウハウで参考になる。
「新交通システム」が経営的に成り立たないことがわかってきて、これ以上の建設はないだろうと思うが、考え方の転換をまったくしないままに、言葉だけ新しくして全国各地で建設推進運動が進められているのが、路面電車である。
全国各地で、地下鉄建設の無駄とモータリゼーションの反省の両面から路面電車が見直され、その新定義という意味合いで「LRT(ライト・レール・トレイン)」という言葉を使って建設推進運動が展開されている。そのこと自体はいいことだと思うが、宇都宮市やさいたま市の路面電車建設推進の取り組みを見ていると、自己目的化しているのでなはいかと思う。それも、単にかつての路面電車と同様のものを車両だけ低床型の新車を入れればいいというような内容のものだ。路面電車の経営が成り立っている街は、広島のように一定の市街地に路線網を細かく張り巡らせているところか、長崎市や鹿児島市、高知市など地理的条件で市街地が細長いところが多い。宇都宮市やさいたま市のように同心円的に郊外が広がってしまった街には1本や2本路線を造っても特定の住民にしか利用されず採算に合わないと思う。
「LRT」は路面電車のことではない。従来の鉄道の固定観念を超えて、都市の実情にあわせて便利に作り直した鉄道ぐらいの意味である。それが既存のものでいうと路面電車のイメージに重なるというものに過ぎない。
必要に応じて地下や高架をつくり、郊外電車と乗り入れしたり、バリアフリーをやったり、いろいろな可能性を模索しないと「LRT」というにはおこがましい。
新交通システムも、LRTもどうしてこんなに固定観念で、通勤電車を水で薄めたようなものしか構想されないのだろうか。私はこれも自治体にたかる建設業者たちを中心とした建設推進運動だからではないかと思う。市民も利用者も彼らのつくりたい願望につきあわされて、固定観念の手のひらの中で踊らされて、「あったら便利だとおもう」という願望的政策要求に転化していくのだろう。