1/8 エートスを変える難しさ
借りてきたDVDで映画「カルメン」を見る。成人映画指定されていたが、どう見たらそうなるかと思った。単なる毒婦と身を崩したマッチョの話かとおもったら、19世紀のスペインの近代化の中での、新旧エートスの葛藤の話なんだ。へぇ。
午後は引き続き、拾い読みしている「民主と愛国」を読み続ける。戦後の左翼と右翼のイデオロギー暴露書だ。
教育界が右も左も神学論争好きなのは、戦後、公職追放も農地解放や労組結成のようなドラスティックな構造変化がなかったためだという分析が面白い。また、戦後の左翼教育学者は、反米という前提をおきながら、戦後教育は、民族性を失わせた、教育勅語にならぶ精神的教育が無い、などと強烈に主張し、プラグマティズムを否定していた話は興味深い。
高校生のときに、60年代前半まで共産党員だったという家父長制的体質丸出しの校長と、その高校の教育が有効なのか交渉のような論争をしたことがある。その高校の教育の有効性に議論が行くたびに、GHQが持ち込んで占領期にやっていた「生活単元教育」批判を延々展開し、プラグマティズムが良くない(言葉の裏には俺の教育方針に従って修行していればいいんだ)と、信念の世界に議論を引き込み、私たちの批判を正面から受け止めなかったことを思い出す。
1950年代後半に日教組はそうした左翼民族主義を棄てたようだし、左翼業界も60年安保や全共闘運動で過去の権威の強烈な否定とともに、共産党以外の左翼は民族主義を否定した。そのため今では誰もそんなこと覚えていない。つくる会教科書の編集や採択に躍起になっている復古調の教育学者の過去を調べると、共産党系の教育研究者だった例は珍しくない。源流がそんなところにあれば、超えるハードルは低い。
●恩人のブログで知った情報。鷲宮町で、親の食育の精神をたたき直そうという目的で給食の一部を廃止することが議会で通ったらしい。あほかと思う。
給食をなくすとどのようなことが起こるのか、全く洞察を欠いている。コンビニ弁当持たせればいい方。サプリメントやスナック菓子もいい。ひどい親は何も持たせない。それでいいのだろうか。
食事を作れない親がいてもいいと思う。もし食事を作れない親が問題だ、という設定をするにしても、親を放置したまま、弁当もってこいでは何の解決にもならない。それは食育にならない。
むしろ給食をきちんとさせて、どの子どもに安心を与えること、次に、その給食調理は作りっぱなしではなく、保護者を巻き込んで食事の作り方を伝えていくことが必要だ。
自動車や機械の技術に関しては問題解決する思考能力が高い日本人だが、教育や福祉などの人的サービスに関しては具体策のない根性主義しか出てこないのはなぜだろうか。ひまも金も持て余して道楽でやっている地方議員は、生活で手一杯な若い親たちをよく叩きたがる。
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