12/18 兵士をどこまで美化できるか
「男たちの大和」、戦艦大和の最後の出撃に参加した兵士たちのお涙頂戴映画が出ているらしい。映画そのものは見ていないが、テレビ番組で長時間にわたって紹介していたそのあらすじでは、戦争という人間集団どうしの政治問題を、必ず死に至る戦地に動員される一兵士の自己犠牲の精神の高さにすりかえ、その精神性を美化して戦争の再発がないよう誓うというものらしいだが、何か違和感だらけだ。
美談に感動してお涙流すのは仕方がないし1つの娯楽としての快感がある(先日、韓国のある映画を見てぼろぼろ泣いてしまったのでとやかく言えない)。しかし、戦争の犠牲になった兵士を哀れ悼むにとどまらず、個々の兵士の精神性を極端にまで美化し、気分を同化させて、へんてこりんなナショナリズムと歪んだ反戦思想をないまぜに垂れ流すことの社会的悪影響は大きい。
先の大戦の本質的なものや、清濁の濁の部分を全消去しているようで、納得がいかない。そういう総括の仕方が、小泉首相のように「戦争で亡くなった英霊を心から悼むことがどうしていけないのだ」という、単細胞的で、周辺諸国や異教徒に鈍感な発言が行われることになる。
こうした発想に至るのは、育児論などにもよく見られる日本的な因果応報思想だと思う。私にとはとても奇異な思考方法に見えるのだが、多くの日本人はこういう考え方をするらしい。
問題が起きると、その原因を分析して解決策を提示するというのではなく、問題のおきた動機や関わった人物の精神性にすりかえ、その動機や精神性の高低で問題を評価して終えてしまうものである。○○したからこうなった(ざまみろ、あるいは、さすが)と。これでちっとも問題解決は進まないし、動機の純粋性さえ担保されていれば、どんな悪人も最悪の事態から逃れられる。そんなことをやってきたから、役所の不祥事も、民間企業のモラルなき商売も、内部で問題解決されることがないのではないか。
同様の価値観のすり替えは、橋田寿賀子にもみられる(もともと女の苦節を描いているような顔して、耐えてればそのうち和解できるのよ、というモチーフのドラマばっかりで、悪しき因果応報思想の固まりで好きではないが)。
80歳になった橋田寿賀子が、ブラジル移民の日系人のドラマの脚本を書いた感想で、日本にはほんとうの日本人が日本の男がいなくなったから民族性にこだわり骨っぽい苦労をした日本人を描きたかった、というようなことを言い放った。戦前のような緊張感の高い社会に戻せば精神性が高くなって世の中規律的になる、とでも言いたいのだろうか。
もちろん先の大戦で駒のように使われ、亡くなった兵士たちを後世のものとして悼みたい。しかし、彼らがそんなに精神性が高かったか、低かったか、なんてことはどうでもよい。さらには、精神性の高さも低さも関係のないところで戦争に巻き込まれ死んでいった国内外の民間人、思想統制の犠牲になった人たちへの想像力をもっていきたい。
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コメント
「問題が起きると、その原因を分析して…」というのが本来の因果応報思想なんですけどね。「日本的な因果応報思想」という言葉で上記のような批判をするのはよく分かりません。「問題のおきた動機や関わった人物の精神性にすりかえ、その動機や精神性の高低で問題を評価して終えてしまう」というのはインド的でも日本的でも因果応報思想では導き得ません。むしろ、江戸時代までの(サブカル化しておかしくなったものもありますが)仏教的な因果応報思想を否定して出現した、国学ロマン主義による因果否定の思想に基づいています。大和に関して言えば、「自己犠牲の精神」に酔って客観性を失った作戦立案の結果が、作戦の失敗(大和の沈没)だったわけで、まさに因果応報の視点で人間の無明の深さを観じるのが正しい見方かも知れません。日本的であれ何であれ、因果応報思想を身に付けていれば、戦争で人殺しに行った人間が幸福になるわけがありません。どうせ不幸になる行為をした人の愚かさを悲しんで、自分は悪い事をしないようにしようと心がける(解決策の提示)のが因果応報の思想です。因果法則を無視して、妄想に殉じることを美化するのは、仏教憎しのルサンチマンで神道を巨大な妄想体系にまで仕立て上げた病気の思想家たちです。ゆめゆめお間違えのなきように。
さて、他所で書いたことですが、山本七平が、小松真一『虜人日記』を解説した『日本はなぜ敗れるのか』は、精兵でも若くもない男が、戦争で万が一召集されるとしても、アフリカの奴隷船並みの密度で船倉に詰め込まれて、ベルトコンベアのように半自動的に魚雷で沈められる要員(実数ではなく員数)になるのが関の山なんだよ、というとってもリアルな想像力を喚起してくれるという意味で、必読だと思います。「自己犠牲の精神」に酔うどころか、愚息もしょんぼりです。
では、お幸せでありますように。
投稿: 寺男 | 2005.12.19 05:00
安直に因果といってはいけなかったですね。精神性ばかりを重視するのは実は国学ロマン主義的なるものですね。
私が「日本的因果応報思想」と書いたものは迷信と言った方が正確でした。仏教界におられる方々にたいへん失礼な物言いでした。
今、梅原の「神々の流ざん」を読んでいますが、国学に支えられた日本近代はおそろしく非合理な思想によって支えられていることを学びます。梅原は神仏対立を戒めていますが。
投稿: 管理人 | 2005.12.19 19:05