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2005.10.07

10/7 消極的護憲宣言

憲法改正の議論が進み始めている。民主党も悪のりしている。私は特段護憲を強調することはしないが、今の改憲を主張する人たちの言っていることが、安全保障問題以外はほとんどとんちんかんで、与することができない。
ポジティブな面を強調する、環境権、プライバシー権って何だ。プライバシー権は、個人情報保護法を見ればその弊害の方が大きいことがわかってきた。

個人情報保護法の精神の伝播は、選挙や市民運動から始まって、クラス会や保護者会の人間関係すら分断をする結果になった。さらにはマスメディアなど一方的な情報だけが信仰の対象となったしまった。

離婚しようが、不倫しようが、人のプライバシーに一方的な評価を下すような社会でなければ、プライバシーが過度に強調される必要はなくなる。身体障害者がまさにそうで、かつては身内に身体障害者がいただけで、差別と偏見に充ち満ちた扱いを受けたが、障害者全体への偏見が解消されていく中で、親族に障害者がいることをことさら隠すような人は少なくなっている。むしろ、理解を周囲に求め、障害当事者や家族を支援していこうという人も出てきたぐらいだ。
まずは差別や偏見のない社会をつくっていくことから始め、プライバシーは権力や暴力から保護されるものだという基本的な考えに到達することが大切で、差別や偏見を放置して、プライバシーをやれば見えるものが見えなくなるのだ。

環境権も何かと言いたい。環境が単に清潔(デオドラント)な環境を指すのか、自分たちが健康で暮らすことだけに価値を見いだすことを指すのか、人間が不便を強いられても自然のあるがままを守る、ということのなのか皆目わからない。
単に清潔を求める権利なんて社会を窒息させるし汚染が進み自然環境は破壊するだろう。健康で暮らせることだけに価値を見いだせば、障害者や皮膚病、呼吸器系疾患を持っている人は悪い環境にいるからだと存在を抹殺するメルクマールにされるだろう。人間の不便に任せあるがままの自然を守るといえば、権利ではなくて抑圧や少なくとも規制になったり、あるいは石原慎太郎のようにダービニズムの論理を全面展開することになるわけで、そうした概念が政策としては実行可能だと思うが、権利として確立できるのか、疑問である。
例えば、山の上のマンションの景観は財産権として確立している。さらにそれはまた環境権になりうると思うが、ではその山にマンションを建てるために自然を破壊することは、環境権の考えでどう整理できるのだろうか。

右翼のように権利を主張する奴は社会を滅ぼすとは言う考えには反対だが、人類の進歩が権利の種類の増殖にあると考える単細胞的思考と、憲法を改正することで自分が国家百年の計を考えているつもりになれる勘違いが、政治家の中で合成されると、こうした論理矛盾、現実矛盾のようなことを平気でやらかすのだろう。

わが労組の大会で憲法を死んでも守ると答弁した役員がいたが、私はそれは論理矛盾だと思っているし、国民主権の実効性の担保や、国会による行政監視システムの確立、参議院の役割見直しや廃止などを考えると憲法改正は必要だと思うところもある。
しかし今はそうした議論はされていない。環境権、プライバシー権などとどう転ぶかわからない権利と引き替えに大切なその他の人権を手放したり、いたずらに政治家が有権者に課してくる責務が増えたり、あるいは乱暴な平和の議論が進められる可能性が強く、そんなことなら、消極的護憲にならざるを得ない。

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