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2005.10.07

10/7② 親の自覚強化論が児童虐待を放置してきた

少子化問題のおかげで少しは子育ての問題が社会の大きなところで議論されるようになった。
で、日経新聞ばかり読んでいる人は、少子化=経済低迷と思いこまされ、いかに子どもを増やすか、ということばかり考えているが、実際に日本はニートがいたり、若年失業があったりで、本当の原因は違うところにあるけども、現象としては、人余りなのだ。
子どもが増えることではなくて、次の世代をどうやって育てていくか、ということに少し力点がシフトしている。だから少子化対策に代わり、次世代育成という言葉が出てきている。私もこの展開におおむね賛成である。子どもが増えようが減ろうが、どちらでもよい。高齢者の比率が高ければ高齢者を労働力にすればいい。それより子どもたちがいきいきと生きられる社会をどれだけ用意できるか、試されている。

【親の自覚強化論が子殺しを黙認してきた】
さて、話の本題はそんな少子化ではなく、少子化の議論がどうして矮小化されるのか、という私の煮えたぎる問題意識にある。
子どもは次の社会を創造する人たちのことでありながら、子育てという営みが今のところ家庭を中心とした私の領域で行われているため、子どもの議論をすると、教育や児童福祉、あるいは子どもにとって良好な環境づくりといった社会システムの改良の話が、単なる親の自覚論、子どもの精神強化論にすり替えられやすい。そして議論の混乱に乗じて行政の怠慢を誘発することが多い。児童虐待防止もたった6年前まで、虐待を受けている子どもたちは、親の自覚が足りないからだと議論され、一部の専門家に救済される場合以外は放置されてきた。ようやく子殺しがクローズアップされて、自覚がない親を持ったばかりに子どもが殺されても仕方がない、という理屈が成り立たないことを多くの人がわかるようになってきて、政治課題にのり、政策が前進してきた。

しかし、その一方で、親が親であることの自覚を強化させるような考えが、保守でない側にも強まってきた。特に無認可を含めれば保育所の整備が急速に進み制度も多様化してきた中で、お金さえ使えばやむを得ない事情以外にも保育サービスを利用できるようになってきた。政策としてもそれが良好な親子関係を長続きさせるために重要だと位置づけられている。私もそう思う。しかし、そうした保育サービスの積極的利用が「自覚のない親」に映り、親が親である権利を主張するあまりに、保育サービスを「安易に利用」する親に対する揶揄がひどくなっている。
あたかも介護保険制度がつくられる前夜までの高齢者介護と同じだ。高齢者の介護をヨメにタダで押しつけておきながら、押しつけた人たちが介護でくたくたなヨメを好き勝手に非難してきた過去の現実を思い出す。それでヨメも高齢者はいい暮らしができただろうか。ヨメが潰れないために、何でも良いから高齢者を病院に縛り付けておけ、という結果(社会的入院)になったのではないか。介護保険がその地獄的人間関係を解放に向け駒を進めた。

【母子密着子育ては右肩上がり経済の幻想】
日本では、親の自覚によって子育てをしてきたのは、戦後の高度成長期以後だ。それ以前、親子だけで煮詰まる子育てをしてきたのは、中級下級武士階級と高級官僚(今の高級官僚と段違いに格が上)の家庭だけだ。多くの日本人は子育てだからと農作業をさぼったり、家事をしない言い訳は通じなかった。今でも商店を営む家がそうだ。保育学者の汐見稔幸の話はそういうようなことを解明している。

子育て政策を論じるときに最初に立つべきところは、子ども自身にとって良好な環境で育てられるべきだ、ということである。これは大人が一方的な価値観で決めた良好な環境ではないことが重要だ。例えば、夜間働きたくない保育士や専業主婦が良く「保育園に預けられている子はかわいそう」と言う。しかし5年ぐらい前の調査で、保育園で長時間保育をしている児童がストレスを感じているかどうか、というのは証明されず、むしろ保育者と子の良好な関係次第という結果が出ている。夜間保育園の団体も同様の結果を出している。乱暴な言い方をすれば、ろくな子育てできない親に長時間家庭内で監視されるなら、保育所でプロや友だちに育てられたほうが良い(子どもとの折り合いが悪い親を弁護すればそれは時間軸の問題で、赤ちゃんのときにてこずった子がある成長の段階では非常に良好になったり、逆の場合もあるので、子どもとの関係が悪いことを嘆く必要はない)。

また、政策や制度というものは、すべての人に適用されるものであるから、価値観にある程度中立であるべきで、精神訓を注入するような施策は採れない実効性も上がらない。
親に親たる自覚を持て、という施策は採れないのである。実際、そんな精神訓を政府や公的教育機関から押し込まれても、おむつの換え方も、子どもの抱き方も、子どもとの遊び方も知らないでは子育てなんかままならない。アジアの人のこと何も知らないで、アジア解放を信じた帝国陸軍の二等兵と変わらない、全くナンセンスかつ敗北の論理による議論なのだ。

高度成長以後の、親に自覚を期待して、親子密着の関係の中で子どもが育つということを前提にした社会は、もう転換期に入っていると思うし、離婚率の上昇、そしてこの後おこる再婚家庭の増加、構造改革による労働強化の進行など考えると、自覚ある親による親子密着を前提にしたシステムは根本から見直さなくてはならないと思う。もう保育所に預ける親=育児放棄なんて単純な理屈は言っていられなくなる。そうなれば昔の日本のように放牧型子育てを見直さなくてはならないし、あるいはひどい場合にはイスラエルのようなキブツ(子どもどうしの共同生活所)も想定しなくてはならないと思う。

【求められる政策はダメ親が語るべき】
子育ての議論に参加することが、自覚的かつ模範的な親でなければならない、という幻想や重圧がそうした言説を流行させてしまうのだろう。私は、むしろダメ親が、その厳しさの中で見つけだした、子どもと良好な関係でいられるための舞台装置、それをもっと語ってほしいし、そうしたものが政策になっていくことを望みたい。

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