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2005.10.29

10/28 財政のための市民参加の限界

昨日の怒りがおさまらない。見通しが絶望的であるにもかかわらず、あんまり絶望的な怒りではない。それはいろいろな策が思いつくからだ。

自分が公正中立な立場だから最善の判断を下している、というのが本庁にいる公務員の陥りがちなミステイクだと思うが、その論理を正当化しているのが「行政法学」という独特の法解釈だということは、法政大の松下圭一名誉教授が解明している。自治官僚だった鈴木俊一が、日本国憲法で国民主権という概念が入ったときに、その基本原理を希釈しようとして、三権分立を持ち出し、権力の牽制関係を三権の独立性に議論をすりかえ、国民が選んだ立法府が表向き行政府に口出ししにくくした。

爾来、有権者が政府に口出しする表側のチャンネルは閉ざされ、公務員が政府提案の立法を進めることの取引材料として、政治家が口利きで持ってくる国民の要求のみ反映されるシステムとなった。これは公務員も政治家もお互いの権限と独占的地位を利用でき、政権交代もない中で、何らチェックも受けないシステムとなった。たまに会計監査院が重箱の隅をつつくような行政のミスを指摘するにとどまる。

裁量行政というのはそのような特異な環境の中で生まれ、有権者の直接的な意見を聴くことは、偏りとみなされ、一方で有権者や団体の意見を聴くのに非公式な場が重用されている。役所が今日的課題として求められている開かれた場での、市民との連携、横(部課係間)の連携、当事者との対話ということが、国民不在の三権分立の考え方の中でなかなかうまく行かないのは必然かも知れない。公務員試験ではこうしたことが当たり前という行政法学の「正解」を刷り込まれて庁舎に飛び込んでくる。

地域福祉計画でこれまで多くの市職員とヒアリングやおしゃべりで話をする機会があったが、口では市民参加が必要だ、と言っていただける。しかしその本音は「市の財政が立ちゆかなくなる危険性がある」からであり、職員自らが仕事のやり方を変えてみることよりも、自分たちは今までの仕事のやり方のままで、リストラした分は市民を働かせておこうという提案しか出てこない。市民は市役所の奴隷ではないのだからこうした発想はよく考えるとおかしい。
自分たちのまちを自分たちで提案し、話し合い、決め、実行する、という全体像がともなう市民参加がない限り、そして市職員がそうしたプロセスを尊重しない限り、みんなのために力を出そうとする、みんなのために我慢をしてみるという、まちを心の底から大切にする市民感情は生まれにくいだろう。

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コメント

市民参加もそうですが、計画にはいろいろ綺麗な言葉は踊るのですが、結局ほんの少しの事例をアリバイにして、「やってます」「やりました」と言ってるだけで、実際は何も変わってないというのが実状で、文章上のバーチャルな世界の出来事という感じがします。

投稿: wacky | 2005.11.02 21:05

世の中は公務員を全否定しようとしている時代の中で、うちの町はのんきなものです。
計画に文章を盛り込み、突破口を開くことが大事でありながら、いくらでも怠慢することを許されるということが不満ではあります。しかし突破口を開かないと次にも行かないのが公務員たちなので、そこは徹底的に議論を重ねたいと思いますが、逃げているから・・・。

投稿: 管理人 | 2005.11.02 23:04

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