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2005.06.06

6/6 プロテスタンティズムと体罰主義の精神

5日は、目黒チャイルドラインで、東京大学教授で子育ての研究家の汐見稔幸さんの講演「しつけってなぁに-幼児虐待事件から垣間見えるしつけという言葉の意味・考え方について」を聴きに行った。
江戸期までの日本人の子育ては怒ることをあまりせず、子ども集団の中でことわざや、体験から学ぶことをした、ということ、しつけが今日的な意味、つまり場合によっては殴ってでも言い聞かせる、というニュアンスを持つようになったのはルターやカルバンなどプロテスタンティズムの教育の影響だ、ということはいい話だった。

プロテスタンティズムがもたらした近代は明るいイメージがあるが、実は近代は暗黒から始まったというような蛇足の話もいい。多くの専業主婦の前で、汐見さんが「カルバン派は夕方、反省会をします。あなた、たまたま通りかがったお兄さんがいい男だなぁ、なんて思ったら、それを反省会で告白しなければ地獄に行く。では反省会で告白したらどうなると思いますか」主婦「外出できなくなるのかな」汐見さん「そんな甘くはない、死刑ですよ死刑」。うむ、汐見先生は言わないが、近代は北朝鮮状態から始まっているのだ。

話は戻して、森派・民主党右派・文教族の政治家や、巷の俗論で「日本の伝統を教え込むべき、子どもを甘やかすからしつけがなっていない」と良く言う。そんな発想は伝統でも何でもない。明治期にプロテスタンティズムを導入した近代主義者の価値観なのだ。伝統から言えば、日本のしつけは甘やかしながら、丁寧に子どもに接しながら自覚を促すようにやってきたようだ。そういえば、今も伝統芸能では、あれこれ所作を教え込むのではなく、やってダメだしして、自分で考えさせるということをしている。そして頭のうわっつらではないところの奥深くに体得するように教えている。

家庭でのしつけ、というのも、戦後の高度成長まで実質的にはできていなかったという話も、その通りだと思う。家庭がしつけをする、というのは戦後の高度成長で専業主婦にヒマができてからの話だ。それまで妻は一日中働き、たくさんの子を養い、とても1人1人の子にしつけなんてやってられなかったはずなのだ。

ただやはり、今の子たちは、塾や親による囲い込みで、子どもどうしでいろいろな体験をする機会を奪われている。結果として社会性が身につかず「甘やかされた」ような状態におかれているのかも知れない。

今日、久しぶりに上司、同僚と飲む。労組職員として生きるには専門性だ、でないと社内人事に溺れてしまう、と力説された。

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