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2005.05.15

5/15 脱学級化の社会

子どもの居場所を考えるシンポジウムを聴く。
川崎市で自宅を開放してグループホームを運営し、不登校の子と場づくりをしている西野さんの話がとても良かった。西野さんに対抗して学校長OBたちが学校復帰NPOをつくって何が何でも学校に戻そうという運動をやっていると聴いてうーんとなってしまう。
杉並区が中高生の居場所「ゆう」を創った話もいい。中高生だけが居場所がない、どこに行っても肩身が狭い思いをする、というのはそうだろうと思う。だからといって街に繰り出せば補導されたりややこしい今の社会だから。
最後に埼玉大の岩川直樹さんの話。社会全体が猛烈な学校化が進んでいるという。

「子どもをとりまく大人たちのまなざしから、おおらかでユーモラスな表情のある面差しが消え、一方的で機械的な狭苦しい監視と評定の視点で埋め尽くされていく。学校では、学力の一斉調査、各種の「○○力(○藤孝か)」評定、心のノート、監視カメラ。その子どもに対するその教師の自律的な応答責任のかわりに、学びと暮らしの細部にわたって一律の物差しが子どもに当てはめられ、新たな監視と評定、処罰と報償、統制と競争による役場と市場の場づくりが浸透する。(中略)生活の状況のそこここに埋め込まれたそれらの学力商品に絶えず危機感と欲望を呼びかけられる親たち。」

という話に、同感し、また私の高校の自由教育も、こうしたことから自由ではなく、むしろこうした価値観のもっとも隷属した取り組みをしていたのではないか、と、厳しい出席点検や、過大に強調する中高時代の「学び」の重要性などから、思うところが多い。

●「学級の歴史学」(講談社選書メチエ)書き出しがおもしろい。
「教育言説」というものに、今の学校の学級システムを何一つ否定するものがない、学級というものがあることを前提にした教育議論しかないのに、へんな願望を織り交ぜた「教育言説」で教育政策が語られている、と皮肉を言う。右も左もその通りだ。
右は、明治維新を担った志士の勉強の場、たとえば松下村塾は、教室なんて堅苦しいものではなく、生活の都合に合わせて登校し、下校する、当然学級などない、というのはいい。学級を前提にしたシステムで、松下村塾の偉大さを教えるのは矛盾かも知れない。
また、学級というものが日本ではさらに師弟関係まで持ち込まれ、学級共同体説や教師生徒一体性言説、というのが、うさんくさい金八神話や、熱血教師伝説ができてくるのだろう。
学級というものが、貧民教育をするために、教育を大衆化、高速化するためにつくりだされた便利な手法ということを教えてくれる。この限界を知らずに、いじめや非行で教師を問いつめても、学校を問いつめてもしょうもない、ということだろう。


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