4/4 近代的に見えながら
ここ数日、コメントをいただいたり、多くの方にアクセスしていただいてありがたい限りです。そこで見ていただいている年金の議論にしてもそうですし、格差社会の議論にしてもそうですが、自己責任論的立場の方の意見には、問題から因果関係を類推して自業自得という結論を導き出す考えが多いです。それは近代的な自己責任論的な考え方のように見えて、宗教的な因果応報の考え方のままではないか、と疑っています。
格差社会の問題でいえば、頑張った者が報われるの頑張ったにいろいろな種類があって、そのなかの都合のよいところだけを結果からセレクトして評価しているに過ぎないのです。
オレオレ詐欺でお金持ちになった人たちも、一所懸命いい名簿さがして電話かけて頑張ったから報われたとも言えます。しかし人のためにもならず人を騙して濡れ手に粟で汚いという言い方もできます。
NPOで福祉事業なんかやってる人たちの多くは低収入にあえいでいます。国や自治体の補助もあまり受けずに国や自治体がやらないけども自分たちが地域で必要だと思う活動をして、利用者にコストがかからないようにしているからです。これは頑張ったのに報われないとも言えますし、もっと利用者に無理言って料金上げて儲けたほうがいいんじゃない、とも言えます。
日本の戦後の経済成長も、頑張ったからなのか、チャンスがあったからなのか、エリートの善導がうまくいったのか、本当のところは評価が定まっていないと思います。
だから、報われたのは頑張ったからだ、と言い張るのは、お金持ちであること自体を正当化できない卑屈な態度なのです。お金持ちになった自分に誇りがあるなら頑張ったなんて因果応報の考え方を持ち出さなくても、お金持ちの自分の状態を誇ればいいのです。
年金の問題でいえば、社会制度の話なので本当の結果責任が求められます。あのときああだったから仕方がない、では不可です。
私は、個々人の生き方はともかく、社会の制度において、結果においてダメであればプロセスがどうであれダメだと思っています。制度を良くして飢え死にする人が減るのであれば、政権は制度改革すべきだと思います。制度の改革をやった上で自分の身の丈にあわせた老後の備えができない人(例えば生活費が月100万もかかる人なのに公的年金しか備えがないなど)に、言ってあげることばが自業自得とか老後の備えをしなかったくせに、だと思うのです。
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コメント
3つめのパラグラフ冒頭の「だから」がちょっと理解できないのですが、「報われたのは頑張ったからだ、と言い張るのは、お金持ちであること自体を正当化できない卑屈な態度」であるという根拠はどちらでしょうか。
また、詐欺師とボランティアの比較の段では、両者において目的が全く違うという見落としはありませんか。つまり、「お金を得る」という目的においては(倫理的な問題は別として)詐欺の方がボランティアより優れており、それは正当な成果主義・格差容認の証明になってしまいます。格差社会という言葉の「格差」はお金のことなのに、「頑張ったに種類がある」と言う時にはお金のことに限定されていない。論理的におかしいと思いますがどうでしょう。
もう一つ、格差容認派は頑張ったか否かは問題としません。「才能があって頑張らずに稼げる人」や「要領が悪くて頑張っても稼げない人」がいます。つまり能力と努力の積に対する成果主義を是とするのが格差容認派ではないでしょうか。「頑張ってるのに報われない人がいる」という論には「それはやり方が間違ってる/能力が低いからだ」と反論します。
投稿: kusse | 2005.04.06 01:06
確かにだからの前の説明が落ちていましたね。こちらのミスです。「だから」は削除してお読みとりください。
2段めはおっしゃっていることの意味がわかりません。どう頑張ったって工夫したって原資のない仕事をしている人はお金で高い報いを受けることは考えにくいことです。格差がついて仕方がない、だって頑張らなかったからだ、工夫しなかったからだ、能力がないからだ、と断定できますか、という問いかけをしているのです。
3段め、格差容認論は頑張ったか頑張らなかったか、を問わないというのは違うと思います。少なくとも、格差容認の構造改革をするときに政治家やそのお抱えの経済学者たちが絶叫していた言葉は「がんばった者が報われる」という平明なスローガンだったと記憶しています。
この社会にもっと格差ができたとして、大金持ちがいて、その大金持ちが私の前に表れたときには「どうだ、お金があっていいだろう」とすっきり言ってほしいと思います。それには「すげぇ」と敬服したいですね。しかし、お前も頑張っておけば、能力があれば、やり方が良ければ、そんなことは言う上層階級は品のない人だと思います。
投稿: 管理人 | 2005.04.07 23:12