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2005.04.23

4/23② 空き地の公共性

何年か前に、埼玉県に住んで何がよかったか、というアンケートで自然が多い、という回答が多かったような記憶がある。

私自身は街の子で、商店街の中で育ったせいで、がけのある幼稚園以外に自然に触れて遊ぶ経験はあまりなかった。だから埼玉=自然が豊か、なんていうのは思いこみだと今でも思っている。私は路地で近所の子といろいろな遊びをした記憶のほうが大きい。路地には駄菓子屋があって、そこのおばちゃんが私たちを見守ってくれた。
そうそう、それでもあなぼこ掘ったり、草に戯れたりしたことはあったなぁ、なんて思い出すと、うなぎ屋の裏のマンション予定地が空き地としてみんなに使われていたことを思い出す。私が十分おとなった頃、マンションになって空き地はなくなった。

バブル前後から、マンション予定地のような民有の空き地がなくなった。みんな鉄板の囲いで覆われ、強烈な私有財産権の主張を始めるようになった。そこで事故があったときの責任は、などという最もらしい理由で。

ここでも何回か紹介したスウェーデンの中学教科書では、最初に社会の約束ごととして法律と、伝統にもとづく慣習法であるアレマンスレットが紹介される。その中には、「たとえその土地を所有していなくても、住宅などが建っていない川の岸辺や海岸に踏み入ることができる」「他人の所有する土地や森を歩き回ることができ、テントを張ることができる。その場合、テントは建築物から適当に離れている必要がある・・・」。
「ロッタちゃんと赤い自転車」というスウェーデンのきかん坊の女の子の映画があった。主人公の子どもが他人の土地に入ってピクニックをしていた。スウェーデンは使われていない土地は公共(みんな)に利用権がある、という考え方をしているのだろうか。

●朝日新聞、毎日新聞の埼玉版が相次いでさいたま市の合併2年・政令市移行1年の内容を検証する連載をした。公共施設を準備せず、マンションの乱開発を許してしまったことで、とても子育てのしにくい町になっている、と報じられたが、朝霞市も状況は同じだ。さらにサラリーマン階層が市の行政にまったく影響力がないので、そうした人たちのニーズや怒りが全然伝わらないのが、事態をさらに悪化させている。
土地利用に関する公共性との調和、まちづくりとの調和が求められて、都市マスタープランづくりでは住民参画のまちづくりを求めている。しかし、先日配られた朝霞市都市マスタープランは、市内の地域をイメージだけでゾーニングして、商業中心のまちづくり、とか、住宅中心のまちづくり、と色分けしているだけである。計画段階で住民参加はあったようだが、そもそも住民が地域のまちづくりを継続的に考えていく方策はない。だからマンションがこの地域の環境や社会サービスの需給バランスにとって良くない、と地域住民が思っても、住民自身は考える場も意見を言う場も用意されていない。市も地方分権以前の機関委任事務の体質のままで開発規制する術もなく乱開発を許してしまう。

他にもこの連載では、合併してから行政サービスに対して無責任になってきた旧与野市の話があったりして面白い。自治体は大きければいいというものではないことがわかる。

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